第四十四話 翡翠の瞳
薫鳳は皇太后の子ではないのか。
そう訊いておきながら、玻璃は混乱し狼狽している。
膝をついたままの皇太后は、翡翠色の目を細めて優しく微笑む。
「どうして、そう思うの?」
「だ、だって……。皇太后さまの美しいその瞳……、薫鳳先生と同じ翡翠色で……。それに、先ほど皇太后さまは薫鳳先生のこと、『あの子』って……」
玻璃は恐る恐る答える。甄沁泉ら侍女たち、玲花と小雅、紫喬も「それは確かに!」と目を見開いている。
皇太后は玻璃の添えた手でポンと軽く肩を叩くと、玻璃を立ち上がらせ、自らも革張りの椅子に腰を下ろして背筋を正した。
「ふふ……。薫鳳が私の子……。それなら、あの薫鳳は、陛下の弟ということになるわね」
(……確かに!)
その場にいる全員が、驚愕の表情で静まり返る。
だが、皇太后の戯れの表情を見ると、隠し立ての影は見えなかった。皇太后には現皇帝である長男、皇弟公、そして皇女の三子がおり、それ以外の実子の話は特に誰も耳にしたことがない。
皆の胸中を察した皇太后は、笑って告げる。
「あの子……、訓薫鳳は私が産んだ子ではないのは確かよ。あの翡翠色の瞳は私と同じ、西の国の民族に見られるもの。きっと同郷なんだと思うわ」
そう言うと、皇太后は「さて、雑談はこのぐらいで」と話を切り上げ、玻璃に新作の香水瓶の意匠説明を求めた。
本来の献上の段取りへと移ったが、玻璃たちも侍女たちも、薫鳳の素性が気になって仕方がない様子であった。
玻璃たちが青龍宮を辞した後。
皇太后は縁側に腰を下ろし、明るい庭を眺めながら、手元の香水瓶の輝きを静かに見つめる。
「薫鳳……。あれからもう、二十年以上が経つのね」
皇太后は感慨深そうに、そっと目を閉じる。
瞼の裏に、当時の記憶が蘇ってくる。
まだ四十代だった頃。
当時は一帝二后時代と呼ばれ、彼女は第二皇后であった。
公務以外では白虎宮に籠りがちな内向的な第一皇后とは対照的に、第二皇后は外向的で闊達な性格で、自ら市井へと足を運び、国民の様子を伺うことも多かった。
魔術府をはじめとする旧態の者たちは、皇族が安易に平民の前に姿を現すことを快く思わず、苦言を呈していた。遠い西国出身の第二皇后を内心で蔑んでいることは、明らかに分かる。
だが第二皇后は気に留めなかった。国のためになると信じたことは、自分から動く。そういう考えであった。
ある日、第二皇后が牛車に乗って市井を見回っていた時のこと。
突然、随行する侍女たちから悲鳴が上がる。
皇后がふと視線を下ろすと、薄汚れた五歳ほどの白髪の男児が牛車に駆け上ぼり、いきなり抱きついてきた。
「お母さん……! お母さんの匂い!」
西方風の麗服を模した衣の大きく開いた胸元に、男児は飛び込んで顔を埋め、鼻を擦り付けるように嗅ぐ。
「おい、無礼者! すぐに離れろ!」
衛兵の男たちが慌てて集まり、子どもの背に剣や槍を向ける。任務に忠実なのはもちろんだが、国家随一と噂の皇后の豊満な美乳、その谷間に顔を当てるなどけしからん、という嫉妬の怒気でもある。
侍女たちも美しい皇后が汚されないようにと、子どもの服に手をかけ引き剥がそうとする。
だが皇后は首を横に振って従者たちを制すると、汚れも厭わずそっと小さな背中に手を添えて声をかけた。
「そう……。お母さまは、薔薇の香りがお好きだったのかしら」
若き日より香水を愛する皇后は、体温で香りが立ち上るよう、胸元に香水をつけている。この日は月季花という、薔薇に類する花を主成分とする香水であった。
「違う! 薔薇じゃない。お母さんの匂いは、向日葵。向日葵の種みたいな匂い!」
子どもはそう言って、何度も皇后の胸の谷間に鼻を寄せる。
皇后は息を呑んだ。
この香水には、遠い故郷に咲いていた向日葵に想いを馳せて、その香りをわずかに混ぜてもらっていた。
だが、そもそも向日葵は他の花に比べて微香であり、月季花に混じれば常人の鼻では嗅ぎ分けられないはずだ。
皇后は優しく男児の両肩を持って引き離し、土と泥に汚れた顔を覗き込む。その目には、自分に似た翡翠色の瞳が潤んでいた。
「あなた、お名前は?」
「クンポウ」
「どんな字を書くの?」
「字は分かんない」
「素敵な白い髪ね」
「でも、前までは黒かった」
「お母さまはどこにいるの? ご家族は?」
「みんな家で死んだ。お父さんは剣で何回も斬られて、妹は槍で何度も突かれて、お母さんは大人の男の人たちに囲まれて死んでた」
クンポウと名乗った孤児の翡翠色の瞳が、次第に涙に濡れていく。
ぼそぼそと語られる記憶。皇后はその事情を悟った。
家族は戦乱に巻き込まれ、押し入った兵士たちの刃に父親は斬られ、赤ん坊だった妹は槍の的とされ、母親は輪姦されたのであろう。息を潜めて物陰に隠れていた、この子の目の前で……。その衝撃で、彼の黒い髪は一瞬で白髪に変わったようだ。
行き場を失った孤児は、行商の荷車に潜り込み、やがて帝都に流れ着いた。しかし行くあてもなく浮浪している。
五歳の少年には過酷な運命であった。
その戦乱は、皇后の祖国で起きたことであった。
「私たちが不甲斐ないばかりに……」
皇后は静かにその孤児を抱きしめた。胸元に残る母の向日葵の匂いを、少しでも覚えてもらえるように。
そして第二皇后は、侍女の一人に命じる。
「誰か。紙と筆を用意して。蕭孔来に手紙を届けてちょうだい」
(つづく)




