第二十六話 芳香に包まれて
「玻璃。調香室に戻ったら、オレの部屋に来ないか」
陸弦翔の邸宅から戻る道中、ふと薫鳳から掛けられた声。
普段の玻璃であれば気味悪がって二秒で拒否するところだが、この時はそれ以上に気味の悪い事件を目の当たりにした直後とあって、心が平穏でなく、なぜか「そこまで言うなら行ってやろうじゃないの」という気持ちが生じていた。
調香室は製瓶設計師の玻璃や調香助手たちが働く広い作業部屋があり、奥に薫鳳専用の作業空間がある。薫鳳が言う「オレの部屋」への扉の先に、玻璃は今日初めて足を踏み入れた。
思っていた以上に広々としたその空間は、上流階級の邸宅の応接室のようだった。やや薄暗い中に雰囲気の良い間接照明。調香師の部屋らしく芳しい香りが漂っている。ただ気になるのは、ふかふかの敷布に覆われた広めの寝台が堂々と置かれてあることだった。
「玻璃。そこの寝台で横になれ」
「イヤですよ。いかがわしい。何人の女を抱いたかも分からないこんな寝台の上になんか」
「アホだなおまえは。女を抱くなら皇宮なんかより城下の自邸のほうがいいに決まってんだろ」
「はぁ?」
「精油の香りを用いて気を落ち着かせ思考を整える、芳香療法を行なう寝台なんだ。女だけじゃない。馬丁峡どのも捜査に行き詰まった時なんかはたまにやって来る」
「へえ、芳香療法。気持ち良さそうですね」
「だろ。玻璃、今のおまえは怒りと辟易で頭が重そうだと思ってな。少しの間、オレに付き合え。その頭、軽くしてやるよ」
薫鳳はカチャカチャと何かを用意し始めた。玻璃は訝しがったが、雑念で頭が重いのは確かである。溜め息をついて、寝台の上に横たわる。
すると敷布からも良い匂いが鼻をくすぐって、玻璃は次第に気が楽になってきた。
「横になった時に緊張を和らげるための、抱き枕というものもある。小さな抱き枕と、訓薫鳳様等身大抱き枕とがあるが」
二つ渡された枕のうち、玻璃は本能的に大きな抱き枕を払いのけ、小さいほうのふわふわの抱き枕を両手に包み込んだ。
その抱き枕からも柑橘系の良い匂いが感じられ、心が落ち着いてくる。
「今のおまえに合った配合をしてみた。精油の香りを感じてみてくれ」
薫鳳は寝台の頭側の台の上に、小さな白い燭台をコトりと置いた。
中には小型の蝋燭が灯り、その上に載る皿に注がれた精油が、熱で揮発し香りを拡散させる。寝台に横たわる玻璃には一瞬でその香りに包まれた気がした。
優しい花弁の香り。あまりの芳しさに、玻璃の両目はトロンと蕩けてくる。全身の筋肉も弛緩してきて、寝台に溶け込んでいくような感覚になる。頭の中に詰まっていた雑念の欠片が一つ一つ外されて、脳内に雑然と積まれていた小箱が整理されていくようだ。
「どうだ。良い香りだろ。これは南国の熱帯原産の樹木で夷蘭木と呼ばれているものだ。水蒸気蒸留法で抽出する精油で……」
蕩けて半開きの玻璃の目に、覗き込んでいる薫鳳の顔がぼんやりと映る。悔しいが、想像以上の嗅覚の快楽が体を伝う。緊張が肩甲骨からほどけて腕は緩み、足の力も抜けて、膝の裏が寝台にだらりと預けられる。体の境界が曖昧になり、横たわっているのか香りの中に漂い浮かんでいるのか、分からなくなる。トクン、トクンと自分の心臓の鼓動を感じる。
「この精油をぬるま湯に垂らし、両足をつけ込む部分浴での吸入の方法もある。だが、今日はこの香りだけでも効果的だろ……」
薫鳳の声が玻璃の耳に入ってくる。まぶたの向こうに薫鳳の顔の輪郭がゆらりと滲んで見える。いつもなら張り倒したい衝動に駆られるが、今は指先の力が抜け、腕は敷布に沈み動かしたくもない。甘さを主張しない華やかで神秘的な香りが、体内に深く静かに広がっていく気がする。いつも考えすぎて起こる偏頭痛の根源のようなものが、いつしか頭の奥から消えている。
「この香りは気分の落ち込みや不安を取り除き、筋肉痛や月経痛などの痛みも和らげる効果がある。不眠の時にもお勧めだ……」
薫鳳の説明が鼓膜を甘く刺激する。身体は香りに溶けていくが、不思議と頭は冴えていた。あらゆる感情が脳内から取り出され、思考の空間がぽっかりと空くような感覚。全てを忘れてこのまま眠りについてしまいたい。こうやって、どんな女性もこの美しい香りの前ではその虜になって彼に抱かれていくのだろうか……。でも、そんな疑惑すら全て忘れて、この芳香の中に沈んでいってしまいたい……。
「どうだ……。芳醇な香りの中で、憤りや怒りは取り払われて、身体中の筋肉が緩んでくるだろ。芳香療法はこうやって……」
「ごちゃごちゃうるせーな、おい!」
玻璃は思わず上半身を起こして、顔を優しく近づけていた薫鳳に頭突きを見舞うと、抱えていた抱き枕を薫鳳の頭を叩きつけて床に放った。
薫鳳は頭の痛みを手で押さえながら、目を丸くしている。
「……ど、どうした」
「こっちは良い香りに包まれてめっちゃトロンと気持ち良くなってんのに、やんやと耳にうるさいんですよ。黙っといてもらえますか」
玻璃は再び寝台に横たわると、先ほど横に押しやった訓薫鳳等身大抱き枕を奪うように抱きかかえて、薫鳳に背を向けて目を閉じた。
「嘘だろ……。オレの声はイケてる声、『イケ声』と呼ばれて、淑女たちには芳香とひと組で心から喜ばれるものなんだぞ……」
「そんな『逝け声』要らない。必要なことなら、あとで読んどくから紙に書いてそこに置いといてよ。ほんと死ね」
「おい、敬語」
「必要な説明は丁寧な字で紙にしたためといてください。ほんと亡くなれ」
玻璃は怒りを吐き捨てると、再び良い香りに包まれて、あっという間にスゥスゥと寝息を立て始めた。よほど頭が疲れきっていたらしい。
薫鳳は頭を掻きながら、部屋を出た。しばらく自分の作業や読書をしていたが、いつまでも玻璃は起きない。夜が更けたのに帰宅しないと、祖父の玻丈もあらぬ誤解をしてうるさそうだ。
仕方なく薫鳳は、気持ち良く寝ている玻璃をそのままに、城下の玻璃の実家の硝子工房へ顔を出す。
「おお、薫鳳どの。なに、玻璃が宮中で就寝中じゃと。すまんのう」
「薫鳳先生じゃないですかい。久しぶりに飲みましょうや」
硝子工房では玻璃の祖父の玻丈や叔父の玻充、職人たちが仕事を終わりの酒盛りの真っ最中だった。薫鳳は職人の男どもの酒の席に巻き込まれて、朝まで続くどんちゃん騒ぎに捕まり続けた。
「……こ、この薫鳳ともあろう美丈夫が、女一人いない場でこんなむさ苦しい男どもに囲まれて朝を迎えることになろうとは……」
久々に会って喜ぶ硝子職人たちに酒を勧められ続ける薫鳳は、情けない表情で朝焼けを見る。昼には馬丁峡に呼ばれているし、眠る時間がない。
対して十分に深い眠りにつけて人生最高の爽快さで起きた玻璃は、たまたま朝早くに調香室にやってきた衣装師の紫喬に誘われて、調香室が保有する東の山の温泉に出かけ、二人で良い湯加減の入浴を心ゆくまで楽しんだ。
昼に再び宮廷護衛署に馬丁峡から招集された時には、全く睡眠が取れずに死にかけている薫鳳に比べて、玻璃は肌もツヤツヤで頭もスッキリし、笑顔があふれ出す。
女気皆無の朝をまだ嘆いている薫鳳の横で、いかに芳香療法が奥深いか、いかに温泉の朝風呂が気持ちいいかを、玻璃は生き生きと丁峡と牙陵に説明するのであった。
(第四章へつづく)




