第三十八話 遺言
「玻璃さん、おじいちゃんが大変だって!」
調香助手の小雅が、息を切らして調香室に飛び込んできた。次の薫鳳との同行の準備を進めていた玻璃は、目を丸くしながら書状を受け取る。叔父の玻充が皇宮口まで知らせに来たらしい。書状に書かれていた慌てた字は、確かに叔父の字であった。
「おじいちゃんが、重篤……!」
連絡を目にした玻璃は、全身から血の気が引く。
確かに祖父の玻丈はここのところ体調を崩しがちで、寝込む日も増えていた。叔父の連絡によれば、医師の見立てでは心臓の衰えが著しく、今日明日が峠かもしれないという。
玻璃はふと視線をあげ、外出の支度を整えた薫鳳を見る。
その瞳を見ながら、薫鳳はうなずく。
「すぐに行ってやれ。こっちは気にするな」
「でも、次の打ち合わせの議事録の速記……」
「いや、いい。書記係なんて正直どうでもいい」
「……は? どうでもいいこと、ずっとやらされてたんですか」
「いいから早く行け。身内だろ。今しかできないことを選べ」
薫鳳の声は有無を言わせぬ力強さがあった。玻璃は痛む胸を押さえながら調香室を飛び出し、城下の実家へと急ぎ駆けた。
自室の寝台に横たわっていた祖父・玻丈は、ひと目でわかるほどに衰弱していた。痛みや苦しさが少なそうなのがせめてもの救いだが、呼吸は浅く弱々しい。玻璃は駆け寄って祖父の手を包み込むように取った。
「おじいちゃん、玻璃だよ」
「おお……玻璃か。どうだ……、仕事は楽しいか」
「え……、う、うん。楽しいよ」
玻璃は予想外の質問に、脳裏にむかつく上司の毒々しい笑みがちらつきながらも、祖父を安心させる答えをつい口にした。
玻丈は孫の顔を見て、穏やかに微笑む。
齢七十を超えた玻丈は、つい最近まで硝子職人として力仕事をこなし、その身体は年齢を感じさせぬほど屈強だった。わずか数週間でここまで衰弱しているとは、幼い頃から祖父の強さを知る玻璃には信じがたかった。
「そうか、楽しいか……。仕事は楽しいのが一番じゃ。薫鳳どのから、手は出されておらんか」
「あ……、うん。私に手を出してきたら、仕事を全部引き上げて、ついでに殺すっていう約定だから」
「そうか……。付かず離れずの良い関係のようじゃな」
「やめてよ。あんな非常識な奴、こんな時に思い出したくもない」
玻璃は膨れっ面を見せた。玻丈はそんな玻璃を見て、なぜか優しく笑顔で小さく頷いている。
「薫鳳どのは、玻璃には受け入れ難い性格じゃろう。嫌っても構わん。信用せずともよい。だが、あの方を見捨てず支えてやってはくれんか」
「……どうして」
「あの方はな……、ああいう振る舞いではあるが、本当は悲しく寂しいお人なんじゃ」
「……」
玻璃は言葉を失う。
「玻璃も、両親を失って辛かったじゃろう。だからわしも玻充らも、玻璃が寂しくならないようにと、できる限りの愛を注いできたつもりじゃ。だがな、薫鳳どのは違う。あの方は、本当に独りぼっちでの。両親だけでなく、身内と呼べる者も誰一人おらんと聞く。自分の力だけで生き抜いてきたお人なんじゃ」
「……」
「だからきっと、薫鳳どのは誰も信じてはおらんじゃろう。だが、この世の未来だけは信じておる。その根の優しさに、わしは晩年の夢を賭けたのじゃ。いまや工房も大きくなり、国は薫鳳どのの力を必要としている。わしの夢は叶った。だから次は、薫鳳どのの夢が叶うことを願っておる」
「おじいちゃん……」
「そこに玻璃の夢も含まれるなら、これほど嬉しいことはないよ」
玻丈は静かに語る。気づかぬうち、玻璃の頬には涙が流れていた。
人生の終わりに立つ祖父。遺言とも取れるその言葉に、あの薫鳳のことが占められている。玻璃の心は複雑な感情に揺れた。
寝台の傍で椅子に腰掛け、しんみりとしていると突然、部屋の扉がバーンと大きな音を立てて開いた。
驚いて振り返った玻璃の視界に飛び込んできたのは、大量の白い花束を抱えて満面の笑顔を浮かべた薫鳳の姿であった。その後ろには玲花が続き、同じく腕いっぱいの花束を抱えている。
「よぉ、爺さん。死にかけてんだってな!」
あまりに不謹慎な言葉を投げかけながら、薫鳳は横たわる玻丈の横に立って顔を見下ろした。だが玻丈は、楽しげに笑っている。
「ふふ……。薫鳳どのは元気だのう。それに、いい香りじゃ」
「だろ。助手の玲花の実家は花屋なんだ。死ぬんだったらいい香りの中で死ぬほうがいいんじゃないかと思ってよ。持って来れるだけ持ってきたぜ」
薫鳳は無邪気に語り、玻丈と笑い合っている。
玻璃の中に殺意が燃え上がった。どこが「本当は悲しく寂しいお人」なのか。どこに「根の優しさ」があるのか。
勢いよく立ち上がった玻璃は、怒号を放った。
「なんてこと言うのよ! それにこの大量の白い菊っ! 弔問用の花じゃない!!」
(つづく)




