第十五話 嗅覚
玻璃には香水の知識はない。捜査現場で香水瓶を前に焦燥する。
だが芳香の言語化を必死に試みるうち、香水には最初に鼻に感じ始める香り、それからしばらく続く感じる香り、そして鼻から離した後の残り香、それぞれに印象が違うと感じてきた。だから、香りを一つで言い表すのではなく、三つの段階に分けて感じ方を説明すれば、調香室に待つ薫鳳にはそれだけ多く情報が伝わるのではないかと思えてきた。
何とか薫鳳へ渡せる情報はないかと、玻璃は残された三本の香水瓶の中身を、何度も鼻に近づけたり遠ざけたりして吟味する。
調香助手なのに香りの診断に露ほどの役にも立たない玲花と小雅は、玻璃の指示で部屋の外の野次馬の下女たちに聞き込みを試みる。この部屋から無くなっている他の香水瓶や資料などはないか。しかし、下女たちにとっては行方不明の梨南と京英は上官にあたり、部屋の立ち入りが許されておらず、分かる者はなく特に成果はなかった。
「もうそれぐらいでいいじゃろ。そろそろ退散してもらおうか」
苛立っていた小太りの宦官の莫卓岩は、捜査の打ち切りを言い渡す。必死に時間を引き延ばしてくれていた痩身の宦官甘可紡の奮闘も限界のようだ。玻璃は仕方なく、従うことにした。
寮を出た時に、周囲で様子を見ていた大勢の下女たちが「玻璃さまぁー!」「きゃー玻璃さまぁー!」と黄色い歓声を上げて手を振った。なぜ自分の名前がこんなに広まっているのかと、玻璃は焦る。何のことはない、玲花と小雅が寮の下女への聞き込みの際、彼女の名前を下女らに聞かれたから素直に答えただけだった。個人情報の管理意識の無さに、玻璃は頭を抱えながら、まるで祭典の練り歩きのような行列の中をそそくさと帰っていく。
再び厳重な検査を浴びて後宮から出られた玻璃たち一行は、その足で朱雀宮の調香室へと戻る。訓薫鳳は入口前の回廊で、腕を組み壁に背をもたれて待っていた。
玻璃は持っている記憶を、新鮮で消えないうちに薫鳳に伝えていく。
玻璃の必死の説明を前に、薫鳳は唖然とした顔をしている。
「それから、黄色の瓶は香り始めに蜜柑の皮のような柑橘系の酸い匂いがガッと来て、次第に熟れたような甘い香りが……、何ですか? 薫鳳先生」
「いや……。おまえ、頭いいな」
「はい?」
「香水の成分にはそれぞれ揮発性に差があるから、香りには変化が生じる。だから香水の香りを言語化するには、三段階に分けて表すってのは調香師の世界では一つの技術なんだ」
「そうなんですか。そんな重要なことを、なんで終わった後に教えてくれるんですか」
「確かに。基礎的なことすぎて、伝えてなかったな。謝れと言うなら、謝ることを前向きに検討してもいいが」
「謝れ。即刻検討しろ。それに、どうしてあなたのお弟子さんたちは、その技術を知らないんですか」
「あいつらにはもう二十回は教えているが、全然覚えない」
「指導者のせいですね、全て。でも私では、香りについては混乱しちゃってこれ以上のことは」
「いや玻璃、十分だ。時間をかけてしっかりやってくれたな。ちょっとこっちに来な」
薫鳳が人差し指で招くので、玻璃は一歩前に足を進め近づく。すると薫鳳は、右手を玻璃の背中へと横から回してその身体をグッと自分のほうへと引き寄せた。
「えっ」
突然のことに玻璃はドキッとする。
その瞬間、薫鳳は少し膝を屈めて頭を低くすると、いきなりその顔を玻璃の胸の上に埋めた。
「え、えええええっっ!?」
玻璃は全身の身の毛がよだち、あまりの気持ちの悪さに震え上がる。
「な、何……!? 離れろ、このケダモノっ!」
反射的に玻璃は薫鳳の肩を突き飛ばそうとする。しかし薫鳳は腕に力を込め、玻璃の胸から顔を離さない。玻璃の憤怒が爆発する。
「やめろ薫鳳ぉっ! 知ってるわよ、あなたの好物が女性の胸の谷間の匂いだってこと! 銅銭四枚分の価値しかないクソ情報だけど!」
「玻璃っ、よく考えろっ!」
胸に顔を埋めたままの薫鳳が強く叫んだ。服越しに真剣な声の振動が胸部に伝わり、玻璃の動きは止まる。
「な、何よ……」
「聡いおまえには分かるだろ。おまえには、そんなまともな谷間はないじゃないかっ」
「た……確かに。……ん? ……いや、確かにじゃねーわ!」
一瞬納得しかけた玻璃は、我に返ると薫鳳に怒りの膝蹴りを入れた。だが、微動だにしない薫鳳が落ち着いて繰り返し大きく鼻から息を吸い込んでいることに気づく。
「も……もしかして」
「ああ。玻璃、おまえが念入りに香水を調べてくれたおかげで、この服の前面にはわずかに移り香がある。もう少し嗅がせろ。もう少しだ……」
薫鳳はクンクンと鼻を鳴らしている。玻璃は地獄の様相に全身に鳥肌が立って吐き気をもよおしかけているが、どうも薫鳳が真剣そうなので、人生史上最悪のこの立ち姿を堪えている。
「……玻璃」
「何ですか」
「さすがだな。おまえの香りの報告は鋭いぜ」
(つづく)




