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第八話 朱雀宮


(な、なんで私、勤務三日目でこんなことに……!)



 玻璃(はり)は上げた袖に隠れるように深く下げた頭に、冷や汗が止まらない。礼に構える両腕も大理石の床に立つ両脚も膝からガクガクと小刻みに震える。


 目の前の豪勢な革椅子に座る皇太后(こうたいごう)の視線が、ぐりぐりと自分の心を()してくる。皇太后の周囲に立つ御付(おつ)きの女官たちの視線も、まるで連続で射かけられた矢に刺さるように肌に痛い。



(こう)玻璃(はり)……。忘れていないわよ。あなたのこと」


「え……。はぃ……すみません……」



 笑みを浮かべる皇太后に名を呼ばれて、玻璃の肩はさらに(すぼ)まっていく。怖い怖い怖い怖い……っ。


 皇太后、つまり現皇帝のご母堂様。齢は七十代と聞くが、一見すると五十代、いやもしや四十代後半なのではと思えるほどの妖艶さがある。ただ座っているだけなのに、圧倒的な威圧感。恐ろしく輝く美貌と服装。あの優しげな笑みが、玻璃には逆に恐ろしく感じる。


 気丈な玻璃にも早く忘れたい過去がある。そのうちの二つが、皇太后の御前での場面だ。玻璃が皇太后に会うのは、実はこれが三度目のことだ。しかも忘れてないという。怖い怖い怖い怖い……っ!


 いろいろと皇太后が質問をし、玻璃もそれとなく答えている。しかし玻璃は極度の緊張で全く頭に入っていない。皇太后が何を()いているのか、自分が何を答えているのか、全く頭で理解できていない。どうしよう。どうしよう。


 ただ、皇太后がある男性の名前を発した時に、玻璃はハッと我に返る。



薫鳳(くんぽう)


「はい」



 皇太后が玻璃の横に立つ銀髪の調香師に何かを命じ、彼がそれに応えたということだけ、玻璃は理解する。



「いいわね。潰しなさい」


「分かりました」


(ヒィィィィッ! これヤバいやつだ。潰されちゃう……っ。私、何か悪いことしたっけ……っ!? 薫鳳の奴もなんで『分かりました』って迅速冷淡すぎな業務連絡なの? たった三日で潰されるぅ、きゃぁぁぁ!)



 豪勢なれどそれほど広くない一室の中で、玻璃はますます恐縮で小さくなっていく。衣装の中の全身は冷汗でびっしょりと濡れていた。


 玻璃がこの朱雀宮(すざくきゅう)に入って働き始めたのは、わずか三日前のことだ。




 二級匠官(しょうかん)に任官された紅玻璃が訓薫鳳(くんくんぽう)に連れられて、初めて内廷(ないてい)に入った日。そこには巨大な朱雀宮が待ち構えていた。


 朱雀宮は外朝へと繋がる内廷の最南にある。これより北が後宮と呼ばれる領域であり、玄武宮(げんぶきゅう)青龍宮(せいりゅうきゅう)白虎宮(びゃっこきゅう)などが所在するという。後宮は男子禁制の女の園で、皇帝以外の男性は立ち入ることが許されない。どれだけ位人臣を極めた高貴な重臣でも、皇太子や皇弟などいかに帝に近しい皇族でも、男性ならばこの朱雀宮までしか入れない。特例といえば、男子と認められていない五歳までの赤子や、男性でも女性でもない身体にされた宦官ぐらいである。


 つまりこの朱雀宮は、後宮と外朝を取り次ぐ場のようなものだ。皇太后はどういう経緯なのか一介の調香師だった訓薫鳳を気に入り、特級匠官の職権を与えて朱雀宮の一画に調香室を構えさせた。男性を手元に置くには朱雀宮が最も後宮に近いという単純な理由であろう。


 朱雀宮の内部は広い。(ぜい)を尽くした内装の廊下を抜け、薫鳳は美しい装飾と輝かしい色彩の大きな扉の前に立つと、その取っ手を引いた。少し開いただけで、香水のまろやかな香りが室内から漏れ出てくる。


 薫鳳は扉を開けて、まるで演劇のような言い回しで玻璃に入室を促した。



「さあ玻璃、入るがいい。ここがこれからのおまえの夢の職場、ここが我が国の景気を支えている、大陸最高峰の叡智渦巻く研究の場だ」


「うわぁ……っ、……って、汚なっ!」



 玻璃はつられて心ときめきの演技をしながら部屋に入ったが、その様子を見た瞬間、期待の笑顔は一気に(いぶか)しい表情へと激変した。驚きの落差。


 玻璃は生涯最大の溜め息を吐き、薫鳳は玻璃の予想外の反応に唖然とする。


 そこには玻璃の予想通り、美人と言える女性たちが調香作業に励んでいたが、玻璃の目から見ればそこは華やかな美とは言い難い、道具や資料が乱雑に積まれた光景だった。研究室というよりも作業場と呼ぶほうが近い。



「おい玻璃。汚いって何だよ。十分美しいだろ。いい匂いだし」


「匂いはいいですよ。でも何ですか、この作業場。ごちゃごちゃしてるし、各作業卓の配置も全然機能的じゃない。棚の収納も規則的な整理じゃないから、効率的な仕事は絶対無理でしょう。ここは幼児の待合室ですか? それとも家畜の待機場ですか?」



 玻璃が調香室のあちこちを指差して詰め寄ってくる。天国的な理想の職場を見せようと自信満々で部屋に招いたはずの薫鳳の華やかな表情が、次第に(しお)れていく。




(つづく)





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