もう1人の人格(読み切り)
僕は、たまに目を覚ます。
眠っているわけではない。
目は、たぶんずっと開いている。
それでも僕にとっては、「目を覚ます」という言葉が一番近かった。
いつ目を覚ますのかは、僕にも分からない。
朝のこともある。
昼のこともある。
夕方のこともある。
夜は、あまりない。
人の声が少なくなったとき。
雨が降っているとき。
歩いている途中で、急に周りの音が遠くなったとき。
窓の外をぼんやり眺めているとき。
そういうときに、僕は突然ここにいる。
そして、ほんの少しだけ世界を見る。
最初に目を覚ましたときのことを、僕は覚えていない。
だから、たぶん「最初」というものは存在しない。
僕にとっては、いつも途中からだった。
*
その日、僕は歩いていた。
どこへ向かっているのかは、分からなかった。
いや。
正確には、分からなくても困らなかった。
僕が目を覚ますとき、いつもそうだった。
体はすでに目的地を知っている。
足は勝手に歩いている。
僕はただ、その途中にいる。
午後の道だった。
空は薄い灰色で、雲が低かった。
雨が降るかもしれない。
そう思った。
道路の端には、水たまりがいくつか残っていた。
僕はその一つを避けながら歩いた。
そのとき、ふと思った。
「ああ……」
声には出さなかった。
前に見たことがある。
この道。
この電柱。
この角。
そして、あそこにある木。
僕は立ち止まった。
木を見上げる。
「大きくなったな」
前に見たときは、もっと小さかった。
どれくらい前だっただろう。
一週間?
一か月?
もっと前かもしれない。
僕には分からない。
葉っぱが増えていた。
枝も伸びている。
木の下に置かれていた小さな植木鉢はなくなっていた。
代わりに、古い自転車が一台置かれている。
誰かがここに暮らしている。
そんなことを、今さら知った。
僕は少し笑った。
世界は、僕が見ていない間にも進んでいる。
当たり前のことなのに、不思議だった。
そのとき、風が吹いた。
少し冷たかった。
「外、涼しいな」
僕は空を見上げた。
雲の向こうには太陽があるはずなのに、光がほとんど届いていない。
遠くから車の音がした。
一台。
二台。
そして、また静かになった。
僕は歩き出した。
何かをしなければならないわけではない。
ただ、歩いた。
それだけだった。
しばらくすると、川が見えてきた。
橋の上から川を覗く。
水が流れている。
前に見たときより、速い。
川岸の草が倒れている。
土も少し濡れていた。
僕はしばらく眺めていた。
そして気づいた。
「ああ、そうか」
昨日、雨が降ったんだ。
僕は空を見た。
雨の匂いが残っている。
濡れた土の匂い。
川の音。
遠くで鳴っている自転車のベル。
全部が静かだった。
僕は橋の手すりに手を置いた。
冷たい。
「雨、降ったんだな」
それだけ言った。
そして、その瞬間だった。
視界が少しだけ暗くなった。
「あ……」
僕は目を瞬いた。
次に目を開けたとき、
僕はもうそこにいなかった。
*
「……」
彼は歩いていた。
さっきまで何を考えていたのか、分からない。
ただ、足は止まらなかった。
彼はいつものように歩いた。
目的地へ向かって。
まるで何も起こらなかったように。
*
次に僕が目を覚ましたのは、雨の日だった。
雨は、静かだった。
ザーザー降る雨ではない。
窓ガラスに小さな水滴がついて、ゆっくり下へ流れていく。
僕は部屋にいた。
正確には、僕の目に映っているものしか分からない。
白い壁。
机。
椅子。
窓。
そして、窓の外。
僕は窓の近くに立っていた。
いや。
立っていた、というより、
「立っていることに気づいた」
というほうが正しい。
雨を見る。
窓の向こうに、傘を差した人が歩いていた。
赤い傘。
黒い傘。
透明な傘。
それぞれが雨の中を進んでいる。
僕はその人たちを眺めた。
誰なのかは知らない。
でも、なんとなく面白かった。
同じ雨の中にいるのに、誰も同じ歩き方をしていない。
急いでいる人。
ゆっくり歩く人。
傘を少し傾けている人。
スマートフォンを見ながら歩く人。
僕は窓に近づいた。
ガラスに手を当てる。
冷たい。
雨粒が手の向こうを流れていく。
「雨って……」
僕は少し考えた。
いつも降っているわけじゃない。
でも、降ったあとは、世界が少し変わる。
道路が黒くなる。
木の葉が濃くなる。
川が速くなる。
空気が冷たくなる。
僕は前に見た川を思い出した。
あの川も、今ごろ速く流れているだろうか。
そう思った。
その瞬間。
胸の奥で、何かが遠ざかった。
「あ……」
まただ。
僕はそれを知っていた。
もうすぐ終わる。
なぜ終わるのかは分からない。
でも、分かる。
世界の輪郭が少しずつ薄くなる。
僕は最後にもう一度、窓の外を見た。
雨。
傘。
道路。
木。
そして、向こうの建物。
「また……」
言いかけて、やめた。
また来られるかどうかなんて分からない。
僕は、いつもそうだった。
次があると思っていても、次がいつなのかは知らない。
だから、
「またね」
とは言わなかった。
ただ、
「雨、きれいだな」
と思った。
そして消えた。
*
季節が変わった。
僕は、それを知らない。
僕がいない間に、世界は勝手に季節を進めていく。
次に目を覚ましたとき、僕は駅にいた。
人がたくさんいた。
僕は少し驚いた。
前に見たときは、こんなに人はいなかった。
駅の時計を見る。
時間は夕方だった。
ホームへ向かう人。
階段を上る人。
降りる人。
誰かを待っている人。
誰かを探している人。
僕はその流れの中に立っていた。
不思議だった。
僕は、ここにいる。
でも、誰も僕を待ってはいない。
誰も僕に気づかない。
それは寂しいことなのかもしれない。
けれど、僕はあまり寂しくなかった。
なぜなら、僕自身も、誰かを待っているわけではなかったからだ。
ただ、世界を見ている。
それだけだった。
ふと、駅の端にあるベンチが目に入った。
僕はそこへ歩いた。
座る。
ベンチは少し冷たかった。
前にここへ来たことがある。
そう思った。
でも、誰と来たのかは思い出せない。
いや。
僕は一人だったのかもしれない。
しばらくして、隣に誰かが座った。
知らない女性だった。
彼女はスマートフォンを見ている。
僕は横目で見た。
画面の文字は見えなかった。
彼女が小さく笑った。
誰かからメッセージが来たのだろう。
僕は、その笑顔を見ていた。
すると突然、
「いいな」
と思った。
何がいいのか、自分でも分からなかった。
ただ、
誰かとつながっているということが、
少しだけ羨ましかった。
僕は自分の手を見る。
普通の手だった。
指もある。
爪もある。
傷も少しある。
この手で何をしてきたのだろう。
僕は知らない。
僕がいない時間に、この手は何をしていたのだろう。
誰かに触れたのだろうか。
何かを書いたのだろうか。
何かを作ったのだろうか。
誰かを抱きしめたのだろうか。
それとも、
ただ毎日を過ごしていただけなのだろうか。
僕は自分の手を見つめた。
そして初めて、
少し怖くなった。
僕の知らない時間がある。
僕の知らない人生がある。
それなのに、
その人生は確かに僕のものなのだ。
そう考えた瞬間、
電車が入ってきた。
風が吹いた。
人が動いた。
音が一気に大きくなった。
そして――
僕は消えた。
*
「……」
彼はベンチから立ち上がった。
隣にいた女性は、まだスマートフォンを見ていた。
彼は何も知らない。
自分がさっきまで何を考えていたのか。
なぜベンチに座ったのか。
なぜ急に立ち上がったのか。
それも分からない。
ただ、
「帰ろう」
と思った。
そして歩き出した。
*
僕が初めて、
「僕は誰なんだろう」
と考えたのは、そのずっと後だった。
その日は晴れていた。
空が高かった。
僕は川の近くにいた。
あの川だった。
以前見た川。
水の流れは穏やかだった。
僕は橋の上から川を眺めた。
そして、笑った。
「久しぶり」
誰に言ったのか分からない。
川に言ったのかもしれない。
世界に言ったのかもしれない。
あるいは、
自分自身に言ったのかもしれない。
川は何も答えなかった。
ただ流れていた。
僕は以前ここに来たときのことを思い出した。
雨が降った翌日だった。
水が速かった。
草が倒れていた。
あの日から、どれくらい経ったのだろう。
僕には分からない。
けれど、
川は覚えているような気がした。
雨の日も。
晴れの日も。
夏も。
冬も。
僕が見ていない時間も。
ずっとここにいた。
僕は川を見ながら考えた。
僕は、世界を見ている。
でも世界は、
僕が見ていない間にも続いている。
僕が眠っている間も。
僕が消えている間も。
僕の知らない時間の中で、
木は伸びる。
人は年を取る。
建物は建つ。
建物はなくなる。
川は流れる。
雨が降る。
季節が変わる。
僕はそれを、一瞬ずつしか見られない。
それなら。
僕は人生を生きているのだろうか。
それとも、
誰かの人生の隙間から、
世界を覗いているだけなのだろうか。
答えは出なかった。
でも、
答えが出なくてもいいような気がした。
川は流れている。
それだけで十分だった。
そのとき、遠くから風が吹いた。
少し冷たい。
僕は目を細めた。
そして、川の向こうにある木を見る。
昔よりずっと大きくなっていた。
僕は笑った。
「大きくなったな」
少し間を置いて、
自分の手を見る。
「……僕も、大きくなってるのかな」
その答えを考えようとした。
けれど、
その前に、
世界が少しだけ遠くなった。
「ああ……」
また終わる。
僕は川を見る。
最後に見たのは、
流れていく水だった。
僕が消えても、
川は流れる。
僕が知らなくても、
明日は来る。
そしていつか、
また僕は目を覚ます。
そのとき、
この川はどうなっているだろう。
木はもっと大きくなっているだろうか。
新しい建物が建っているだろうか。
誰かがいなくなっているだろうか。
誰かが新しくここへ来ているだろうか。
僕には分からない。
でも、
少しだけ楽しみだった。
だから僕は、
消える直前に、
小さく笑った。
そして、
また世界の外へ戻っていった。




