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休日という名の幻想 - (橘圭一 視点)

 小鳥のさえずりが、やけに大きく聞こえる。橘圭一は、自室のベッドの上でゆっくりと瞼を開いた。カーテンの隙間から差し込む陽光が、床の上で穏やかな幾何学模様を描いている。時計を見れば、午前十時。休日としては、理想的な目覚めの時間だった。



「…自由だ」



 絞り出すように呟いたその声は、長期の刑期を終えて出所した囚人のそれに似ていた。


 そうだ、自由なのだ。今日は待ちに待った、非番の日。あの地獄のような隊長室へ行く必要もなければ、部下という名の三体の魔物と顔を合わせる必要もない。昨晩、胃薬を通常の三倍量服用して無理やり眠りについた甲斐があったというものだ。


 橘はベッドから起き上がると、大きく伸びをした。華奢な体がポキポキと情けない音を立てる。体力測定は常にギリギリ合格。そんな自分が、なぜ特殊凶悪犯を相手にする部隊の隊長など務めているのか。答えは一つ、父親が警察庁次長というとんでもない権力者で、その親バカが息子のキャリアに箔をつけようと画策した結果だ。



『圭一には人の上に立つカリスマがある』



 先日の視察で、父は満足げにそう言った。違う、違うよ父さん。自分にあるのは、カリスマなんかじゃない。猛獣使いのスキルが、嫌でも身についてしまっただけだ。それもいつ猛獣に喰い殺されるか分からない、薄氷を踏むようなスキルが。



(いや、よそう。今日は考えるな)



 橘は頭を振った。今日は休日だ。あの忌まわしい記憶は、脳の片隅に封印するに限る。彼はクローゼットを開け、当たり障りのない私服を選んだ。少し色落ちしたジーンズに、着心地の良いコットンのTシャツ。そして、日差しを避けるためのベースボールキャップ。


 完璧だ。これなら、街に溶け込んで、誰も彼が「警視庁の生ける伝説(笑)」こと橘圭一だとは気づくまい。


 家を出る前、彼は玄関のドアの前で一度立ち止まり、深呼吸をした。ドアスコープをそっと覗き込む。廊下には誰もいない。よし。念のため、耳をドアに押し当てる。人の気配はない。よし。



「…行ってきます」



 誰に言うでもなく呟き、彼はそっと、まるで空き巣にでも入るかのように静かにドアを開け、外へと滑り出た。


 マンションのエレベーターは使わない。あれは密室だ。階段を、足音を殺して駆け下りる。一階に着き、エントランスの植え込みを入念にチェックする。茂みの中に、あの黒ストッキングの悪魔(麗奈)が潜んでいる可能性はゼロではない。


 異常なし。


 橘は、ようやく安堵の息を吐き、太陽の下へと歩み出した。


 自由の空気は、美味い。街は活気に満ち溢れていた。カフェのテラスで談笑するカップル、公園で駆け回る子供たち、ショーウィンドウを眺める若者たち。その全てが、橘には輝いて見えた。平和とは、これほどまでに尊いものだったか。


 彼は特に目的もなく、ぶらぶらと街を散策した。普段、通勤で使う道とは逆方向へ。行動パターンを読まれないための、涙ぐましい努力だ。


 しかし、どうだろう。三十分ほど歩いただろうか。ふと橘の背筋に、冷たいものが走った。



(…見られている?)



 気のせいか。いや、しかし、この感覚には覚えがある。隊長室で三方向から常に突き刺さってくる、あの視線。粘着質で、ねっとりとしていて、逃がさないとでも言うような、捕食者の視線。


 橘は、さりげなくショーウィンドウのガラスに映る背後を確認した。怪しい人影はない。道行く人々は、誰も彼に注意を払っているようには見えなかった。



(…疲れているんだ、俺は)



 彼は自嘲気味に息を吐いた。完全に神経過敏になっている。あの職場は、確実に彼の精神を蝕んでいた。そうだ、気分転換が必要だ。何かこう、心が晴れるような、男としての本能が喜ぶような、そんな刺激が。


 彼の足は、自然と大型書店へと向かっていた。巨大なビルの数フロアを占めるその書店は、あらゆるジャンルの本を網羅しており、休日を過ごすにはうってつけの場所だった。橘は最新のビジネス書や歴史小説のコーナーを素通りし、一直線にある場所を目指す。



 ──雑誌コーナーだ。



 彼の目当ては、もちろん男性向けの週刊誌や漫画雑誌ではない。もっとこう、華やかで夢と希望に満ちた、それでいて少しだけ背徳的な香りのする、あれだ。



(あった…)



 橘の目が、きらりと光った。女性ファッション誌のコーナー。色とりどりの表紙が、彼の心を躍らせる。人気女優やモデルたちの、屈託のない笑顔。流行のファッションに身を包んだ彼女たちの姿は、橘の荒んだ心にとって、何よりの清涼剤だった。


 周囲を素早く確認する。よし、人は少ない。彼は、ごく自然な動きで、一冊の雑誌を手に取った。タイトルは『ange』。20代前半の女性をターゲットにした、少し大人向けのファッション誌だ。


 パラパラとページをめくる。最新のコスメ情報、初夏の着回しコーデ特集、人気カフェのスイーツ紹介…。どれもこれも、平和な世界の象徴だ。



(いい…実にいい…)



 橘は、心が浄化されていくのを感じた。そして、彼の指は、ある特集ページの前でぴたりと止まる。



『この夏、勝負はインナーで決まる! 見えないお洒落で差をつける、最新ランジェリー特集15選!』



(き、きたーーーっ!)



 橘の心の中で、歓喜のゴングが鳴り響いた。これだ。自分が求めていたのは、まさにこれなのだ。


 レースをふんだんに使った繊細なデザイン、肌の色を美しく見せるシルクの光沢、大胆なカッティングの魅惑的なフォルム。ページを飾るモデルたちの完璧なプロポーションと、それを彩る芸術的なランジェリーの数々。これはもはや、エロスなどという下世話なものではない。アートだ。美の探求だ。


 橘は周囲の目を盗みながら、そのページを食い入るように見つめた。



(グヘヘ…この黒のレースのやつ、ヤバいな…麗奈の、あの完璧なボディラインに、この黒ストッキングと組み合わせたら、さぞかし似合うだろう…いやいや、あいつはこういうのより、もっとこう、シンプルなやつの方が…って、何考えてんだ俺は!)



 無意識に部下のことを考えてしまった自分に、橘はゾッとした。いかんいかん、今日は奴らのことを忘れる日だ。



(陽菜は…うん、こういうオレンジ色のスポーティーなやつだな。あの、ダイナマイトボディをしっかり支えつつ、健康的なお色気を振りまく感じ。想像しただけで鼻血が…)


(雪乃は…やっぱ白か。純白の、フリフリがいっぱいついてるやつ…。あの白いニーハイとのコンビネーション…。神か。いや、待てよ? あいつにこれを着せたら、俺がどんな反応をするか試すために、わざと俺の前で着替え始めたりしかねないぞ…!)



 思考は止まらない。もはや病気だ。だが、この瞬間だけは、彼はただのスケベな男だった。隊長の威厳も、次長の息子という立場も関係ない。ただ、己の煩悩に忠実に、美しいものを愛でる一人の男。

 

 その時だった。



 ──ブルルッ…ブルルルッ…。



 ジーンズのポケットに入れていたスマートフォンが静かに、しかし執拗に震えた。橘の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。全身の血が、一瞬で凍りつくような感覚。



(まさか…)



 嫌な予感しかしない。このタイミングで連絡してくる相手など、限られている。恐る恐る彼は雑誌を棚に戻し、スマホを取り出した。画面には、見慣れた名前が表示されている。



『黒澤 麗奈』



 終わった。橘の脳裏に、その四文字が浮かんだ。終わった。自分の休日は今この瞬間、終わったのだ。震える指で、メッセージアプリを開く。そこに表示された一文は彼の絶望を確定させるのに、十分すぎる内容だった。



『隊長、そのような雑誌もお好きでしたか。今後の参考にします♡』



 文末に添えられたハートマークが、まるで悪魔の嘲笑のように見えた。参考にする? 何をだ? 何を参考にするというのだ? 上司たる自分の好みを把握して、いつかその下着を身につけて目の前に現れるとでもいうのか? やめろ。想像しただけで失神しそうだ。


 だが、問題はそこではない。


 なぜ、知っている? なぜ俺が今この書店で、女性ファッション誌を読んでいたことをお前が知っている? 


 答えは、考えるまでもない。見られている。今、この瞬間も。


 橘は、ゆっくりと顔を上げた。書店の大きな窓から、外の景色が見える。向かいの雑居ビル、その隣の高層オフィス、さらに遠くに見える建設中のクレーン。


 あの、どこかに。どこかにいるのだ。漆黒の悪魔が。ライフルのスコープか、あるいは高性能の双眼鏡で。自分の一挙一動を瞬きすらも見逃すことなく、監視しているのだ。


 非番の日も、休まる時などありはしない。橘圭一という人間は、生まれてから死ぬまで、あの女の監視下から逃れることは出来ないのだ。その事実が、巨大な絶望となって彼の全身にのしかかる。



「…っ!」



 橘は、スマホを握りしめた。ミシミシと、安物のプラスチックケースが悲鳴を上げる。このまま全力で地面に叩きつけて、粉々に砕いてやりたい。


 だが、そんなことをすれば、間違いなく麗奈から『隊長、スマートフォンを壊されたのですか? 新しいものをお届けします』という手紙が届き、ご丁寧にも最新機種が即日支給されるに決まっている。もちろん、最初から監視アプリてんこ盛りの、特製モデルが。


 橘は、深呼吸を一つした。そして、完璧な営業スマイルを顔に貼り付け、スマホの画面に向かってメッセージを打ち込み始めた。



『やあ、麗奈。妹にプレゼントでもと思ってね。最近の流行りは難しいな』



 完璧だ。我ながら、完璧な言い訳だ。これなら不審に思われることもあるまい。送信ボタンを押す。既読がつくのは、0.5秒後だった。即座に返信が来る。



『そうでしたか。ですが、隊長に妹君はいらっしゃらないはずですが』



 橘はスマホを握りしめたまま、その場で崩れ落ちそうになった。


 そうだ。忘れていた。己の家族構成など、彼女にとってはウィ○ペディ○の基本情報よりも正確にインプットされているのだ。迂闊だった。墓穴を掘った。追い打ちをかけるように、新たなメッセージが届く。



『もしかして、私へのプレゼントでしょうか? 黒のレースがお好みですか? それとも、シンプルなものが…?』



(具体的に聞いてくるんじゃねェェェェ!!!)



 橘は、心の中で絶叫した。完全に、自分の思考は読まれている。ここで「そうだ」と言えばどうなる? 喜ぶだろう。だが、後が怖い。必ず「いつ、いただけるのですか?」という追撃が来る。そして、自腹で高級ランジェリーを買いに行かされる羽目になる。店員にどんな目で見られることか。


 ここで「違う」と言えばどうなる? 彼女は失望するだろう。そして、失望した彼女が次にとる行動は、橘の乏しい想像力では予測することすら不可能だ。


 もはや、どちらを選んでも地獄。


 橘圭一は、書店の人通りの少ない通路の真ん中で、天を仰いだ。自由とは、幻想だった。休日の解放感も、つかの間の夢だった。


 彼の人生は、巨大な鳥籠の中。そして、その鳥籠の鍵を握っているのは、彼を愛してやまない、一人の美しい悪魔なのだ。



「…カツ丼、食って帰ろ」



 力なく呟いたその声は、雑踏の喧騒に吸い込まれて消えていった。

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