生き様はそれぞれ
何もない空間に、一人の男がぽつんと立っていた。
周囲には何もない。
地面もなければ、空もない。
ただ、どこまでも白く、どこまでも果てしない空間だけが広がっている。
男はしばらく辺りを見回した。
顔には、長年の疲労がにじんでいる。
髪には白髪が混じり、年齢は四十代後半から五十代ほどに見えた。
しかし、首から下はその印象とはまるで違っていた。
無地のTシャツと、腹回りの緩い短パン。
寝間着と思われる簡素な服から覗く腕や脚は、はち切れんばかりに鍛え上げられている。
年齢を感じさせない、若々しく強靭な肉体だった。
「……ん? ここ、どこだ?」
男が目を瞬かせた。
その瞬間。
何もなかった空間に、三人の男女が現れた。
「気がついたかね?」
「意識ははっきりしているかい?」
「返事をしてくれるとありがたいわ」
「あ、はい。大丈夫です」
男は三人を見回した。
長い髭を蓄えた老人。
穏やかな笑顔を浮かべる若い女性。
そして、少年の姿をした男。
普通ではない。
そう思った。
それでも長年染みついた習慣は抜けない。
男は自然に頭を下げた。
「突然のことで驚いてしまい、挨拶が遅れました。私、久遠蓮司と申します」
「よいよい。そう硬くならずに、まずは茶でも飲みなさい」
老人が手を水平に振った。
すると、何もなかった空間に突然ちゃぶ台が現れた。
その上には四つの湯飲み。
さらに人数分の座布団まで用意される。
「……」
「ささ、とりあえず座って」
「ありがとうございます」
蓮司は勧められるまま座った。
老人が正面。
女性が右。
少年が左。
四人でちゃぶ台を囲む。
蓮司は湯飲みを手に取り、一口だけ茶を飲んだ。
「すみません。幾つか聞かせていただきたいことがあるのですが、質問をしてもよろしいでしょうか?」
「もちろんじゃ」
老人は髭を撫でながら笑う。
「儂らはそのためにここにおる。じゃが、君が聞きたいことは大体予想がついておる。まずは儂らの話を聞いてくれんかのぅ。その中で、君の疑問も自然と分かるじゃろう」
「分かりました。よろしくお願いします」
蓮司が頭を下げる。
老人は満足そうに頷いた。
「儂は創造神アルヴェイン」
老人は右側の女性を示す。
「こちらが愛の女神セレフィーナ」
そして左側の少年を示した。
「そして、こちらが生命神リオネルじゃ」
「よろしくね」
「よろしく!」
三人の自己紹介を聞いた蓮司は、少しだけ目を細めた。
「……神様、ですか」
「そうじゃ」
「そして君は昨夜、死んだ」
「……」
「君の魂を儂らがここへ連れてきた。いわゆる天界という場所じゃな」
「なるほど」
蓮司はお茶をもう一口飲んだ。
「……え?」
リオネルが目を丸くした。
「それだけ!?」
「何か問題でも?」
「いやいやいや! 普通もっと驚くでしょ! 『嘘だ!』とか、『なんで俺が死んだんだ!』とか!」
「今まで来た者たちは、もう少し取り乱したものじゃがのぅ」
「いえ、驚いてはいますよ」
蓮司は苦笑した。
「現実味がないとも思っています。ただ、夢なら時間が経てば目が覚めるだけですし、本当なら人間はいつか死ぬものです」
「妙に達観してるわねぇ」
「それに……」
蓮司は少し肩をすくめた。
「私の会社はかなり仕事が厳しくてですね。身体を壊して退職する同僚や、新入社員も珍しくありませんでした。私自身、早死にする可能性はあると思っていました」
「それでも三十九歳まで生きたんだから十分、と?」
「むしろ、よく身体が持ったなと思っています」
蓮司は穏やかに笑った。
「それから私は、年甲斐もなくゲームや漫画が好きでして」
「ああ、なるほど」
セレフィーナが納得したように頷いた。
「そういう話が好きなのね」
「はい。家族も親戚もいませんでしたし、灰になるよりは、こちらのほうがずっと面白そうです」
「君、微妙に悟りを開いてない?」
「私たちの話を聞いた人で、ここまで冷静なのは珍しいわよ」
「まぁ、こちらとしては説明する時間と手間が省けて助かるが……」
アルヴェインは少し困ったように笑った。
「それでは、他に聞きたいことはあるかの?」
蓮司は少し考えた。
「それでは……私は、どうして死んだのでしょうか?」
「そこかの?」
「はい。いつ死んでもおかしくないとは思っていましたが、死んだ記憶がありません」
「まあ、あの死に方じゃ覚えているわけがないわね」
セレフィーナが苦笑する。
「君の死因は、頭を打ったことによる脳内出血だよ」
「え?」
蓮司は目を瞬かせた。
「私は部屋で寝ようとしていたはずですが」
「ええ。ちゃんと寝ていたわ」
「そのとき、あなたがくしゃみをしたの」
「何度もな」
「四回じゃった」
「四回……」
「くしゃみをするたびに枕が少しずつずれていってな。最後には床へ頭を打ち付けたんじゃ」
「布団もかなり薄かったからね」
「……」
「目を覚ますほどではなかったんだけど、それがきっかけになって脳内の血管が切れた。そして朝までに出血が進んで……」
リオネルが少し言葉を濁した。
「ご臨終、というわけ」
「……」
蓮司は俯いた。
しばらく何も言わない。
やがて。
「……納得できない」
「え?」
「何で、そんな死に方を……」
三柱が顔を見合わせる。
「酔った上司のビール瓶も平気だった」
「う、うん?」
「昔、オヤジ狩りに遭ったこともある。鉄パイプで殴られたことだってある。親父のしごきで頭を殴られたことなんて、数え切れない」
蓮司の声が震える。
「なのに……」
拳が握り締められた。
「何で、くしゃみなんかで!」
蓮司は頭を抱えた。
「くそ……!」
先ほどまで穏やかだった男が、突然激しい感情を露わにする。
三柱は驚かなかった。
「……来たね」
「死んだことより、自分の身体がくしゃみに負けたことがショックだったのね」
「幼い頃から父親に武術を叩き込まれ、死ぬまで鍛錬を続けておったようじゃからな」
アルヴェインは静かに二人を見る。
「リオネル、セレフィーナ」
「なーに?」
「何か問題?」
「問題かどうかは分からん。ただ、彼について少し気になることができた」
それからしばらく。
蓮司は自分の死に対する悔しさを吐き出した。
どれほど時間が経ったのかは分からない。
やがて。
「……ふぅ」
蓮司はようやく顔を上げた。
「すみません。一人で取り乱してしまって」
「いいのよ」
セレフィーナは優しく笑った。
「ここへ来た人が取り乱すなんて珍しくないわ」
「人間の魂は、本来肉体とセットだからね」
リオネルが説明する。
「肉体から切り離されたばかりの魂は不安定なんだ。神の力で維持していても、感情が暴走しやすい」
「四年ほどかけて落ち着く者も珍しくないぞ」
「四年!?」
蓮司が目を丸くする。
「魂には空腹も渇きもない。ここでは時間の感覚も曖昧じゃからな」
「……気の長い話ですね」
「だから気にする必要はない」
アルヴェインが笑う。
「それより、話の続きをしてもよいかの?」
「はい」
「では、なぜ君をここへ呼んだのか」
アルヴェインは一拍置いた。
「一言で言えば――」
そして、にやりと笑う。
「テンプレじゃ」
「なるほど」
蓮司の目が輝いた。
「異世界行きですね」
「本当に話が早いわね……」
「転移ですか? それとも、もう死んでいるから転生ですか?」
「一応は転移という形になる」
アルヴェインが説明する。
「儂らの世界で、儂が用意した身体に入ってもらう。親や親族はおらん」
「身体はかなり若返るよ。姿形もある程度なら希望に合わせられる」
「具体的には、どのくらいの年齢になるのでしょうか?」
「十歳前後じゃな」
蓮司は少し考えた。
「なるほど……」
「森などに迷い込んでいた子供ということにすれば、怪しまれにくい。最初に送る場所も、身分差に比較的寛容な国を選んである」
「平民の孤児、という扱いですか?」
「そうじゃ」
「分かりました」
蓮司は頷いた。
「ところで、私は異世界で何をすればいいのでしょうか?」
「使命なら一応あるわ」
セレフィーナが答える。
「ただし、異世界へ行った時点で終わるから、実質的にはないわね」
「つまり?」
「あなたが私たちの世界へ行くことそのものが使命よ」
リオネルが続けた。
「僕らの世界は今、魔力が枯渇しかけている」
「魔力が?」
「うん。世界と世界の間には壁があるんだ。魔力は普通、その壁を越えられない。でも神の力なら穴を開けられる」
「ただ、その穴を維持するには大量の力が必要じゃ」
「そこで、君の魂を使う」
「……魂を?」
「神の力で保護した君の魂を、世界の壁に押し込むんだ。つっかえ棒みたいなものだね」
「その間に、地球の魔力をこちらの世界へ移す」
蓮司はしばらく黙っていた。
「……私の魂が、世界の壁のつっかえ棒に?」
「そう」
「なるほど」
「怖くないの?」
「死んだ後ですからね」
蓮司は苦笑した。
「むしろ、私のような人間が世界の役に立つなら光栄です」
「本当に変わった子ねぇ」
セレフィーナが笑う。
「私たちの世界では魔法が発達しているから、魔力がなくなれば生活そのものが成り立たなくなるの」
「魔力を餌にする魔獣も絶滅する。魔獣が存在することで成立していた自然のバランスも崩れる」
「一方、地球には魔力があっても使われておらん」
「だから少しだけ譲ってもらうというわけさ」
「なるほど」
蓮司は頷いた。
「では……その魔法ですが」
その瞬間、蓮司の顔が明らかに明るくなった。
「私にも使えるでしょうか?」
「使えるぞ」
「使えるよ」
「使えるわよ」
「本当ですか!」
蓮司は思わず身を乗り出した。
「っと、失礼しました」
「よいよい」
アルヴェインが笑う。
「転移後の身体は向こうの人間と同じ。訓練すれば魔法を使える」
「さらに世界を渡る際、神の力を少し君に与えることもできる」
「ならば……基本となる属性魔法は、全属性を使えるようにしていただけますか?」
「もちろん」
「ただ、全属性持ちは目立つのでは?」
三柱は顔を見合わせた。
「それ、ここへ来た人はみんな言うんだよね」
「特にライトノベルをよく読む人は必ずね」
「そんなにですか?」
「全属性持ちは珍しくはあるが、特別珍しいわけではない」
アルヴェインが説明する。
「訓練すれば誰でも使える。騎士団なら、生まれつき全属性という者も十人、二十人はおる」
「それに全部を均等に鍛えると、器用貧乏になりやすい」
「一つの属性しか使えない代わりに、その道を極めた魔法使いのほうが強いことも多い」
「なるほど」
蓮司は納得した。
「では、全属性をお願いします」
「分かった」
その後も蓮司と三柱は、身体能力や魔法、生活について長い時間をかけて話し合った。
そして最後に、アルヴェインは一枚の羊皮紙を差し出した。
「これまで話したことをまとめた契約書じゃ」
「死んだ後で契約書を書くことになるとは……」
「あら、嫌だったかしら?」
「いえ。ただ、少し意外だっただけです」
「別に契約書にする必要もないけどね」
「え?」
セレフィーナが笑う。
「これは最終確認だから。口頭でも問題ないのよ」
「人によって変えているんだよ」
リオネルが続けた。
「もっと若い子なら、契約書より口頭のほうが楽だからね」
「なるほど」
蓮司は羊皮紙を最後まで読み、納得した上で名前を書いた。
久遠蓮司。
その文字を書き終えた瞬間。
淡い光が身体を包み込んだ。
「っ!?」
「落ち着いて。それは準備が始まった証拠よ」
「どうやら時間のようじゃな」
蓮司は三柱を見る。
「……そうですか」
胸の奥に、名残惜しさが込み上げてきた。
「このご恩は一生忘れません」
「気にするな。お主の人生じゃ。好きに生きよ」
「私たちはずっと見守ってるからね」
「最後くらい、もっと気楽に話してもいいよ」
蓮司は少し考えた。
「……そうだな」
そして、初めて敬語をやめた。
「ありがとう」
「うむ。それでよい」
「ところで」
セレフィーナが尋ねた。
「向こうで、どう生きたい?」
蓮司は少し考えた。
「……人付き合い、かな」
「人付き合い?」
「三十九年生きたけど、あまり得意じゃなかった。異世界へ行ったからといって、急に変われるとも思えない」
蓮司は苦笑した。
「正直、人付き合いには疲れた。いっそ隠居でもしようかと思っている」
「それも人生じゃ」
「ただ……」
蓮司は光に包まれながら、遠くを見るような目をした。
「せっかく異世界へ行くんだ。歩いてみないのも、もったいない気がするんだよな」
「なら、最初は森で暮らせばいいじゃない」
セレフィーナが言った。
「森でゆっくり考えて、気が向いたら街へ行けばいいのよ」
「……そうだな」
「焦らなくていい」
リオネルが笑う。
「君は真面目だから、与えられた選択肢を全部やろうとする。でも、一つずつでいいんだ」
「前の人生とは違う人生よ」
セレフィーナが優しく言う。
「今度は、自分の好きなように生きなさい」
「……分かった」
蓮司は笑った。
「気楽に、気の向くままに生きてみる」
「それでよい」
光がさらに強くなる。
「街へ行ったら、教会にも足を運んでね」
「教会?」
「神託の技能があれば、短い時間だけ私たちと話せるようになる可能性がある」
「分かった。必ず行く」
「待ってるよ」
「では、そろそろじゃな」
三柱が立ち上がる。
「元気で、楽しくやっていくのよ」
「ありがとう……本当に、ありがとうございました!」
「うむ!」
アルヴェインが大きく笑った。
「いざ、新しき世界への道を開かん!」
「あなたに我らの祝福を!」
「次の旅路に光あれ!」
「「「新たな生を楽しみなさい!」」」
その瞬間。
蓮司の身体が、眩い光に包まれた。
視界が白く染まる。
意識が遠ざかっていく。
最後に聞こえたのは、三柱の神々の声だった。
そして――。
久遠蓮司は、新しい世界へ旅立った。
◆
――そして、十数年後。
「……鳥だったら、よかったのにな」
窓の外を飛んでいく一羽の鳥を眺めながら、私は小さく呟いた。
青い空。
白い雲。
鳥は何の苦労もないように翼を広げ、空を飛んでいる。
自由だ。
どこへでも行ける。
食べ物だって、自分で探せる。
誰かに「こうしなさい」と言われることもない。
少なくとも、今日食べるものがあるかどうかで、こんなにも悩むことはないだろう。
私は王都にある小さな家で、一人暮らしをしていた。
正確には、一人暮らしになった。
弟は学校の寮にいる。
母は病気が酷くなり、今は田舎にあるお祖父様の家で療養している。
そして、この家には使用人など一人もいない。
私が一人で守っている。
父が建てた家だから。
この家には、父との思い出が詰まっている。
母は決して売ろうとはしなかった。
だから私は、この家に残った。
けれど、その代わりに生活は苦しかった。
朝食は小さなパン一つ。
飲み水は井戸水。
昼食はないことも多い。
夕食も、パンが一つあればいいほうだった。
それでも弟の寮費と食費だけは、絶対に欠かすことができなかった。
弟は頭が良かった。
入学試験で上位に入り、学費を免除されて学校へ進んだ。
寮なら食事とお湯まで用意される。
だから私は、弟のために働いた。
自分が食べることよりも。
自分が暖かく過ごすことよりも。
弟が学校で学べることを優先した。
私の名前は、エレナ・ヴァレンティア。
この世界で生まれた、ただの平民――。
そういうことになっている。
けれど、私は自分が「ただの平民」ではないことを知っていた。
なぜなら私は、この世界へ来る前の人生を覚えているからだ。
日本という国。
そこで私は、久遠蓮司という一人の男として生きていた。
そして死んだ。
神々に出会い。
異世界へ送られた。
けれど、私の前世の記憶が戻ったのは、物心ついた頃ではなかった。
弟が学校へ入学した頃。
私は毎日のように働き、食事を削り、身体を酷使していた。
ある日、とうとう限界が来た。
目の前が暗くなり、私はその場に倒れた。
そして目を覚ましたとき。
頭の中に、前世の記憶が一気に流れ込んできた。
自分が男だったこと。
日本という国で生きていたこと。
漫画やゲームが好きだったこと。
神々と出会ったこと。
そして――。
異世界へ来たこと。
ただし。
前世の知識が、今の私の生活を劇的に変えてくれたわけではない。
魔法の知識もない。
前世の仕事も、この世界では役に立たない。
何より、私は自分がかつて男だったことを、誰にも話すつもりはなかった。
けれど、一つだけ。
前世の記憶の中に、今の私を救うものがあった。
刺繍だ。
前世の私は、趣味で手芸をしていた。
特に好きだったのが、刺繍。
リボン刺繍。
フランス刺繍。
日本刺繍。
刺繍を使った小物作り。
以前の世界では、それらを作って販売することもあった。
今思えば。
あの趣味が、まさかこんなところで自分を救うことになるとは思わなかった。
私は、弟が学校で勉強を続けられるように働き続けた。
けれど、私自身は日に日に痩せていった。
母が田舎へ療養に行くことになったときも、私は王都に残った。
「エレナ、この家を頼むわ」
母はそう言った。
父が残してくれた家。
それを売ることはできない。
だから私は残った。
母は元々、貴族だった。
男爵家の娘。
けれど、決められた婚約者との結婚を嫌がって家を飛び出し、平民だった父と結婚した。
祖父母は娘との縁を切った。
それでも母は父を愛した。
心の底から。
父が事故で亡くなった後、母は必死に働いた。
仕立てや刺繍をして、私たちを育てた。
けれど、身体を壊した。
そして、父によく似た弟に、母は執着するようになった。
弟の顔を見るたびに、亡くなった父を思い出してしまうのだろう。
母にとって、弟は父の代わりだった。
だから私は、いつも後回しだった。
それでも、私は母を嫌いにはなれなかった。
母もまた、大切な人を失った一人の人間だったから。
そして。
弟だけは、いつも私を見ていた。
幼い頃。
母が弟ばかりを構っているときも。
私が空腹で黙っているときも。
弟は自分の食べ物を、こっそり私に分けてくれた。
「姉様、これ」
「いいの?」
「うん。僕は大丈夫だから」
そんな弟だった。
母が田舎へ行くことになった日。
弟は私の前に立った。
「姉様」
「何?」
「僕が一日でも早く、姉様を守れる大人になります」
「……」
「僕たちは互いが唯一の家族ですから」
小さな手が、私の手を握った。
「早く大人になって、僕が絶対に姉様を守ります」
私は笑った。
「ありがとう」
けれど、その約束を胸に抱えて生きることになるとは思わなかった。
生活は厳しかった。
私は何度も倒れそうになった。
それでも。
弟が学校で頑張っている。
そう思えば耐えられた。
そんなある日のことだった。
「エレナさん」
仕立屋の店主、クラリッサさんから仕事を頼まれた。
「このドレスの刺繍、お願いできるかしら?」
「はい」
私は布を受け取った。
かなり高価な生地だった。
失敗は許されない。
私は慎重に針を進めた。
そして――。
「っ」
指先に針が刺さった。
ぷつり。
赤い血が一滴。
そして、その血は白い襟元へ落ちた。
「……え?」
血の気が引いた。
「どうしよう……」
この生地を弁償するお金なんてない。
作り直す時間もない。
私は必死に考えた。
そのとき。
ふと、前世の記憶が蘇った。
リボン。
刺繍。
薔薇。
「……これなら」
私は細いリボンを取り出した。
そして、血の跡を隠すように針を動かした。
一針。
また一針。
細いリボンが布の上で形を変えていく。
やがて。
そこには、一輪の薔薇が咲いた。
赤い血の跡は、もう見えない。
むしろ最初からそういうデザインだったように見える。
「……できた」
私は胸を撫で下ろした。
そのドレスを見たクラリッサさんは、目を丸くした。
「エレナ」
「はい」
「これ、あなたがやったの?」
「……はい」
「もう少し詳しく教えて」
その日を境に、私の人生は少しずつ変わった。
リボン刺繍。
薔薇の髪飾り。
小さな鞄。
ポケット。
ドレスの装飾。
私は前世の知識を使いながら、次々と新しい刺繍を作った。
「エレナ、この刺繍をもっと作れない?」
「はい」
「材料は私が用意するわ」
「……本当ですか?」
「もちろん」
仕事が増えた。
収入も増えた。
そして何より。
「エレナ、ちゃんと食べてる?」
「……食べています」
「嘘」
「え?」
クラリッサさんは私をじっと見た。
「あなた、痩せすぎよ」
「……」
「今日は帰さないわ」
「え?」
「食べていきなさい」
出されたのは、湯気の立つスープだった。
肉。
人参。
じゃがいも。
そして、パン。
私はしばらく動けなかった。
「どうしたの?」
「……こんなに、食べていいんですか?」
「もちろんよ」
スプーンを手に取る。
一口。
「……」
涙が落ちた。
「エレナ?」
「すみません……」
私は泣きながらスープを食べた。
こんな食事を、私はいつから忘れていたのだろう。
それから私は、少しずつ食べるようになった。
朝にパン。
昼にスープ。
夜にも食事。
以前なら一日一食だった生活が変わっていった。
身体も少しずつ戻っていった。
そして。
刺繍の仕事は、いつしか店の重要な仕事になっていた。
そんなある日のこと。
「姉様」
懐かしい声が聞こえた。
私は振り返った。
「……え?」
そこに立っていたのは。
弟だった。
最後に会ったときより、ずっと背が伸びている。
幼かった顔も、すっかり大人びていた。
「……ただいま」
「……」
声が出なかった。
「姉様?」
「あなた……」
私は震える声で尋ねた。
「卒業したの?」
「うん」
「どうして……予定より早く?」
「飛び級したんだ」
弟は笑った。
「上級文官の試験にも受かった」
「……」
「だから、帰ってきた」
私はその場で泣いた。
「姉様?」
「……おかえり」
それしか言えなかった。
弟は困ったように笑った。
「姉様、僕はね」
「うん」
「姉様に守ってもらってばかりだった」
「そんなこと――」
「あるよ」
弟は首を振る。
「僕が学校に行けたのも、勉強に集中できたのも、全部姉様のおかげだ」
「……」
「だから、これからは僕が姉様を守る」
その言葉に、昔の弟の姿が重なった。
小さな手。
幼い声。
『僕が一日でも早く、姉様を守れる大人になります』
「……約束、覚えていたのね」
「もちろん」
弟は笑った。
「忘れるわけないよ」
けれど、弟はさらに話を続けた。
「母様から、手紙が来ている」
「お母様から?」
「うん」
弟は少し困った顔をした。
「僕が学校を卒業したことを知ってから、たくさん届くようになった」
母は弟を恋しがっていた。
夢にまで見る。
会いたい。
帰ってきてほしい。
そんな内容だった。
弟はそれらの手紙を伯父へ送った。
伯父は母をそのまま田舎に置くことを決めた。
病気が酷く、今の状態で王都へ戻すのは難しいからだ。
「でも、僕たちの家のことは心配しなくていい」
「どういうこと?」
「僕が上級文官になったから」
弟は笑った。
「伯父様も、僕たちが男爵家の一族として残ることを認めてくれた」
「……私たちが?」
「うん」
弟は私を見る。
「それより姉様」
「何?」
「僕、姉様に会わせたい人がいる」
「……人?」
「僕の知り合いだよ。昔の先輩で、今は同じ職場で働いている」
「まさか……」
「うん」
弟は照れたように笑った。
「姉様のことを話したら、会ってみたいって」
「私は……」
「姉様には幸せになってほしい」
「私は、あなたが幸せならそれでいいわ」
「それじゃ駄目なんだ」
「え?」
弟の顔が真剣になる。
「姉様が幸せじゃないと、僕は幸せになれない」
「……」
「僕はこれから、姉様にたくさん頼ってもらえるような大人になる」
昔とは逆だった。
あの頃は。
弟が私に言った。
『僕が姉様を守る』
今は。
大人になった弟が、同じ言葉を繰り返している。
「だから、姉様」
弟は私の手を握った。
「自分が幸せになる道を諦めないで」
私は、泣きそうになった。
「……私ね」
「うん」
「あなたが学校で頑張っているって思ったから、今まで頑張れたの」
「姉様……」
「あなたがいるから、私は一人じゃなかった」
弟が目を伏せる。
「だから私は、ずっとあなたに頼っていたのよ」
「……僕に?」
「ええ」
私は笑った。
「あなたがいなかったら、私はもっと早く諦めていたと思う」
弟は何も言わなかった。
ただ、私の手を強く握った。
その日の夜。
私たちは久しぶりに二人で食卓を囲んだ。
料理は豪華ではない。
けれど。
私は前世の記憶にある料理を少しだけ応用して、簡単な食事を作った。
「姉様」
「何?」
「これ、覚えてる?」
弟が指差した。
薄い焼き菓子のようなもの。
小麦粉を薄く溶き、熟しすぎた果物を潰して混ぜて焼いたもの。
昔、食べるものがなかったとき。
私たちはそれを「ごちそう」と呼んでいた。
「覚えてるわ」
「これ、美味しかったよね」
「ええ」
「今思うと、よくあれを美味しいって言ってたよね」
「だって、ごちそうだったもの」
二人で笑った。
あの頃は。
あれが本当にごちそうだった。
けれど今は違う。
弟の前には、温かい料理がある。
私の前にもある。
そして。
明日も食べることができる。
「ねえ」
「何?」
「これから、もっと美味しいものを作るわ」
「本当?」
「ええ」
私は胸を張った。
「あなたが太って、服の寸法を直さなきゃいけなくなるくらい作ってあげる」
「それは困るなぁ」
「困らないわよ」
「じゃあ、姉様も一緒に食べてね」
「もちろん」
私は笑った。
そして。
「卒業おめでとう」
「ありがとう」
「それから――」
少しだけ言葉に詰まった。
けれど、今度はちゃんと言った。
「おかえりなさい」
弟が笑う。
「ただいま」
私はその言葉を聞きながら、窓の外を見た。
そこには、今日も鳥が飛んでいた。
昔の私は、鳥になりたかった。
空を自由に飛びたかった。
自分で食べ物を見つけたかった。
誰にも縛られずに生きたかった。
だから、鳥のほうが幸せなのだと思っていた。
けれど。
今は違う。
人間だからこそ。
誰かと一緒に食卓を囲める。
誰かの帰りを待てる。
「おかえり」と言える。
「ただいま」と返してもらえる。
そして。
一緒に未来を作ることができる。
私は、前世で一度死んだ。
そしてこの世界で、もう一度生きることになった。
神々から与えられた力も。
前世の記憶も。
この世界で得た刺繍の技術も。
そのすべてが、私の人生になった。
そして今。
私には、一緒に生きたい人がいる。
「……鳥じゃなくて、よかった」
私は小さく呟いた。
窓の外の鳥を見ながら。
そして隣にいる弟を見る。
「人間に生まれて、本当によかった」
空を飛ぶことはできない。
どこへでも自由に行けるわけでもない。
それでも。
人間だから、手をつなげる。
人間だから、誰かを待てる。
人間だから、一緒に食べられる。
人間だから――。
誰かと一緒に、幸せを探していける。
だから私は。
もう鳥にはなりたいと思わない。
この世界で。
この身体で。
この人生を。
弟と一緒に、生きていく。
――空を飛ぶ鳥よりも。
大切な人と同じ大地を歩いていく人生のほうが、ずっと幸せなのだから。




