↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

もう1人の人格(読み切り)

作者: San
掲載日:2026/10/11

僕は、たまに目を覚ます。


眠っているわけではない。


目は、たぶんずっと開いている。


それでも僕にとっては、「目を覚ます」という言葉が一番近かった。


いつ目を覚ますのかは、僕にも分からない。


朝のこともある。


昼のこともある。


夕方のこともある。


夜は、あまりない。


人の声が少なくなったとき。


雨が降っているとき。


歩いている途中で、急に周りの音が遠くなったとき。


窓の外をぼんやり眺めているとき。


そういうときに、僕は突然ここにいる。


そして、ほんの少しだけ世界を見る。


最初に目を覚ましたときのことを、僕は覚えていない。


だから、たぶん「最初」というものは存在しない。


僕にとっては、いつも途中からだった。


*


その日、僕は歩いていた。


どこへ向かっているのかは、分からなかった。


いや。


正確には、分からなくても困らなかった。


僕が目を覚ますとき、いつもそうだった。


体はすでに目的地を知っている。


足は勝手に歩いている。


僕はただ、その途中にいる。


午後の道だった。


空は薄い灰色で、雲が低かった。


雨が降るかもしれない。


そう思った。


道路の端には、水たまりがいくつか残っていた。


僕はその一つを避けながら歩いた。


そのとき、ふと思った。


「ああ……」


声には出さなかった。


前に見たことがある。


この道。


この電柱。


この角。


そして、あそこにある木。


僕は立ち止まった。


木を見上げる。


「大きくなったな」


前に見たときは、もっと小さかった。


どれくらい前だっただろう。


一週間?


一か月?


もっと前かもしれない。


僕には分からない。


葉っぱが増えていた。


枝も伸びている。


木の下に置かれていた小さな植木鉢はなくなっていた。


代わりに、古い自転車が一台置かれている。


誰かがここに暮らしている。


そんなことを、今さら知った。


僕は少し笑った。


世界は、僕が見ていない間にも進んでいる。


当たり前のことなのに、不思議だった。


そのとき、風が吹いた。


少し冷たかった。


「外、涼しいな」


僕は空を見上げた。


雲の向こうには太陽があるはずなのに、光がほとんど届いていない。


遠くから車の音がした。


一台。


二台。


そして、また静かになった。


僕は歩き出した。


何かをしなければならないわけではない。


ただ、歩いた。


それだけだった。


しばらくすると、川が見えてきた。


橋の上から川を覗く。


水が流れている。


前に見たときより、速い。


川岸の草が倒れている。


土も少し濡れていた。


僕はしばらく眺めていた。


そして気づいた。


「ああ、そうか」


昨日、雨が降ったんだ。


僕は空を見た。


雨の匂いが残っている。


濡れた土の匂い。


川の音。


遠くで鳴っている自転車のベル。


全部が静かだった。


僕は橋の手すりに手を置いた。


冷たい。


「雨、降ったんだな」


それだけ言った。


そして、その瞬間だった。


視界が少しだけ暗くなった。


「あ……」


僕は目を瞬いた。


次に目を開けたとき、


僕はもうそこにいなかった。


*


「……」


彼は歩いていた。


さっきまで何を考えていたのか、分からない。


ただ、足は止まらなかった。


彼はいつものように歩いた。


目的地へ向かって。


まるで何も起こらなかったように。


*


次に僕が目を覚ましたのは、雨の日だった。


雨は、静かだった。


ザーザー降る雨ではない。


窓ガラスに小さな水滴がついて、ゆっくり下へ流れていく。


僕は部屋にいた。


正確には、僕の目に映っているものしか分からない。


白い壁。


机。


椅子。


窓。


そして、窓の外。


僕は窓の近くに立っていた。


いや。


立っていた、というより、


「立っていることに気づいた」


というほうが正しい。


雨を見る。


窓の向こうに、傘を差した人が歩いていた。


赤い傘。


黒い傘。


透明な傘。


それぞれが雨の中を進んでいる。


僕はその人たちを眺めた。


誰なのかは知らない。


でも、なんとなく面白かった。


同じ雨の中にいるのに、誰も同じ歩き方をしていない。


急いでいる人。


ゆっくり歩く人。


傘を少し傾けている人。


スマートフォンを見ながら歩く人。


僕は窓に近づいた。


ガラスに手を当てる。


冷たい。


雨粒が手の向こうを流れていく。


「雨って……」


僕は少し考えた。


いつも降っているわけじゃない。


でも、降ったあとは、世界が少し変わる。


道路が黒くなる。


木の葉が濃くなる。


川が速くなる。


空気が冷たくなる。


僕は前に見た川を思い出した。


あの川も、今ごろ速く流れているだろうか。


そう思った。


その瞬間。


胸の奥で、何かが遠ざかった。


「あ……」


まただ。


僕はそれを知っていた。


もうすぐ終わる。


なぜ終わるのかは分からない。


でも、分かる。


世界の輪郭が少しずつ薄くなる。


僕は最後にもう一度、窓の外を見た。


雨。


傘。


道路。


木。


そして、向こうの建物。


「また……」


言いかけて、やめた。


また来られるかどうかなんて分からない。


僕は、いつもそうだった。


次があると思っていても、次がいつなのかは知らない。


だから、


「またね」


とは言わなかった。


ただ、


「雨、きれいだな」


と思った。


そして消えた。


*


季節が変わった。


僕は、それを知らない。


僕がいない間に、世界は勝手に季節を進めていく。


次に目を覚ましたとき、僕は駅にいた。


人がたくさんいた。


僕は少し驚いた。


前に見たときは、こんなに人はいなかった。


駅の時計を見る。


時間は夕方だった。


ホームへ向かう人。


階段を上る人。


降りる人。


誰かを待っている人。


誰かを探している人。


僕はその流れの中に立っていた。


不思議だった。


僕は、ここにいる。


でも、誰も僕を待ってはいない。


誰も僕に気づかない。


それは寂しいことなのかもしれない。


けれど、僕はあまり寂しくなかった。


なぜなら、僕自身も、誰かを待っているわけではなかったからだ。


ただ、世界を見ている。


それだけだった。


ふと、駅の端にあるベンチが目に入った。


僕はそこへ歩いた。


座る。


ベンチは少し冷たかった。


前にここへ来たことがある。


そう思った。


でも、誰と来たのかは思い出せない。


いや。


僕は一人だったのかもしれない。


しばらくして、隣に誰かが座った。


知らない女性だった。


彼女はスマートフォンを見ている。


僕は横目で見た。


画面の文字は見えなかった。


彼女が小さく笑った。


誰かからメッセージが来たのだろう。


僕は、その笑顔を見ていた。


すると突然、


「いいな」


と思った。


何がいいのか、自分でも分からなかった。


ただ、


誰かとつながっているということが、


少しだけ羨ましかった。


僕は自分の手を見る。


普通の手だった。


指もある。


爪もある。


傷も少しある。


この手で何をしてきたのだろう。


僕は知らない。


僕がいない時間に、この手は何をしていたのだろう。


誰かに触れたのだろうか。


何かを書いたのだろうか。


何かを作ったのだろうか。


誰かを抱きしめたのだろうか。


それとも、


ただ毎日を過ごしていただけなのだろうか。


僕は自分の手を見つめた。


そして初めて、


少し怖くなった。


僕の知らない時間がある。


僕の知らない人生がある。


それなのに、


その人生は確かに僕のものなのだ。


そう考えた瞬間、


電車が入ってきた。


風が吹いた。


人が動いた。


音が一気に大きくなった。


そして――


僕は消えた。


*


「……」


彼はベンチから立ち上がった。


隣にいた女性は、まだスマートフォンを見ていた。


彼は何も知らない。


自分がさっきまで何を考えていたのか。


なぜベンチに座ったのか。


なぜ急に立ち上がったのか。


それも分からない。


ただ、


「帰ろう」


と思った。


そして歩き出した。


*


僕が初めて、


「僕は誰なんだろう」


と考えたのは、そのずっと後だった。


その日は晴れていた。


空が高かった。


僕は川の近くにいた。


あの川だった。


以前見た川。


水の流れは穏やかだった。


僕は橋の上から川を眺めた。


そして、笑った。


「久しぶり」


誰に言ったのか分からない。


川に言ったのかもしれない。


世界に言ったのかもしれない。


あるいは、


自分自身に言ったのかもしれない。


川は何も答えなかった。


ただ流れていた。


僕は以前ここに来たときのことを思い出した。


雨が降った翌日だった。


水が速かった。


草が倒れていた。


あの日から、どれくらい経ったのだろう。


僕には分からない。


けれど、


川は覚えているような気がした。


雨の日も。


晴れの日も。


夏も。


冬も。


僕が見ていない時間も。


ずっとここにいた。


僕は川を見ながら考えた。


僕は、世界を見ている。


でも世界は、


僕が見ていない間にも続いている。


僕が眠っている間も。


僕が消えている間も。


僕の知らない時間の中で、


木は伸びる。


人は年を取る。


建物は建つ。


建物はなくなる。


川は流れる。


雨が降る。


季節が変わる。


僕はそれを、一瞬ずつしか見られない。


それなら。


僕は人生を生きているのだろうか。


それとも、


誰かの人生の隙間から、


世界を覗いているだけなのだろうか。


答えは出なかった。


でも、


答えが出なくてもいいような気がした。


川は流れている。


それだけで十分だった。


そのとき、遠くから風が吹いた。


少し冷たい。


僕は目を細めた。


そして、川の向こうにある木を見る。


昔よりずっと大きくなっていた。


僕は笑った。


「大きくなったな」


少し間を置いて、


自分の手を見る。


「……僕も、大きくなってるのかな」


その答えを考えようとした。


けれど、


その前に、


世界が少しだけ遠くなった。


「ああ……」


また終わる。


僕は川を見る。


最後に見たのは、


流れていく水だった。


僕が消えても、


川は流れる。


僕が知らなくても、


明日は来る。


そしていつか、


また僕は目を覚ます。


そのとき、


この川はどうなっているだろう。


木はもっと大きくなっているだろうか。


新しい建物が建っているだろうか。


誰かがいなくなっているだろうか。


誰かが新しくここへ来ているだろうか。


僕には分からない。


でも、


少しだけ楽しみだった。


だから僕は、


消える直前に、


小さく笑った。


そして、


また世界の外へ戻っていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。