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第三十七話 記憶


 朝萌山(ちょうほうざん)の短剣騒動以来、訓薫鳳(くんくんぽう)は魔術府の曹牙陵(そうがりょう)禁衛府(きんえいふ)馬丁峡(ばていきょう)らと打ち合わせをする機会を明らかに増やしていた。


 以前は何かと後宮から遣わされる女官や市井の取引先の女性店員と話し込んだり、あるいは玲花(れいか)小雅(しょうが)など女性助手たちに楽しく調香を教えたりしている時間が多かったが、そのした異性との交歓時間を新たな計画のために()てているようでもあった。


 いつも暇そうな玲花や小雅らを使えば済むのに、記録魔体質の玻璃(はり)を使うのが便利なのか、玻璃は何度も議事録係として薫鳳に同行を命じられる。本業の製瓶設計の時間が削られるので、苛立ちが(おり)のように溜まっていく。


 さらには、薫鳳との触れ合う時間が減った後宮女官出身の助手・思妍(しけん)蛍舞(けいぶ)の不満は日増しに募り、嫌味の態度が玻璃に向く。こんな馬鹿げたことに気を削がれることに、玻璃は辟易としていた。


 それでも、女と香水のこと以外であれほどの執念を注ぐ薫鳳の姿を見て、玻璃にはどこか、薫鳳の胸中の理想への一歩が近いことが感じられた。



 ただ一つ、玻璃の心に引っかかることがある。


 姚桜果(ようおうか)の証言である。


 あの閉ざされた調香室の寝台の上で、わずか半刻の間に桜果(おうか)は意識を取り戻しただけではない。その直前まで刃を突き下ろすほど薫鳳に殺意を向けていたにもかかわらず、それ以降は薫鳳に魅入られ身を預けていた。そして、桜果は心を許した薫鳳に重大な証言を打ち明けたのだという。


 その話の内容は、捜査機密として玻璃に伝えられることはなかった。



「でも、薫鳳先生がどうやって聞き出したのかぐらいは、同じ調香室の者として教えてもらってもいいんじゃないですか?」



 玻璃はどちらかというとそちらが気になっていた。薫鳳なら外套に催淫剤でも忍ばせかねない。


 薫鳳はすんなり教える。



「オレは天才調香師なんだから、香りを使ったんだよ」


「どういう成分の催淫剤ですか」


「何だよ催淫剤って。官能小説の読みすぎじゃないのか」


「読んでないです」


「玻璃。じゃあ聞くが、人の五感の中で、産まれて最初に身に付くものはどれだと思う」


「さあ。薫鳳先生に限っては、食欲や睡眠欲より先に、性欲が身に付いたのかなと思いますけど」


「いきなり高評価だな」


「高評価じゃないです。まあ、生まれたての赤ちゃんは目も見えてないだろうから、味覚じゃないですか。赤ちゃんはお母さんのおっぱいを飲まないといけないから。あ、私におっぱいと言わせようとしてこの話をしてます?」


「鋭い考察だが惜しいな。人が最初に発揮するのは、嗅覚だ。赤ん坊は視界が利かない分、匂いを頼りに母乳の位置を探すのさ」


「へえ。でもそれが何ですか。まさか女性の胸の谷間の匂いの魅力とか、そういう性癖披露の時間じゃないでしょうね」


「語ってほしいなら夜明けまで熱弁してやるが、そうじゃない。いいか、嗅覚というのはそれほど人の原初的な感覚なんだ。そして、その嗅覚で捉えた香りが、そのまま脳に記憶として刻まれる」


「どういうことですか」


「つまり、特定の香りを嗅いだ時に、その香りに紐付いた場面の記憶が呼び起こされる時もあるってことさ。嗅覚にはそれだけの力がある」



 薫鳳はあの時、一つ思い当たった香りを即座に調合したという。気付け薬で意識を呼び戻し、その芳香を嗅がせたところ、桜果は以前の記憶を取り戻してきた。


 聞くと、彼女は魔術府の人間として薫鳳への嫌悪感はあったが、殺意など持っていなかった。恐らく <改憶(かいおく)> の魔術で「薫鳳を見れば殺す」という記憶が植え付けられていたのだろう。



「そんなことができるんですね……。でもあの時、桜果さんは顔く染めて薫鳳先生にうっとりとしてたじゃないですか。何でそんなことに」


「それはオレの魅力の賜物(たまもの)だろうな。頬に触れ、見つめて微笑み、髪を優しく撫でる。それで十分だ」


「ベタベタ触ってんじゃねーか!」



 反射的に玻璃の手が薫鳳の頭をはたいた。指一本触れないと豪語していたくせにこの有様。悪びれもしない態度がなおさら腹立たしい。


 しかし、この桜果からの証言を引き出したことで、魔道師の曹牙陵は薫鳳に敬服する。魔術の力では辿り着けなかった真実を香水の力で暴き出す。その力は認めざるを得なかった、牙陵は薫鳳への全面的な協力を約束した。


 薫鳳にはすでに、一連の事件の全貌が見えているようだった。


 来たるべき決着の時を見据え、静かに備えている。玻璃にはそのように見えた。


 だがそんな時、玻璃のもとへ思わぬ急報が届く。




(つづく)







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