第三十話 曹牙陵
曹牙陵は朝萌山の高台から広大な香料植物栽培の畑を眺めながら、複雑な気持ちが渦巻いていた。湯上がりの火照った身体を、爽やかな風と芳しい草花の香りが優しく撫でていく。
「どうだい牙陵どの。魔術府の人間には信じられない光景かい」
「あ、ああ……」
共に立つ訓薫鳳の問いかけに、牙陵は頷かざるを得なかった。
曹牙陵は帝国魔術学院を首席で卒業し、魔術府に入府してその実力で最速で二級魔術師から一級魔道師へ昇格した傑物である。魔術府が古来より推奨する禁欲の習慣を徹底して守る生真面目さで、上司の特級魔道師・燕該曜からの信頼も厚い。
魔術府は感染症予防を理由に入浴を禁じており、先帝の治世まではそれが皇宮の常識でもあった。風呂好きの現皇帝が入浴を推奨するようになってからも魔術府所属の魔術師は旧来の習慣を守り、曹牙陵も幼き日に魔術師を志してからというもの入浴は自制してきた。それが当たり前の人生だった。
ところが薫鳳たちと共に、調香室が研究する芳しい香料に包まれながら温泉の湯に浸かると、まるで鉄の鱗が剥がれ落ちていくかのように身体と心が軽くなっていく気がした。自分の部下たちが、魔術府と反目し合っていた禁衛府の連中とも裸同士で楽しく会話をしている様子を見て、厳しい戒律の世界に生きた曹牙陵にはまるで新しい世界を見ているようだった。
風呂から上がり、これまで来ていた重い灰色の長外套ではなく、衣裳師の紫喬が用意した風通しの良い洒落た官服に身を包む。魔水晶の首飾りと杖だけは業務上手放せないが、それ以外を着替えただけで驚くほどの快適な心地が身体の中を駆け抜ける。
訓薫鳳の案内で朝萌山の敷地が一望できる高台へ登った。そこからは様々な香料植物を栽培する畑が見えたが、魔術府の曹牙陵にとっては信じられない光景があった。
植物を手入れしている作業員たち。ほとんどが女性だが、その中には人間ではない者が多く混じっているのである。
人型ではあるが尖った耳を持ち長年生きられるという小妖精と呼ばれる白面の魔物、背が低く身幅の広い侏儒と呼ばれる頑丈の魔物。さらには魔翼獣と呼ばれる有翼の魔物が畑の上を旋回して飛び、水や肥料を撒いている。魔術府の魔術師たちが魔力を手に入れるために「誅殺」を繰り返してきた魔物が、笑顔の人間とともに楽しく働いているのである。
唖然としている牙陵に、薫鳳は述べる。
「この朝萌山にいる間は、ここで働いている魔物たちに対して敵意は厳禁だぜ。彼女たちもまた、国益を支えている仲間なんだ」
「……」
「オレは思うんだよ、牙陵どの。人だって魔物だって、同じ生き物じゃないかってね。確かに魔物は人を襲う。だが人が魔物を駆逐するのも、結局は同じことだ。しかし魔物だって、こうやって良い香りの前には心地良くて穏やかになる。温泉にだって一緒に入って、一緒に極楽気分になる。良い香りの前には敵意も殺意もないんだ。みんなが笑って手を取り合いながら生きていく世界。それができるんじゃないかってのが、オレのささやかな夢さ。この朝萌山はその実験施設のようなものでね」
「みんなが笑って、手を取り合う……」
「そのみんなの中には、牙陵どの、魔術師連中だって入ってるぜ。オレは魔術が悪いと言っているわけじゃない。魔術は大いに人の役に立つ。だがそれを魔術府連中の権勢のために使うってのが腑に落ちないだけだ。オレは魔物だろうが動物だろうが、無駄な殺生はイヤなんだ」
「し、しかし、魔物は人を襲う危険性が高い。人は豚や牛を屠殺しなければ肉を食すことはできない。殺生を無くすことなど……」
「魔術府が手を組む巷の香料業者たちが扱っている、高級な香水商品の原料を知っているか」
薫鳳は牙陵の反論を遮り、新たな問いを投げる。
市井の香料問屋は魔術府の技術提供で低級な香水商品を量産できていることを、牙陵は以前に薫鳳に指摘された。だが香料問屋が扱う中には、希少価値の高い香水もある。牙陵はその内容物までは知らなかった。
「い、いや、分からない」
「動物さ。動物性香料ってやつだ」
「動物の、香水……」
「そう。海の抹香鯨という動物からは龍涎香という香り豊かな結石が採れる。山の麝香鹿という動物からは香嚢という芳しい器官が得られる。川の河狸という動物の香嚢も格別だ」
「……」
「香水業者はその希少な原料を得るために、魔術府の魔術を借りて乱獲してるのさ。そして次は魔物にも香料原料となる奴がいないかと、新たな獲物を魔物の類に求めている。自分たちの利益のためにな。これが魔物から人を守るため、家畜から食を得るための殺生と同じと言えるとは、オレは思わない」
「うむ……」
薫鳳の想いを聞き、曹牙陵は唸る。あまりに自分の歩んできた通念と外れた話で、混乱している。
薫鳳は牙陵の背中をポンと軽く叩いた。いつもの重く厚い外套と違い、薄手の官服では薫鳳の手の熱が背中に伝わる。
「いいかい、牙陵どの」
眼下の畑をもう一方の手で示しながら、薫鳳はさらに語る。
(つづく)




