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正義の鉄槌と唐揚げ - (赤城陽菜 視点)

 赤城陽菜にとって、警視庁の職員食堂は、天国に最も近い場所だった。


 美味しいごはんが安く食べられるから? 違う。

 栄養バランスが考えられているから? もっと違う。


 答えは、ただ一つ。

 

 愛してやまない橘圭一の食事をする御姿を、思う存分拝見することが出来るからだ。



(隊長、今日も素敵…!)



 陽菜は自分の日替わり定食には目もくれず、少し離れた席から列に並ぶ橘の姿をうっとりと見つめていた。


 背筋がすっと伸びた、綺麗な立ち姿。少しだけ憂いを帯びた、知的な横顔。時折、周囲を気にするように動くその仕草ですら、彼女の目には「常に部下たちの安全に気を配る、完璧な指揮官の姿」として映っていた。



 陽菜は、自分の頬が緩むのを感じた。



(隊長、大好き…♡)



 その想いが、心の奥からぽかぽかと湧き上がり、全身を温かい幸福感で満たしていく。


 彼女は、知っている。今日の火曜日は隊長が週に一度、心から楽しみにしている「若鶏のジューシー唐揚げ定食」の日であることを。

 

 もちろん食堂の献立表は一ヶ月分、全て頭に入っている。隊長の好き嫌いもアレルギーの有無も、最近少し気にしている塩分量も完璧に把握済みだ。それは隊長の「盾」である自分にとって、当然の嗜みだった。


 隊長が嬉しそうな少しだけ子供っぽい表情で、唐揚げの盛られたガラスケースを見つめている。その御姿を見ているだけで、陽菜の心も自分のことのように弾んだ。



(隊長が幸せだと、私も幸せ…♡)



 この平和な時間が、永遠に続けばいいのに。陽菜は、心からそう願った。


 しかし、だ。そのささやかな願いは、一人の無作法な男によって無慈悲にも打ち砕かれた。


 ガタイのいい、機動隊員の男。陽菜も、顔だけは知っている。訓練で何度か見かけたことがある。己の筋肉を過信しデリカシーというものを母親の胎内に置き忘れてきたような、典型的な脳筋タイプの男だ。


 その男があろうことか橘隊長の前に割り込み、最後の唐揚げ定食を奪い取ったのだ。



「悪ぃな、ラスイチもらうわ」



 その、軽薄な声が聞こえた瞬間。



 ──ブツン。



 陽菜の世界から、音が消えた。食堂の喧騒も、隣に座る麗奈がページをめくる音も、遠くで雪乃がフォークを皿に置く音も、何もかもが聞こえなくなった。


 彼女の視界には、ただ二つのものしか映っていない。大切な宝物を奪われ悲しそうに立ち尽くす、可哀想な隊長の姿。

 

 そしてその宝物を土足で踏みにじるように奪い去った、万死に値する不届き者の姿。



(──隊長の、宝物を、奪った?)



 陽菜の脳内で、思考が高速で組み立てられていく。それは、複雑な方程式などではない。子供でも分かる極々シンプルな、絶対の真理。



【命題1】橘圭一隊長は私が命を捧げてお仕えする、唯一無二の神様である。

【命題2】神様が楽しみにしていた唐揚げ定食は聖遺物アーティファクトと同等の価値を持つ、侵してはならない神聖なる宝物である。

【命題3】その宝物を奪ったこの男は神への反逆者であり、存在そのものが罪である。

【結論】神に代わって、私がこの反逆者に神罰を下す。



 彼女の席から、橘の表情がよく見えた。彼は悲しみを押し殺し引きつった笑顔を浮かべて、男に道を譲っている。



(ああ…! 隊長は、なんて、なんてお優しいんだ…!)



 陽菜の胸は感動と、そして激しい怒りで張り裂けそうになった。



(こんな愚かで、救いようのない罪人にまで、慈悲をおかけになるなんて…! 隊長のその海より深い優しさに、この男は気づきもしない! 甘えている! ならば!)



 ならば私が、この男に教えなければならない。神の慈悲に限りなどないと思ってはいけない…っと。神の怒りに触れることがどれほど恐ろしいことであるのかを、その矮小な体に骨の髄まで刻み込んであげなければならない。


 陽菜は、スッと立ち上がった。彼女の心は、不思議なほどに静かだった。怒りで燃え上がっているはずなのに、頭の芯は、氷のように冷え切っている。

 

 一歩、また一歩と、男に近づく。周囲の人間が、息を飲んでこちらを見ているのが分かった。それでいい。よく見ておくといい。これが我らが隊長に仇なす者が、どのような末路を辿るかという見せしめだ。


 男の前に立つ。男はきょとんとした顔で、陽菜を見下ろしていた。



「ん? どうした、嬢ちゃん。俺に何か用か?」



 その無知ゆえの能天気な声が、陽菜の逆鱗に最後のひと押しを加えた。陽菜はにっこりと、満面の笑みを浮かべた。


 これは、威嚇ではない。慈悲だ。これから神罰を受ける神たる隊長への反逆者に、せめてもの手向けとして美女の笑顔を見せてやろうという、最大限の温情。



「隊長の唐揚げを盗むなんて、万死に値します!」



 元気よくはっきりと、罪状を読み上げる。これは、最後の警告。もしこの男に少しでも知性があれば、ここで土下座し唐揚げを差し出し、自らの過ちを涙ながらに謝罪しただろう。


 だが、愚かな男は、その意味を理解できなかった。


 だから、陽菜は拳を振るった。それはもはや、暴力ではない。祈りだ。愚かな魂が、来世ではもう少しマシな人間に生まれ変われますように、という彼女なりの慈愛に満ちた祈り。


 拳が、男の体に吸い込まれる。手応えは、豆腐のようだった。彼女は、男の胸倉を掴む。軽い。発泡スチロールのようだ。



「隊長の宝物を奪う不届き者は、壁のシミにしてあげます!」



 それは、処刑宣告。そして、神の鉄槌は、振り下ろされた。


 男は、面白いように飛んでいった。壁に激突し、見事なクレーターを作る。



(うん! 上出来!)



 陽菜は、満足げに頷いた。これでこの食堂の壁を見るたびに、誰もが思い出すだろう。橘隊長のものを奪うとどうなるか、ということを。これは未来への、投資でもあった。



 陽菜は自分の仕事ぶりに満足しながら、床に落ちる寸前だったトレーを華麗にキャッチした。



(よかった…! 隊長の大切な唐揚げは、無事だ…!)



 お皿も割れていない。お味噌汁も、一滴もこぼれていない。完璧な仕事だった。彼女はその聖遺物を祭壇に捧げる巫女のような、敬虔な気持ちで橘の元へと運んだ。


 橘は、少し顔色が悪いようだった。



(きっと、あの汚らわしい男のせいで、気分を害されたに違いない…!)



 そう思うと、陽菜は申し訳なさで胸が一杯になった。



「隊長…! ごめんなさい…!」



 彼女は、心の底から謝罪した。己の力が足りないばかりに、隊長にこのような不快な思いをさせてしまった。本当ならあの男が隊長に近づく前に、自分が気づいて事前に処理しておくべきだった。神聖であるべき隊長の昼食の儀式を、不浄な輩の存在で少しでも汚してしまった。

 

 その罪は、万死に値する。



「私、我慢できませんでした…! 隊長があんなに、あんなに楽しみにしていた唐揚げを目の前で奪われるなんて…! 私、許せなかったんです…!」



 涙が、自然とこぼれ落ちた。



 (どうかこの愚かな私をお許しください、隊長)



 橘は一瞬、固まっていた。やがて引きつったような、しかし陽菜には最高の笑顔に見える表情でトレーを受け取ってくれた。



「あ、ありがとう、陽菜…。君の気持ち、嬉しいよ」



 その声が聞こえた瞬間、陽菜の世界に、再び色が戻ってきた。



(よかった…! 隊長、許してくださった…!! 私のしたことは、うん! 間違っていなかったんだ…! 隊長は、喜んでくださっているんだ!! きゃ♡)



 全身が、歓喜に打ち震えた。やっぱり隊長は世界で一番優しくて、素敵で、偉大な方だ。この御方のためなら、私は、なんだってできる。なんだって、壊せる。陽菜は自分の席に戻りながら、固く固く心に誓った。壁に埋め込まれたままの男には、もう何の興味もなかった。あれはもう、ただのシミだ。



(これからは、もっと気をつけよう)

(隊長に近づく、全ての害虫を)

(隊長の心を、ほんの少しでも曇らせる、全てのゴミを)

(私が事前に見つけて、駆除しよう)



 そう決意した彼女の顔には大好きな男を守るという、神聖な使命感に満ちた一点の曇りもない、太陽のような笑顔が輝いていた。























 「…♡」



 (やめろ! そんな瞳で…俺を見るなァァァァ!!!)

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