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生き様はそれぞれ

作者: はまちゃん
掲載日:2026/10/02

何もない空間に、一人の男がぽつんと立っていた。


 周囲には何もない。


 地面もなければ、空もない。


 ただ、どこまでも白く、どこまでも果てしない空間だけが広がっている。


 男はしばらく辺りを見回した。


 顔には、長年の疲労がにじんでいる。


 髪には白髪が混じり、年齢は四十代後半から五十代ほどに見えた。


 しかし、首から下はその印象とはまるで違っていた。


 無地のTシャツと、腹回りの緩い短パン。


 寝間着と思われる簡素な服から覗く腕や脚は、はち切れんばかりに鍛え上げられている。


 年齢を感じさせない、若々しく強靭な肉体だった。


「……ん? ここ、どこだ?」


 男が目を瞬かせた。


 その瞬間。


 何もなかった空間に、三人の男女が現れた。


「気がついたかね?」


「意識ははっきりしているかい?」


「返事をしてくれるとありがたいわ」


「あ、はい。大丈夫です」


 男は三人を見回した。


 長い髭を蓄えた老人。


 穏やかな笑顔を浮かべる若い女性。


 そして、少年の姿をした男。


 普通ではない。


 そう思った。


 それでも長年染みついた習慣は抜けない。


 男は自然に頭を下げた。


「突然のことで驚いてしまい、挨拶が遅れました。私、久遠蓮司と申します」


「よいよい。そう硬くならずに、まずは茶でも飲みなさい」


 老人が手を水平に振った。


 すると、何もなかった空間に突然ちゃぶ台が現れた。


 その上には四つの湯飲み。


 さらに人数分の座布団まで用意される。


「……」


「ささ、とりあえず座って」


「ありがとうございます」


 蓮司は勧められるまま座った。


 老人が正面。


 女性が右。


 少年が左。


 四人でちゃぶ台を囲む。


 蓮司は湯飲みを手に取り、一口だけ茶を飲んだ。


「すみません。幾つか聞かせていただきたいことがあるのですが、質問をしてもよろしいでしょうか?」


「もちろんじゃ」


 老人は髭を撫でながら笑う。


「儂らはそのためにここにおる。じゃが、君が聞きたいことは大体予想がついておる。まずは儂らの話を聞いてくれんかのぅ。その中で、君の疑問も自然と分かるじゃろう」


「分かりました。よろしくお願いします」


 蓮司が頭を下げる。


 老人は満足そうに頷いた。


「儂は創造神アルヴェイン」


 老人は右側の女性を示す。


「こちらが愛の女神セレフィーナ」


 そして左側の少年を示した。


「そして、こちらが生命神リオネルじゃ」


「よろしくね」


「よろしく!」


 三人の自己紹介を聞いた蓮司は、少しだけ目を細めた。


「……神様、ですか」


「そうじゃ」


「そして君は昨夜、死んだ」


「……」


「君の魂を儂らがここへ連れてきた。いわゆる天界という場所じゃな」


「なるほど」


 蓮司はお茶をもう一口飲んだ。


「……え?」


 リオネルが目を丸くした。


「それだけ!?」


「何か問題でも?」


「いやいやいや! 普通もっと驚くでしょ! 『嘘だ!』とか、『なんで俺が死んだんだ!』とか!」


「今まで来た者たちは、もう少し取り乱したものじゃがのぅ」


「いえ、驚いてはいますよ」


 蓮司は苦笑した。


「現実味がないとも思っています。ただ、夢なら時間が経てば目が覚めるだけですし、本当なら人間はいつか死ぬものです」


「妙に達観してるわねぇ」


「それに……」


 蓮司は少し肩をすくめた。


「私の会社はかなり仕事が厳しくてですね。身体を壊して退職する同僚や、新入社員も珍しくありませんでした。私自身、早死にする可能性はあると思っていました」


「それでも三十九歳まで生きたんだから十分、と?」


「むしろ、よく身体が持ったなと思っています」


 蓮司は穏やかに笑った。


「それから私は、年甲斐もなくゲームや漫画が好きでして」


「ああ、なるほど」


 セレフィーナが納得したように頷いた。


「そういう話が好きなのね」


「はい。家族も親戚もいませんでしたし、灰になるよりは、こちらのほうがずっと面白そうです」


「君、微妙に悟りを開いてない?」


「私たちの話を聞いた人で、ここまで冷静なのは珍しいわよ」


「まぁ、こちらとしては説明する時間と手間が省けて助かるが……」


 アルヴェインは少し困ったように笑った。


「それでは、他に聞きたいことはあるかの?」


 蓮司は少し考えた。


「それでは……私は、どうして死んだのでしょうか?」


「そこかの?」


「はい。いつ死んでもおかしくないとは思っていましたが、死んだ記憶がありません」


「まあ、あの死に方じゃ覚えているわけがないわね」


 セレフィーナが苦笑する。


「君の死因は、頭を打ったことによる脳内出血だよ」


「え?」


 蓮司は目を瞬かせた。


「私は部屋で寝ようとしていたはずですが」


「ええ。ちゃんと寝ていたわ」


「そのとき、あなたがくしゃみをしたの」


「何度もな」


「四回じゃった」


「四回……」


「くしゃみをするたびに枕が少しずつずれていってな。最後には床へ頭を打ち付けたんじゃ」


「布団もかなり薄かったからね」


「……」


「目を覚ますほどではなかったんだけど、それがきっかけになって脳内の血管が切れた。そして朝までに出血が進んで……」


 リオネルが少し言葉を濁した。


「ご臨終、というわけ」


「……」


 蓮司は俯いた。


 しばらく何も言わない。


 やがて。


「……納得できない」


「え?」


「何で、そんな死に方を……」


 三柱が顔を見合わせる。


「酔った上司のビール瓶も平気だった」


「う、うん?」


「昔、オヤジ狩りに遭ったこともある。鉄パイプで殴られたことだってある。親父のしごきで頭を殴られたことなんて、数え切れない」


 蓮司の声が震える。


「なのに……」


 拳が握り締められた。


「何で、くしゃみなんかで!」


 蓮司は頭を抱えた。


「くそ……!」


 先ほどまで穏やかだった男が、突然激しい感情を露わにする。


 三柱は驚かなかった。


「……来たね」


「死んだことより、自分の身体がくしゃみに負けたことがショックだったのね」


「幼い頃から父親に武術を叩き込まれ、死ぬまで鍛錬を続けておったようじゃからな」


 アルヴェインは静かに二人を見る。


「リオネル、セレフィーナ」


「なーに?」


「何か問題?」


「問題かどうかは分からん。ただ、彼について少し気になることができた」


 それからしばらく。


 蓮司は自分の死に対する悔しさを吐き出した。


 どれほど時間が経ったのかは分からない。


 やがて。


「……ふぅ」


 蓮司はようやく顔を上げた。


「すみません。一人で取り乱してしまって」


「いいのよ」


 セレフィーナは優しく笑った。


「ここへ来た人が取り乱すなんて珍しくないわ」


「人間の魂は、本来肉体とセットだからね」


 リオネルが説明する。


「肉体から切り離されたばかりの魂は不安定なんだ。神の力で維持していても、感情が暴走しやすい」


「四年ほどかけて落ち着く者も珍しくないぞ」


「四年!?」


 蓮司が目を丸くする。


「魂には空腹も渇きもない。ここでは時間の感覚も曖昧じゃからな」


「……気の長い話ですね」


「だから気にする必要はない」


 アルヴェインが笑う。


「それより、話の続きをしてもよいかの?」


「はい」


「では、なぜ君をここへ呼んだのか」


 アルヴェインは一拍置いた。


「一言で言えば――」


 そして、にやりと笑う。


「テンプレじゃ」


「なるほど」


 蓮司の目が輝いた。


「異世界行きですね」


「本当に話が早いわね……」


「転移ですか? それとも、もう死んでいるから転生ですか?」


「一応は転移という形になる」


 アルヴェインが説明する。


「儂らの世界で、儂が用意した身体に入ってもらう。親や親族はおらん」


「身体はかなり若返るよ。姿形もある程度なら希望に合わせられる」


「具体的には、どのくらいの年齢になるのでしょうか?」


「十歳前後じゃな」


 蓮司は少し考えた。


「なるほど……」


「森などに迷い込んでいた子供ということにすれば、怪しまれにくい。最初に送る場所も、身分差に比較的寛容な国を選んである」


「平民の孤児、という扱いですか?」


「そうじゃ」


「分かりました」


 蓮司は頷いた。


「ところで、私は異世界で何をすればいいのでしょうか?」


「使命なら一応あるわ」


 セレフィーナが答える。


「ただし、異世界へ行った時点で終わるから、実質的にはないわね」


「つまり?」


「あなたが私たちの世界へ行くことそのものが使命よ」


 リオネルが続けた。


「僕らの世界は今、魔力が枯渇しかけている」


「魔力が?」


「うん。世界と世界の間には壁があるんだ。魔力は普通、その壁を越えられない。でも神の力なら穴を開けられる」


「ただ、その穴を維持するには大量の力が必要じゃ」


「そこで、君の魂を使う」


「……魂を?」


「神の力で保護した君の魂を、世界の壁に押し込むんだ。つっかえ棒みたいなものだね」


「その間に、地球の魔力をこちらの世界へ移す」


 蓮司はしばらく黙っていた。


「……私の魂が、世界の壁のつっかえ棒に?」


「そう」


「なるほど」


「怖くないの?」


「死んだ後ですからね」


 蓮司は苦笑した。


「むしろ、私のような人間が世界の役に立つなら光栄です」


「本当に変わった子ねぇ」


 セレフィーナが笑う。


「私たちの世界では魔法が発達しているから、魔力がなくなれば生活そのものが成り立たなくなるの」


「魔力を餌にする魔獣も絶滅する。魔獣が存在することで成立していた自然のバランスも崩れる」


「一方、地球には魔力があっても使われておらん」


「だから少しだけ譲ってもらうというわけさ」


「なるほど」


 蓮司は頷いた。


「では……その魔法ですが」


 その瞬間、蓮司の顔が明らかに明るくなった。


「私にも使えるでしょうか?」


「使えるぞ」


「使えるよ」


「使えるわよ」


「本当ですか!」


 蓮司は思わず身を乗り出した。


「っと、失礼しました」


「よいよい」


 アルヴェインが笑う。


「転移後の身体は向こうの人間と同じ。訓練すれば魔法を使える」


「さらに世界を渡る際、神の力を少し君に与えることもできる」


「ならば……基本となる属性魔法は、全属性を使えるようにしていただけますか?」


「もちろん」


「ただ、全属性持ちは目立つのでは?」


 三柱は顔を見合わせた。


「それ、ここへ来た人はみんな言うんだよね」


「特にライトノベルをよく読む人は必ずね」


「そんなにですか?」


「全属性持ちは珍しくはあるが、特別珍しいわけではない」


 アルヴェインが説明する。


「訓練すれば誰でも使える。騎士団なら、生まれつき全属性という者も十人、二十人はおる」


「それに全部を均等に鍛えると、器用貧乏になりやすい」


「一つの属性しか使えない代わりに、その道を極めた魔法使いのほうが強いことも多い」


「なるほど」


 蓮司は納得した。


「では、全属性をお願いします」


「分かった」


 その後も蓮司と三柱は、身体能力や魔法、生活について長い時間をかけて話し合った。


 そして最後に、アルヴェインは一枚の羊皮紙を差し出した。


「これまで話したことをまとめた契約書じゃ」


「死んだ後で契約書を書くことになるとは……」


「あら、嫌だったかしら?」


「いえ。ただ、少し意外だっただけです」


「別に契約書にする必要もないけどね」


「え?」


 セレフィーナが笑う。


「これは最終確認だから。口頭でも問題ないのよ」


「人によって変えているんだよ」


 リオネルが続けた。


「もっと若い子なら、契約書より口頭のほうが楽だからね」


「なるほど」


 蓮司は羊皮紙を最後まで読み、納得した上で名前を書いた。


 久遠蓮司。


 その文字を書き終えた瞬間。


 淡い光が身体を包み込んだ。


「っ!?」


「落ち着いて。それは準備が始まった証拠よ」


「どうやら時間のようじゃな」


 蓮司は三柱を見る。


「……そうですか」


 胸の奥に、名残惜しさが込み上げてきた。


「このご恩は一生忘れません」


「気にするな。お主の人生じゃ。好きに生きよ」


「私たちはずっと見守ってるからね」


「最後くらい、もっと気楽に話してもいいよ」


 蓮司は少し考えた。


「……そうだな」


 そして、初めて敬語をやめた。


「ありがとう」


「うむ。それでよい」


「ところで」


 セレフィーナが尋ねた。


「向こうで、どう生きたい?」


 蓮司は少し考えた。


「……人付き合い、かな」


「人付き合い?」


「三十九年生きたけど、あまり得意じゃなかった。異世界へ行ったからといって、急に変われるとも思えない」


 蓮司は苦笑した。


「正直、人付き合いには疲れた。いっそ隠居でもしようかと思っている」


「それも人生じゃ」


「ただ……」


 蓮司は光に包まれながら、遠くを見るような目をした。


「せっかく異世界へ行くんだ。歩いてみないのも、もったいない気がするんだよな」


「なら、最初は森で暮らせばいいじゃない」


 セレフィーナが言った。


「森でゆっくり考えて、気が向いたら街へ行けばいいのよ」


「……そうだな」


「焦らなくていい」


 リオネルが笑う。


「君は真面目だから、与えられた選択肢を全部やろうとする。でも、一つずつでいいんだ」


「前の人生とは違う人生よ」


 セレフィーナが優しく言う。


「今度は、自分の好きなように生きなさい」


「……分かった」


 蓮司は笑った。


「気楽に、気の向くままに生きてみる」


「それでよい」


 光がさらに強くなる。


「街へ行ったら、教会にも足を運んでね」


「教会?」


「神託の技能があれば、短い時間だけ私たちと話せるようになる可能性がある」


「分かった。必ず行く」


「待ってるよ」


「では、そろそろじゃな」


 三柱が立ち上がる。


「元気で、楽しくやっていくのよ」


「ありがとう……本当に、ありがとうございました!」


「うむ!」


 アルヴェインが大きく笑った。


「いざ、新しき世界への道を開かん!」


「あなたに我らの祝福を!」


「次の旅路に光あれ!」


「「「新たな生を楽しみなさい!」」」


 その瞬間。


 蓮司の身体が、眩い光に包まれた。


 視界が白く染まる。


 意識が遠ざかっていく。


 最後に聞こえたのは、三柱の神々の声だった。


 そして――。


 久遠蓮司は、新しい世界へ旅立った。


 ◆


 ――そして、十数年後。


「……鳥だったら、よかったのにな」


 窓の外を飛んでいく一羽の鳥を眺めながら、私は小さく呟いた。


 青い空。


 白い雲。


 鳥は何の苦労もないように翼を広げ、空を飛んでいる。


 自由だ。


 どこへでも行ける。


 食べ物だって、自分で探せる。


 誰かに「こうしなさい」と言われることもない。


 少なくとも、今日食べるものがあるかどうかで、こんなにも悩むことはないだろう。


 私は王都にある小さな家で、一人暮らしをしていた。


 正確には、一人暮らしになった。


 弟は学校の寮にいる。


 母は病気が酷くなり、今は田舎にあるお祖父様の家で療養している。


 そして、この家には使用人など一人もいない。


 私が一人で守っている。


 父が建てた家だから。


 この家には、父との思い出が詰まっている。


 母は決して売ろうとはしなかった。


 だから私は、この家に残った。


 けれど、その代わりに生活は苦しかった。


 朝食は小さなパン一つ。


 飲み水は井戸水。


 昼食はないことも多い。


 夕食も、パンが一つあればいいほうだった。


 それでも弟の寮費と食費だけは、絶対に欠かすことができなかった。


 弟は頭が良かった。


 入学試験で上位に入り、学費を免除されて学校へ進んだ。


 寮なら食事とお湯まで用意される。


 だから私は、弟のために働いた。


 自分が食べることよりも。


 自分が暖かく過ごすことよりも。


 弟が学校で学べることを優先した。


 私の名前は、エレナ・ヴァレンティア。


 この世界で生まれた、ただの平民――。


 そういうことになっている。


 けれど、私は自分が「ただの平民」ではないことを知っていた。


 なぜなら私は、この世界へ来る前の人生を覚えているからだ。


 日本という国。


 そこで私は、久遠蓮司という一人の男として生きていた。


 そして死んだ。


 神々に出会い。


 異世界へ送られた。


 けれど、私の前世の記憶が戻ったのは、物心ついた頃ではなかった。


 弟が学校へ入学した頃。


 私は毎日のように働き、食事を削り、身体を酷使していた。


 ある日、とうとう限界が来た。


 目の前が暗くなり、私はその場に倒れた。


 そして目を覚ましたとき。


 頭の中に、前世の記憶が一気に流れ込んできた。


 自分が男だったこと。


 日本という国で生きていたこと。


 漫画やゲームが好きだったこと。


 神々と出会ったこと。


 そして――。


 異世界へ来たこと。


 ただし。


 前世の知識が、今の私の生活を劇的に変えてくれたわけではない。


 魔法の知識もない。


 前世の仕事も、この世界では役に立たない。


 何より、私は自分がかつて男だったことを、誰にも話すつもりはなかった。


 けれど、一つだけ。


 前世の記憶の中に、今の私を救うものがあった。


 刺繍だ。


 前世の私は、趣味で手芸をしていた。


 特に好きだったのが、刺繍。


 リボン刺繍。


 フランス刺繍。


 日本刺繍。


 刺繍を使った小物作り。


 以前の世界では、それらを作って販売することもあった。


 今思えば。


 あの趣味が、まさかこんなところで自分を救うことになるとは思わなかった。


 私は、弟が学校で勉強を続けられるように働き続けた。


 けれど、私自身は日に日に痩せていった。


 母が田舎へ療養に行くことになったときも、私は王都に残った。


「エレナ、この家を頼むわ」


 母はそう言った。


 父が残してくれた家。


 それを売ることはできない。


 だから私は残った。


 母は元々、貴族だった。


 男爵家の娘。


 けれど、決められた婚約者との結婚を嫌がって家を飛び出し、平民だった父と結婚した。


 祖父母は娘との縁を切った。


 それでも母は父を愛した。


 心の底から。


 父が事故で亡くなった後、母は必死に働いた。


 仕立てや刺繍をして、私たちを育てた。


 けれど、身体を壊した。


 そして、父によく似た弟に、母は執着するようになった。


 弟の顔を見るたびに、亡くなった父を思い出してしまうのだろう。


 母にとって、弟は父の代わりだった。


 だから私は、いつも後回しだった。


 それでも、私は母を嫌いにはなれなかった。


 母もまた、大切な人を失った一人の人間だったから。


 そして。


 弟だけは、いつも私を見ていた。


 幼い頃。


 母が弟ばかりを構っているときも。


 私が空腹で黙っているときも。


 弟は自分の食べ物を、こっそり私に分けてくれた。


「姉様、これ」


「いいの?」


「うん。僕は大丈夫だから」


 そんな弟だった。


 母が田舎へ行くことになった日。


 弟は私の前に立った。


「姉様」


「何?」


「僕が一日でも早く、姉様を守れる大人になります」


「……」


「僕たちは互いが唯一の家族ですから」


 小さな手が、私の手を握った。


「早く大人になって、僕が絶対に姉様を守ります」


 私は笑った。


「ありがとう」


 けれど、その約束を胸に抱えて生きることになるとは思わなかった。


 生活は厳しかった。


 私は何度も倒れそうになった。


 それでも。


 弟が学校で頑張っている。


 そう思えば耐えられた。


 そんなある日のことだった。


「エレナさん」


 仕立屋の店主、クラリッサさんから仕事を頼まれた。


「このドレスの刺繍、お願いできるかしら?」


「はい」


 私は布を受け取った。


 かなり高価な生地だった。


 失敗は許されない。


 私は慎重に針を進めた。


 そして――。


「っ」


 指先に針が刺さった。


 ぷつり。


 赤い血が一滴。


 そして、その血は白い襟元へ落ちた。


「……え?」


 血の気が引いた。


「どうしよう……」


 この生地を弁償するお金なんてない。


 作り直す時間もない。


 私は必死に考えた。


 そのとき。


 ふと、前世の記憶が蘇った。


 リボン。


 刺繍。


 薔薇。


「……これなら」


 私は細いリボンを取り出した。


 そして、血の跡を隠すように針を動かした。


 一針。


 また一針。


 細いリボンが布の上で形を変えていく。


 やがて。


 そこには、一輪の薔薇が咲いた。


 赤い血の跡は、もう見えない。


 むしろ最初からそういうデザインだったように見える。


「……できた」


 私は胸を撫で下ろした。


 そのドレスを見たクラリッサさんは、目を丸くした。


「エレナ」


「はい」


「これ、あなたがやったの?」


「……はい」


「もう少し詳しく教えて」


 その日を境に、私の人生は少しずつ変わった。


 リボン刺繍。


 薔薇の髪飾り。


 小さな鞄。


 ポケット。


 ドレスの装飾。


 私は前世の知識を使いながら、次々と新しい刺繍を作った。


「エレナ、この刺繍をもっと作れない?」


「はい」


「材料は私が用意するわ」


「……本当ですか?」


「もちろん」


 仕事が増えた。


 収入も増えた。


 そして何より。


「エレナ、ちゃんと食べてる?」


「……食べています」


「嘘」


「え?」


 クラリッサさんは私をじっと見た。


「あなた、痩せすぎよ」


「……」


「今日は帰さないわ」


「え?」


「食べていきなさい」


 出されたのは、湯気の立つスープだった。


 肉。


 人参。


 じゃがいも。


 そして、パン。


 私はしばらく動けなかった。


「どうしたの?」


「……こんなに、食べていいんですか?」


「もちろんよ」


 スプーンを手に取る。


 一口。


「……」


 涙が落ちた。


「エレナ?」


「すみません……」


 私は泣きながらスープを食べた。


 こんな食事を、私はいつから忘れていたのだろう。


 それから私は、少しずつ食べるようになった。


 朝にパン。


 昼にスープ。


 夜にも食事。


 以前なら一日一食だった生活が変わっていった。


 身体も少しずつ戻っていった。


 そして。


 刺繍の仕事は、いつしか店の重要な仕事になっていた。


 そんなある日のこと。


「姉様」


 懐かしい声が聞こえた。


 私は振り返った。


「……え?」


 そこに立っていたのは。


 弟だった。


 最後に会ったときより、ずっと背が伸びている。


 幼かった顔も、すっかり大人びていた。


「……ただいま」


「……」


 声が出なかった。


「姉様?」


「あなた……」


 私は震える声で尋ねた。


「卒業したの?」


「うん」


「どうして……予定より早く?」


「飛び級したんだ」


 弟は笑った。


「上級文官の試験にも受かった」


「……」


「だから、帰ってきた」


 私はその場で泣いた。


「姉様?」


「……おかえり」


 それしか言えなかった。


 弟は困ったように笑った。


「姉様、僕はね」


「うん」


「姉様に守ってもらってばかりだった」


「そんなこと――」


「あるよ」


 弟は首を振る。


「僕が学校に行けたのも、勉強に集中できたのも、全部姉様のおかげだ」


「……」


「だから、これからは僕が姉様を守る」


 その言葉に、昔の弟の姿が重なった。


 小さな手。


 幼い声。


『僕が一日でも早く、姉様を守れる大人になります』


「……約束、覚えていたのね」


「もちろん」


 弟は笑った。


「忘れるわけないよ」


 けれど、弟はさらに話を続けた。


「母様から、手紙が来ている」


「お母様から?」


「うん」


 弟は少し困った顔をした。


「僕が学校を卒業したことを知ってから、たくさん届くようになった」


 母は弟を恋しがっていた。


 夢にまで見る。


 会いたい。


 帰ってきてほしい。


 そんな内容だった。


 弟はそれらの手紙を伯父へ送った。


 伯父は母をそのまま田舎に置くことを決めた。


 病気が酷く、今の状態で王都へ戻すのは難しいからだ。


「でも、僕たちの家のことは心配しなくていい」


「どういうこと?」


「僕が上級文官になったから」


 弟は笑った。


「伯父様も、僕たちが男爵家の一族として残ることを認めてくれた」


「……私たちが?」


「うん」


 弟は私を見る。


「それより姉様」


「何?」


「僕、姉様に会わせたい人がいる」


「……人?」


「僕の知り合いだよ。昔の先輩で、今は同じ職場で働いている」


「まさか……」


「うん」


 弟は照れたように笑った。


「姉様のことを話したら、会ってみたいって」


「私は……」


「姉様には幸せになってほしい」


「私は、あなたが幸せならそれでいいわ」


「それじゃ駄目なんだ」


「え?」


 弟の顔が真剣になる。


「姉様が幸せじゃないと、僕は幸せになれない」


「……」


「僕はこれから、姉様にたくさん頼ってもらえるような大人になる」


 昔とは逆だった。


 あの頃は。


 弟が私に言った。


『僕が姉様を守る』


 今は。


 大人になった弟が、同じ言葉を繰り返している。


「だから、姉様」


 弟は私の手を握った。


「自分が幸せになる道を諦めないで」


 私は、泣きそうになった。


「……私ね」


「うん」


「あなたが学校で頑張っているって思ったから、今まで頑張れたの」


「姉様……」


「あなたがいるから、私は一人じゃなかった」


 弟が目を伏せる。


「だから私は、ずっとあなたに頼っていたのよ」


「……僕に?」


「ええ」


 私は笑った。


「あなたがいなかったら、私はもっと早く諦めていたと思う」


 弟は何も言わなかった。


 ただ、私の手を強く握った。


 その日の夜。


 私たちは久しぶりに二人で食卓を囲んだ。


 料理は豪華ではない。


 けれど。


 私は前世の記憶にある料理を少しだけ応用して、簡単な食事を作った。


「姉様」


「何?」


「これ、覚えてる?」


 弟が指差した。


 薄い焼き菓子のようなもの。


 小麦粉を薄く溶き、熟しすぎた果物を潰して混ぜて焼いたもの。


 昔、食べるものがなかったとき。


 私たちはそれを「ごちそう」と呼んでいた。


「覚えてるわ」


「これ、美味しかったよね」


「ええ」


「今思うと、よくあれを美味しいって言ってたよね」


「だって、ごちそうだったもの」


 二人で笑った。


 あの頃は。


 あれが本当にごちそうだった。


 けれど今は違う。


 弟の前には、温かい料理がある。


 私の前にもある。


 そして。


 明日も食べることができる。


「ねえ」


「何?」


「これから、もっと美味しいものを作るわ」


「本当?」


「ええ」


 私は胸を張った。


「あなたが太って、服の寸法を直さなきゃいけなくなるくらい作ってあげる」


「それは困るなぁ」


「困らないわよ」


「じゃあ、姉様も一緒に食べてね」


「もちろん」


 私は笑った。


 そして。


「卒業おめでとう」


「ありがとう」


「それから――」


 少しだけ言葉に詰まった。


 けれど、今度はちゃんと言った。


「おかえりなさい」


 弟が笑う。


「ただいま」


 私はその言葉を聞きながら、窓の外を見た。


 そこには、今日も鳥が飛んでいた。


 昔の私は、鳥になりたかった。


 空を自由に飛びたかった。


 自分で食べ物を見つけたかった。


 誰にも縛られずに生きたかった。


 だから、鳥のほうが幸せなのだと思っていた。


 けれど。


 今は違う。


 人間だからこそ。


 誰かと一緒に食卓を囲める。


 誰かの帰りを待てる。


「おかえり」と言える。


「ただいま」と返してもらえる。


 そして。


 一緒に未来を作ることができる。


 私は、前世で一度死んだ。


 そしてこの世界で、もう一度生きることになった。


 神々から与えられた力も。


 前世の記憶も。


 この世界で得た刺繍の技術も。


 そのすべてが、私の人生になった。


 そして今。


 私には、一緒に生きたい人がいる。


「……鳥じゃなくて、よかった」


 私は小さく呟いた。


 窓の外の鳥を見ながら。


 そして隣にいる弟を見る。


「人間に生まれて、本当によかった」


 空を飛ぶことはできない。


 どこへでも自由に行けるわけでもない。


 それでも。


 人間だから、手をつなげる。


 人間だから、誰かを待てる。


 人間だから、一緒に食べられる。


 人間だから――。


 誰かと一緒に、幸せを探していける。


 だから私は。


 もう鳥にはなりたいと思わない。


 この世界で。


 この身体で。


 この人生を。


 弟と一緒に、生きていく。


 ――空を飛ぶ鳥よりも。


 大切な人と同じ大地を歩いていく人生のほうが、ずっと幸せなのだから。

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