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許されざる罪と、最高の罰 - (白石雪乃 視点)

 白石雪乃にとって、この世界は常に灰色だった。物心ついた時から、世界は色を失っていた。



 喜びも。

 悲しみも。

 怒りも。



 全てがすりガラスの向こう側にあるようで、現実感がなかった。親から与えられたのは、無関心という名の静かな暴力だけ。誰からも必要とされず、誰の記憶にも残らず、ただ空気のように存在しているだけ。


 そんな無価値で、無意味な人生。生きている意味など、どこにもなかった。


 

 ──橘圭一隊長に、出会うまでは。



 彼が初めて、雪乃に「色」を与えてくれた。特四への配属が決まった日。隊長室で彼は、雪乃に向かってこう言ったのだ。



「君の力が必要だ。よろしく頼むよ」



 それは新任の上司として極当たり前の、社交辞令に過ぎなかったのかもしれない。


 だが、雪乃にとっては神の啓示だった。必要だ、と言われた。生まれて初めて。この、無価値な自分が。


 その瞬間、灰色の世界に一筋の光が差し込んだ。その光は温かく、あまりにも眩しくて。雪乃はその光こそが、自分の生きる意味なのだと悟った。



 橘圭一。彼こそが、私の光。私の神。私の全て。だから雪乃にとって、訓練施設は「聖地」だった。


 なぜなら神がその最も気高く、凛々しいお姿をお示しになる場所だから。

 

 フィールドに立ち、的確な指示を飛ばす(ように見える)そのお姿。部下たちの活躍に、穏やかに頷く(ように見える)そのお姿。

 

 その一挙手一投足が、雪乃の魂を震わせた。



(ああ、隊長…今日も、なんてお美しい…なんて、気高い…)



 麗奈のように、遠距離から敵を屠る力はない。陽菜のように、圧倒的な力で全てをなぎ払うこともできない。

 

 雪乃にできるのは、ただ一つ。彼の影となり、彼の進む道を清め、掃き清めること。彼の身に迫るあらゆる脅威、あらゆる危険。そしてあらゆる不純物を事前に察知し、排除すること。


 それが自分に与えられた、唯一にして最高の存在意義。


 その日も、彼女の感覚は、極限まで研ぎ澄まされていた。風の流れ、草の匂い、空気の微かな振動、遠くで鳴く鳥の声。フィールドを取り巻く、森羅万象の全てが、彼女の知覚ネットワークに取り込まれていく。


 その全てを解析し、隊長に害をなす可能性のある要素を、一つずつ、丹念に、潰していく。麗奈の狙撃の弾道が、万が一にも隊長の方へ向かわないか。陽菜が粉砕した瓦礫の破片が、一つでも隊長の方へ飛んでこないか。


 完璧だった。彼女の張り巡らせた見えざる結界は、完璧なはずだった。



 ──隊長が、転んだ。



 その光景が、スローモーションで彼女の目に焼き付いた。背後から不注意な男がぶつかり、隊長の華奢な体が地面に崩れ落ちていく。



 その瞬間。



 ブツン、と。



 雪乃の世界を支えていた最後の糸が、音を立てて切れた。



(……なぜ?)

 


 思考が凍りつく。



(なぜ、気づけなかった…?)



 あの連絡員の存在は、もちろん認識していた。だがその男があれほどまでに不注意で愚かで、隊長に害をなす危険因子であることを見抜けなかった。なぜあの男が隊長に近づく前に、足を滑らせて転ばせるなり、腹痛を起こさせてトイレに駆け込ませるなり、事前に「処理」しておかなかったのか。



 私の、ミス。

 私の、怠慢。

 私の、落ち度。



 隊長の神聖なるお体に、傷が。彼の腕に走る、一本の赤い線。そこから滲み出る、神の血。その光景は雪乃にとって、世界の終わりを告げるラッパの音よりも、絶望的なものだった。



 光が、傷つけられた。

 私の、たった一つの光が。

 私の、注意不足のせいで。



(私の…罪…)



 それはもはや、取り返しのつかない大罪だった。ただの失敗ではない。神への、冒涜。自分のような役立たずで、無価値で欠陥品である存在が、隊長のお側にいること自体が、そもそも許されざる傲慢だったのだ。 

 

 申し訳ない。申し訳ありません、隊長。心の中で何度繰り返しても、足りない。言葉にならない謝罪の念が、雪乃の全身を苛んだ。


 そして、彼女は悟った。この万死に値する大罪を償う方法が、ただ一つだけあることを。



(この罪は、私の命でしか償えません)



 そうだ。この役立たずの命を、ここで絶つこと。それが隊長に対して今の自分が出来る、唯一にして最高の奉仕。この不純物が消え去ることで隊長の世界は、再び清浄なものになるのだ。


 雪乃は迷いなく、ホルスターの拳銃に手をかけた。冷たい鉄の感触が、不思議と荒れ狂う心を穏やかに鎮めてくれた。引き抜いた銃口を、自身のこめかみに当てる。



 これで、終わる。

 これで、償える。



「さようなら、隊長」



 最後に、彼の顔が見たかった。彼は信じられないというような顔で、こちらを見ている。そのお顔を、目に焼き付けて。



「来世でまた、お会いできますように…」



 今度こそ、もっと完璧な存在に生まれ変わり、あなたの盾となれるように。雪乃はふわりと微笑み、ゆっくりと引き金に指をかけた。


 その瞬間だった。



「やめろおおおおおおっ!!!!」



 魂を揺さぶるような、絶叫。そして温かく力強い腕が、彼女の体を背後からきつく抱きしめた。それは嗅ぎ慣れた、大好きな隊長の匂いだった。彼の手が雪乃の手から拳銃を奪い取り、遠くへ放り投げる。



「馬鹿なことを言うな! 死んで詫びるなど、僕が許さない!」



 耳元で、彼の声が響く。怒っている。自分の、身勝手な行動に。



(…そうですよね。死ぬことすら、私の自由にはならない。私の命はとうの昔に、あなたのものなのだから)



 雪乃の心に絶望と、そして歓喜が同時に押し寄せた。



「君がいなくなったら、僕は…僕は! どうすればいいんだ!」



 その、悲痛な叫び。それは雪乃の乾ききった心に、聖なる恵みの雨のように、染み渡っていった。



(…ああ)



 雪乃の瞳から大粒の涙が、堰を切ったように溢れ出した。



(隊長が…私を…)

(この、無価値な私を…必要だと、おっしゃってくださっている…!)

(私がいないと、困ると…! 私がいないと、ダメだと…!)



 それは彼女が生まれてからずっと、心の奥底で誰かに言ってもらいたかった言葉。

 


 死ぬことすら、許されない。

 生きて彼のそばにいろ、と。



 それは神が己にお与えになった、新たな使命。死ぬことよりもはるかに甘美で、はるかに重い罰であり、そして最高の救いだった。



「…はい」



 雪乃は橘の腕の中でか細く、しかしはっきりと答えた。



「申し訳…ありませんでした…」



 拳銃を握っていた指の力は、完全に抜けていた。彼女はそっと自分を抱きしめる隊長の腕に、自分の手を重ねた。



「私の命は…もう、とっくに…隊長のものですから…」



 その声は、恍惚とした響きを帯びていた。もう、迷わない。この命が燃え尽きるその瞬間まで、全て彼に捧げよう。そう決意した彼女の顔には大罪を犯した罪人の絶望と、神に許された信徒の至福が奇妙に同居した、聖母のような笑みが浮かんでいた。

 

 橘の腕の中で雪乃は生まれて初めて、生きていることの本当の意味を知ったのだった。









 ■








 

 (これだから異常者は!!!!)

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