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第三十一話 玻璃の涙


「この朝萌山(ちょうほうざん)の畑を、よく見てくれ」



 色とりどりの草花の区画に分けられた朝萌山の広大な畑地。その美しい光景を眼下に立ち尽くしている曹牙陵(そうがりょう)に、薫鳳(くんぽう)は告げた。



「オレが生きている間は、香水は全て栽培可能な植物で生み出すことを、調香室の信条とする。動物や魔物の乱獲はしなくていい。海外からよく分からない香木をよく分からない高額で輸入する必要もない。オレはこの国の香水を、そういう持続可能性のある産業にしたいんだ。香水を原料の希少性ではなく、処方(せん)の芸術性によって高め、正しい国益を生む。それが、オレの考える国家の大計さ」



 薫鳳は考えを吐露する。


 曹牙陵だけでなく、(かたわ)らで聞いている玻璃(はり)も息を呑む。入浴前に「入浴は国家の大計」などと聞かされて、薫鳳の吐く胡散臭い言葉に愛想を尽かしていた。しかし、薫鳳の一貫した信念の深さに、玻璃の心は動いていく。


 馬丁峡(ばていきょう)たち禁衛府(きんえいふ)衛士(えいし)たちも、衣裳師の紫喬(しきょう)も、国を想う気持ちは大きい。皆、薫鳳の言葉を噛み締めている。薫鳳は全員に語りかけるように、自分の思いを口にした。



「目先の小利のために殺戮し、滅し合う。そういうことがない世界ができたらいいなと思うんだ。オレは香りの技術で、できることをする。できないことは、みんなから力を借りていく。そうやって心と力を合わせれば、この時代に叶うことはなくても、いつの日かきっとそんな世の中が実現すると、オレは信じている」



 周囲で聞いている一同は、あまりに壮大な話に理解がなかなか追いついていない。それは当時の常識からはとてつもなくかけ離れた構想と言えた。だが、薫鳳の口調からはなぜか、その理想への一筋の光明が見える気もする。



「旧弊の魔術府(まじゅつふ)を変えるとしたら、それは牙陵どの、あんただろう。今日はこの朝萌山の中をどれだけ視察していっても、香水に関してどんな質問をしてもらってもいい。きっと、魔術府の香水事業への関与の在り方も本質的に分かってもらえるんじゃないかと思う」



 薫鳳は牙陵の肩を軽く叩くと、次は玻璃に向いた。そして、戸惑う。



「おい、どうした玻璃……」



 いつものように呆れ顔を向けているか、うんざりして他所を向いているだろうと思っていた玻璃が、目に涙を浮かべて薫鳳を見ていた。



「泣いているのか」


「泣いてないです」



 玻璃は我に返ると、手の甲で涙を拭って風のせいだと誤魔化し、すぐにいつもの気丈の表情に戻す。


 玻璃の複雑な感情には、理由があった。先ほどの入浴時間のこと。


 男湯が騒がしく盛り上がっている隣り、女湯で入浴をしていたのは玻璃と衣裳師の紫喬であった。


 妖艶な体型の持ち主で、すぐに豊満な胸を自慢してくる紫喬。いつもやたらに、有料の「薫鳳先生情報」を勧めてくる。以前には銅銭四枚を払うと「薫鳳先生が好きな香りは、女性の胸の谷間の匂い」という鳥肌必須の情報をつかまされて、玻璃は懲りていた。だが、貴重な勤務時間に温泉に同行させられている苛立ちで、つい玻璃から聞く。



「紫喬さん。今日は薫鳳先生情報はないんですか」


「お、薫鳳先生の弱みでも握りたい?」


「まあ、はい」


「今日は銅銭十六枚版と、銅銭四十枚版があるわよ」


「高い……」



 玻璃は呟くが、銅銭四枚版に手を出してあの「胸の谷間の匂い好き」を獲得した悪夢を思い出し、玻璃は思い切って銅銭四十枚版を選んだ。


 そこで聞かされた薫鳳先生情報は、短かった。



「薫鳳先生は幼い頃、目の前で親を惨殺されたらしい」



 それ以上はちょっと、この情報だけでもけっこう命を張ったのよ、などと紫喬は色気の動きをしながら誤魔化す。


 その真偽は分からないが、「胸の谷間の匂い好き」の十倍の情報料となると、本当のことかもしれない。


 その情報を先に得ていたから、薫鳳の「無益な殺生や殺戮のない世界」の話は、いつものように眉唾の出まかせとも思えなかった。薫鳳には暗い過去があり、心に深い傷があるのではないか。そんなことを考えてしまう。


 当の本人はぐいぐい近寄って、玻璃の顔を覗き込んでいる。



「いや、泣いてただろ今。ほら、泣いてるじゃないか。そうか、おまえもオレの考えにそんなに感銘を受けてくれるか。心ゆくまで感動の涙を流せ。涙は香水に優るものだ」



 相変わらずの繊細さ皆無の薫鳳が、玻璃の肩を気安くポンポンと叩き、もう一方の手の指で玻璃の頬に濡れる涙を拭おうとする。玻璃はその手を強く打ち払って、薫鳳から一歩離れて背を向けた。



「おい、どうした」


「人の涙を笑うなんて、相変わらず最低な人」


「なんだよ」


「目の前で大事な人を殺されたのは、薫鳳先生だけじゃないってことです」



 玻璃は振り返ることなく、とぼとぼと高台の階段を降りて行った。




(つづく)



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