第四十話 墓前
雛菊の香りに包まれながら、玻丈がそっと目を開ける。
そこは夢というよりも、かつての記憶の映像の中であった。
忘れもしない、十年前のあの風景。
六十の齢を迎えた当時の玻丈は、この国では珍しい西洋硝子の技術を持つ職人でありながら、富も名誉も望まず、帝都を遠く望む郊外に、小さな工房を併設した粗末な住まいで暮らしていた。
技術を継いだ長男の玻充と、十歳の孫が一人。三人が生きていけるだけの金さえあれば充分だと、硝子や陶磁器の食器や壺などを細々と作って過ごしていた。
引退を考え始めた玻丈は、仕事の多くは息子の玻充に任せ、孫の面倒を見ながら、ほとんど需要もなく金にもならない硝子細工の創作に取り組んでいた。
その日は澄み渡る青空だった。玻丈は孫を自由に裏庭で遊ばせている間に、少し歩いた先にある墓に向かった。
墓と呼ぶにはあまりに簡素な、盛土の上に粗末な石を置いただけ。玻丈はその前で膝を折る。
雛菊の束を花瓶に差し、月餅を二つばかり載せた白い皿を墓前に備え、手を合わせて目を閉じた。
祈り終えて目を開けた時。皿の上の月餅が二つとも消えていた。代わりにハグハグという不気味な咀嚼音。
ふと横を見ると、長身の男が月餅を両手で掴み、夢中で頬張っている。埃と土に塗れたボロボロの衣服。潤いを失った乱れた白髪を見て、老人かと思ったが、顔立ちを見るととても若かった。
「なんじゃ。腹が減っておるのか」
玻丈が声をかけると、汚れた若者は翡翠色の瞳を向け、申し訳なさそうに頭を下げた。食うに困った難民のようだが、理性は見受けられる。
「家はすぐそこじゃ。一食くらい食べていけ。井戸もあるから、身体もさっぱり洗っていくといい」
若者は訓薫鳳と名乗った。まだ十八歳だという。
家に着くと出された包子と汁物を腹一杯平らげ、井戸水で頭も全身も洗い流した。玻充の古着を借り、銀髪を結った姿は、先ほどの浮浪者と同一人物とは思えぬほどの美丈夫であった。
玻丈はなぜか若者を気に入って、作業場に迎え入れた。
「へえ、爺さん。顔に似合わず、随分と繊細な硝子細工を作ってんだな。硝子で瓶も作れるのか。ジジイのくせにすげえな」
美丈夫の口は案外悪かった。だが、硝子瓶や陶器瓶など液体の入る器に只ならぬ興味を持って観察している。聞くと、香水を生み出す調香師だという。自分の作品を理解しようとする若者の出現に、玻丈は久しく忘れていた幸福を覚えた。
一食のつもりが、青空の下で茶や菓子を振る舞い、話は尽きない。
薫鳳が庭の端を見ると、せっせと壁に色を塗っている子どもの姿が目に入った。
「爺さんの孫かい」
「そうじゃ。ああして、いつも絵や図形ばかり描いておる。変な子でな」
「玻充さんの子ってことか」
「いや。わしの娘の子じゃ。玻充の甥っ子じゃな。あの子の両親は三年前に死んで眠っておる。おぬしが供物を食ったあの雛菊の墓の下にな」
「……そうか。病気か何かかい」
「いや。住まいに入った強盗に、夫婦そろって殺された」
「……」
薫鳳は言葉を失う。玻丈は無念そうな目で続けた。
「あの子だけは物陰に隠れていたらしく無事で、わしらが引き取った。両親の殺害を間近で見たようでな。かつては明るい子じゃったが、それ以来一度も笑わん。そして、ああしてあちこち無心に描きまくるようになった。勉学はかなり聡いのじゃが、心のどこかが壊れてしまったようでな……」
(親を目の前で、か……)
普段は他人に興味がない薫鳳だが、その子の境遇を聞くと自分の過去が頭をよぎり、どこか他人事に思えなかった。
自分も感傷的になることがあるのだと自虐的に笑い、湯呑みに手を伸ばした。
その時、人の気配を感じて薫鳳はとっさに左を向いた。鼻先に冷たく濡れた感触が走る。
その子が筆の先で墨を塗りたくっていた。
薫鳳が硬直している間に鼻を真っ黒に塗ったその子は、キャハハハハハッ!と甲高い声で大笑いした。
「この子が……、笑ってる……」
玻丈は呆然とする。両親の死から一切笑い顔を見せなかった孫が、いきなり見せる屈託のない笑顔。
薫鳳は黒くなった鼻を拭うこともなく、にこりと微笑んでみせた。
「どうして面白い?」
「だって、クンクンみたい!」
「……クンクンとは?」
「その髪みたいな白い毛の、その辺の野良犬。偉そうに人をバカにして、メッて怒るとクンクン鳴くの。だからクンクン!」
その短髪で墨まみれの子は、薫鳳の顔を指さして、クンクン、クンクン!と涙を浮かべるほど笑って悶絶している。
「こ、これ。客人に失礼だぞ。あっちに行ってなさい!」
玻丈が慌てて叱ると、存分に笑った子は庭の端に戻り、今度はいろいろな石を積んで遊び始めた。
薫鳳は黒い鼻のまま、その子の様子をじっと見つめる。
「爺さん。あのお孫さん、これからどうしたい?」
「絵画の感性は独特だし勉学もできる、利発な子なんじゃ。できるなら、皇太后さまがお作りになった帝国美術学院にでも入れてあげられたらいいんじゃがな……」
「皇太后さま?」
その名を耳にした瞬間、薫鳳の表情がはっきりと変わった。
(つづく)




