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第一話 若き製瓶師


 人の世は、(おぞ)ましい(にお)いにあふれている。


 二十一年の人生を振り返るたび、玻璃(はり)はそう思う。



 十歳の頃。


 目の前で見知らぬ兵たちに両親を惨殺された時、血の海と屍体が放っていた、あの弱肉強食の臭い。


 十三歳の頃。


 帝国美術学院に最年少かつ女性初の首席合格を果たした時、教師や同級生たちの目から放たれていた、あの男尊女卑の臭い。


 不条理や理不尽は、臭いとなって鼻を衝き、記憶の奥深くに刻まれる。



 だからこそ、至高の香水は心に染みる。


 輝く香水瓶の蓋をひねり、そっと持ち上げる。


 中から立ち昇る(かんば)しい薫香が鼻先をくすぐり、ゆるやかに頭へ、そして胸の奥へと満ちていく。


 澄んだ白さを思わせる静けさと、遠くの光を呼び寄せるような透明さ。そんな繊細な香りが、たちまち悍ましい記憶の輪郭をかき消してくれる。



(素敵な香り……。イヤな思い出、全部忘れられる……)



 玻璃は設計作業用の席で、うっとりと目を(とろ)けさせている。


 自分が一から意匠を起こして設計した硝子製の白い香水瓶。


 中には高貴な白木蓮の香水が満ちている。


 この商品もまた貴族階級の間で話題となり、信じ難い高値がつけられたと祖父から聞いている。


 瓶の中で揺れる香水は、やがては尽きる……。そんな儚い液体に、人はなぜそれほどまでに熱狂し、莫大な金額を投じるのか。それほどまでに、この香水というものにはとてつもない価値があるのだろう。


 一般市民には手が出せないこの高級な嗜好品を手にできるのは、ひとえに制作者特権と言える。


 玻璃はそんな価値ある香水の器の制作に携われることを、とても誇らしく思っていた。


 帝国美術学院を首席で卒業しても、この国に女性の自分が求められる官職はなかった。当初は失意に苦しんだが、今はこのように自分の能力を大いに発揮できていることがありがたい。


 玻璃の仕事はいつも、祖父から試作品の香水を渡されることから始まる。


 先方から提示されたその香りを実際に自らの鼻で嗅いでみて、そこから想像を膨らませて瓶を設計する。


 その香水を生み出している相手は誰なのかは、玻璃は知らされていない。


 調香師という職業の者が香水を作り出すと聞くが、祖父はその打ち合わせ相手のことを「若く端正なお人」と評したことがある。



(こんなにも繊細で優雅な香りを創り出せる調香師の人……。どんな才女なんだろう。いずれ会ってお話ししてみたいな……)



 澄みきった芳香に包まれながら、玻璃はぼんやりと、その香りを生み出した女性の姿を思い浮かべる。


 さらさらと風に揺れる長い髪。


 白磁のように淡い指先。


 無駄がなく流れるように調合作業を進める姿。


 言葉数は少ないが、一滴ごとに確かな意志を宿すような、美しい才媛に違いない。


 朝の穏やかな光の差し込む作業部屋の中で、色とりどりの小瓶を並べて香りを選んでいる……。そんな秀麗の女性調香師の姿を、その傍らの小机で香水瓶の設計をしている、自分の姿。


 彼女は優しく微笑みながら、試作した香水を玻璃の鼻先に近づける。誰よりも早くその香りを体験できた玻璃は、その壮麗な香りに包まれて、天にも昇るような快感を……。



 憧れからのよからぬ妄想から、玻璃はハッと我に返る。顔が熱い。


 だが、この昂る憧れがまた、次の香水瓶の意匠の創作意欲に繋がっていく。



(次はどんな香水を作ってくれるのかな……。楽しみだな……)



 玻璃は恋心にも似た心地で、手元の香水瓶を眺めながら微笑む。




「玻璃」



 部屋の入口から老人の声がして、玻璃はビクッと身体を震わせる。



「おじいちゃん……」



 その姿を確かめて、玻璃の顔はさらに赤くなった。



「い、いつからそこにいたの」


「玻璃が目を閉じて、空中を鼻でクンクンしてたあたり……」


「もう! 知らせてよね」



 玻璃は妄想中の自分を祖父に見られていたことが恥ずかしく、照れた顔を隠すように頬を膨らませた。


 玻璃が設計作業をするこの部屋の入口には、閉所を嫌う玻璃の意向で、扉が設置されていない。知らせようにも叩く扉がないのである。



「入るぞ」



 祖父の玻丈(はじょう)が柔らかな笑顔を見せながら、足を踏み入れた。


 その両手には、宝石のような輝きを湛えた香水瓶が大切そうに載せられてある。



「わぁ……、例の新作ができたのね、おじいちゃん」


「ああ、先方から受け取ってきた。来月には販売が始まるそうじゃ」



 玻丈は孫娘の作業机の上に、そっと香水瓶を置いた。


 それは幾月か前に玻璃が設計し、玻丈や叔父たち西洋硝子(グラス)職人が形にしたものであった。


 事前に受け取った試作品は洗練された白水仙(しろすいせん)の香り。


 その香りを嗅いだ瞬間、玻璃は西洋の古代神話が思い浮かんだ。


 そこで導き出されたのが、西洋の神殿に多用されているという金剛石の宝石細工の印象を取り入れた意匠だった。


 蓋にも胴にも大胆でありながら繊細な研磨が施された意匠。


 窓明かりを受けて反射光を幾重にも煌めかせ、白く輝いている。


 これまでこの国で作られてきた香水瓶のいずれとも異なる造形。玻璃の感性と玻丈たちの技術の結晶だ。


 また、あの頃の悍ましい臭いの記憶から解放されたい……。


 玻璃は胸の奥でそう思いながら、新作の蓋を開ける。


 先ほども妄想の中にいたあの憧れの美女調香師にすがるような気持ちで、立ち昇る香りに鼻を近づける。



「……!?」



 玻璃の表情が一瞬で変わった。



「おじいちゃん!」


「どうした」


「香りが違う! 前に受け取った試作品の香りじゃない」



 目を見開いて、玻璃ははっきりと指摘する。



「これ、水仙とかじゃなく……、蜜柑(みかん)みたいな柑橘系の……」



 以前に水仙の香水と聞いて受け取った試作品は、気品と清楚を併せ持つ透き通った香りであった。しかしこれは、甘酸っぱい鮮度と活気に満ちたような華やかな香りがする。印象がまるで違う。



「さすがは玻璃じゃ」



 祖父は玻璃の嗅覚に感心して、優しく言った。



「そう。当初の発注では水仙の香水だったが、先に橘子(きっし)の香水が完成したそうでな。それを優先して発売することになったそうじゃ」


「冗談じゃない!」



 玻璃は思わず叫んだ。



「この意匠は、元の白水仙の静かで優雅な香りから想像して描いたものよ。こんな甘くて酸い(たちばな)の香りじゃ、全然この瓶と雰囲気が合わないじゃない!」


「そんなもんかの」


「そんなもんか、じゃないよ、おじいちゃん。しっかりしてよ! なんで中身が変わっても平気なの!?」



 玻璃はたまらず祖父に詰め寄った。


 あまりの迫力に、玻丈は目をしばたたかせてたじろぐ。



「いや、瓶を納品した後のことは先方に任せておるから……」


「ダメだよ。うちの工房の作品でもあるんだよ? 」



 玻璃は怒りが収まらない。


 玻丈はやはり、画家の父親に似て芸術家肌である。設計したものを作品と呼ぶのは、生産物を製品としか思わない玻丈とはどこか違う。


 玻丈は困惑しながらも、孫娘を頼もしく思っている。


 玻璃が一歩進み出て言った。



「おじいちゃん。私をその調香師の方に直接会わせて」


「なんじゃと」



 玻璃の申し出に、玻丈は慌てる。



「な……、なぜじゃ」


「今度の内容変更だけは許せないから。これまで、彼女とはすごく相性がいいと思ってた。最高の技術と感性に、憧れてもいたの。でも、思い違いだったみたい。今回はおかしいって、ちゃんと直接物申したい」


「うむ……」



 玻璃の主張を聞いて、玻丈は思い悩んでいる。


 これまで工房の製作全体を取り仕切ってきたその玻丈も、もう七十代に差しかかる。引退を視野に入れ、工房の製造の権限は長男へと徐々に委譲している。


 いずれは玻璃が直接打ち合わせの場に臨み、自分の言葉で直接やりとりをするほうがいい。


 しかし、玻丈にはなかなかその決断に踏み切れない理由があった。



「果たして、玻璃に会わせてもよいものかどうか……」


「何よ、おじいちゃん。……もしかして!」


「ん?」


「お相手の調香師って、私より年下の天才少女とか……? 大丈夫。私はどんな才女でも、他人の才能を妬んだりしないから」



 玻璃は胸を張って主張する。


 玻丈は困ったように、指先で頬を掻いた。



「いや……、そういうことでもなく……」


「どんな方なの。調香師の方」


「若い男なのじゃ」


「……」



 玻丈の答えに、玻璃は一瞬きょとんとして固まった。これまで香水の香りから思い描いてきた人物像と、まるで一致しない。



「お……、お……」



 玻璃の肩がわなわなと震える。


 玻丈は、やはりそうなるか、という顔で申し訳なさそうに小さく溜め息をついた。


 そして、玻璃が爆発した。



「男ぉぉ………っ!?」




(つづく)





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