境界の光
◆
夜の街は光を食う。
どれほど煌びやかなネオンを灯しても、その輝きは闇に呑まれて消えていく。雑居ビルの五階。エレベーターの扉が開いた瞬間、美都の足が止まった。
廊下の奥に見えるガラス張りの入口には「Lunaris」という筆記体のロゴが浮かんでいる。友人の真帆が強引に予約を入れたこの店はいわゆるジェンダーレスホストの店だった。ホストクラブなど足を踏み入れたこともなく、ましてや女性がホストを務めるという形態は想像すらしたことがない。
廊下には甘い香りが漂っていた。何の花だろう。美都には分からなかったが不思議と心が落ち着く香りだった。深呼吸を一つして、ガラスの扉に手をかける。
「いらっしゃいませ」
扉を開けると、凛とした声が迎えた。
深い藍色のスーツに身を包んだ人物が柔らかな微笑みを浮かべて立っている。一見して男性かと思った。しかしその輪郭の繊細さ、首筋の白さ、そして何より纏う空気の質がどこか異なる。男でも女でもない、そのどちらでもあるような──そんな不思議な存在感だった。
身長は美都より少し高い程度。短く整えられた髪は艶やかな黒で、前髪が目にかかるたびに指先で払う仕草が妙に印象的だった。
「初めてのご来店ですね。お友達のご紹介と伺っています」
「あ、はい。真帆に……勧められて」
「真帆さんですか。よくいらしてくださいますよ」
案内されたのは店の奥まった位置にある半円形のソファ席だった。間接照明が壁を這い、グラスの縁に小さな虹を落としている。店内には静かにジャズが流れていた。ピアノの旋律が空気に溶け込み、会話の邪魔をしない程度の音量に調整されている。
「僕は柊と申します。今夜は僕が担当させていただきますね」
向かい合って座ると、意外にも緊張は薄れていく。グイグイと押してくるような気配がないせいかもしれない。むしろ風のようだと美都は思った。そこにいるのに、圧迫感がない。けれど確かに存在している。
「緊張していますか」
「少し」
「無理もないですね。こういうお店は初めてでしょうし」
柊はグラスに水を注ぎながら、穏やかに続けた。
「お酒は強いほうですか」
「あまり……飲まないほうです」
「では軽めのカクテルからお出ししましょうか。ジンジャーエールベースで、ほとんどジュースみたいなものもありますよ」
美都は頷いた。柊が手際よくメニューを広げ、いくつかのカクテルを指差しながら説明してくれる。その声は低すぎず高すぎず、心地よい響きだった。
「このシャーリーテンプルがお勧めです。グレナデンシロップとジンジャーエールで、見た目も綺麗ですよ」
「じゃあ、それで」
注文を済ませ、しばらく他愛のない話が続いた。仕事のこと、趣味のこと、最近観た映画のこと。柊は聞き上手だった。適切な相槌を打ち、時折自分の意見も交えながら、会話を途切れさせない。それでいて質問攻めにするわけでもなく、沈黙を恐れる様子もない。
「お仕事は何をされているんですか」
「出版社で編集の仕事を。といっても、まだ下っ端なので雑用ばかりですけど」
「編集者さんですか。本がお好きなんですね」
「はい。小さい頃から……」
美都は自分でも驚くほど自然に言葉が出てくることに気づいた。普段は初対面の人と話すのが苦手で、すぐに言葉に詰まってしまうのに。柊の聞き方には相手の言葉を引き出す不思議な力があった。
「あの」
ふと、美都は気になっていたことを口にした。
「柊さんは……その、こういうお仕事をされていて……」
「何でしょう」
「変に思われたりしませんか。ジェンダーレスホストって」
言ってから、失礼だったかと美都は慌てた。しかし柊は微笑んだまま、首を傾げる仕草をした。少しだけ。まるで言葉を選んでいるかのように。
「変に思う人もいるでしょうね。でも、気にしていません」
「そう……ですか」
「僕は僕のままでいたいだけなんです。男らしくとか女らしくとか、そういう枠にはまりたくない。ここは僕みたいな人間でも自然体でいられる場所なんです」
柊の言葉には重みがあった。きっと色々な経験をしてきたのだろうと美都は思った。
「美都さんはどうですか。変に思いました?」
「いえ」
即答だった。
自分でも驚くほど、迷いなく否定の言葉が出た。
「実は」
美都はグラスの縁を指でなぞりながら、続けた。
「小学校の頃、転校生が来たんです。六年生のとき」
「転校生」
「井狩さん、いや、井狩くんっていうんですけど……その子は……なんというか、今思えばジェンダーに違和感を持っていたんだと思います。女の子なのに男の子みたいな格好をしていて、自分のことを『僕』って呼んでいて」
柊の指がわずかに動いた。グラスを持ち上げようとして、やめたように見えた。
「最初はクラスの子たちも戸惑っていました。でも、話してみるとすごくいい子で」
「いい子、ですか」
「はい。優しくて、面白くて。一緒にいると楽しかった」
美都の視線はどこか遠くを見ているようだった。記憶の底に沈んだ何かを探るように。
「休み時間になると、いつも一緒にいました。お弁当も二人で食べて。放課後は少しだけ遠回りして帰ったりして」
「仲が良かったんですね」
「ええ。たった三ヶ月だったのに、すごく濃い時間でした。だからかもしれません。こういうお店があると聞いても、抵抗がなかったのは」
「その転校生とはその後も?」
柊の声は普段と変わらぬ穏やかさだった。しかしどこかに張り詰めたものがあった。美都は気づかない。気づくはずもない。
「いえ……すぐにまた転校してしまって。たった三ヶ月くらいだったんです」
「そうですか」
柊は静かに頷いた。その表情に変化はない。ただ、長い睫毛が一度だけ伏せられた。
「また会いたいとは思いませんか」
「……時々、思います。今どこで何をしているのかなって。幸せにしているといいなって」
美都は照れくさそうに笑った。
「変ですよね。たった三ヶ月一緒にいただけなのに、こんなに覚えているなんて」
「変じゃないですよ」
柊の声は静かだったがどこか熱を帯びていた。
「短い時間でも、心に残る出会いはあります。それは特別なことです」
◆
美都が「Lunaris」に通い始めて、二ヶ月が経った。
最初は月に一度だったのが二週に一度になり、やがて週に一度になった。柊を指名し続けるうち、二人の間には独特の空気が生まれていた。ホストと客という関係を超えた、しかし友人とも恋人とも言い切れない、曖昧で心地よい距離感。
美都は柊と話す時間が待ち遠しくなっていた。仕事で嫌なことがあっても、週末に柊に会えると思えば乗り越えられた。それが依存の始まりだと気づかないまま。
「最近、顔色が悪いですね」
ある夜、柊は開口一番にそう言った。
美都は笑顔を作ろうとして、失敗した。
「分かりますか」
「分かりますよ。僕は美都さんをずっと見ていますから」
その言葉には職業的な含み以上の何かがあった。少なくとも美都にはそう聞こえた。
「彼氏と……上手くいっていなくて」
「彼氏」
柊の声がほんの僅かに低くなった。
「います?」
「います……いました、というべきかもしれません」
美都はグラスを両手で包み込み、俯いた。
「篠塚健司っていう人なんですけど」
それから美都は堰を切ったように話し始めた。
交際して一年になる恋人のこと。最初は優しかった男が次第に支配的になっていったこと。些細なことで怒鳴られ、時には手を上げられるようになったこと。別れたいと言っても許してもらえず、むしろ暴力がエスカレートしていること。
「最初は本当に優しかったんです。記念日にはいつもサプライズを用意してくれて、落ち込んでいるときは一晩中話を聞いてくれて」
美都の声は震えていた。
「でも付き合って半年くらいから、変わり始めて。私の服装にケチをつけたり、友達と会うのを嫌がったり。最初は愛情の裏返しだと思っていたんです」
「それは違います」
柊の声は静かだったが断定的だった。
「支配欲です。愛情とは似て非なるものです」
「分かっています。分かっているんです、今は。でも当時は……」
「当時は分からなかった」
「はい」
柊は黙って頷いた。責めるような気配は微塵もなかった。
「腕を見せてください」
柊の声は静かだったが有無を言わせぬ強さがあった。
美都は逡巡し、やがてカーディガンの袖を少しだけ捲った。白い肌に、青紫の痣が点々と残っていた。
「これは」
「転んで……」
「嘘をつかないでください」
柊の声が初めて鋭さを帯びた。
「美都さん。それはDVです」
「分かってます。分かってるんです、でも」
「でも?」
「彼が怖くて……逃げられないんです。住所も知られてるし、職場にも来たことがあって」
美都の声は震えていた。涙が頬を伝い落ちる。柊はそっとポケットからハンカチを取り出し、差し出した。白いリネンのハンカチには小さな刺繍が施されていた。
「逃げましょう」
「え……」
「僕も昔、同じような経験があります」
美都は顔を上げた。柊の横顔は照明を受けて輪郭だけが際立っている。
「元カレに、暴力を振るわれていたんです」
「柊さんも……」
「ええ。だから逃げてきました。この仕事を始めたのも、逃げた先で生きていくためでした」
柊は遠くを見るような目をしていた。まるで過去の記憶を辿っているかのように。しかしその目には何の感情も浮かんでいなかった。
「最初は誰にも言えませんでした。恥ずかしかったし、自分が悪いんだと思い込んでいたから。でも違うんです。暴力を振るう側が悪い。それだけのことなんです」
柊は美都の目を真っ直ぐに見つめた。
「一人で抱え込まないでください。僕に手伝わせてください」
その夜、美都は初めて営業時間の終了まで店にいた。
柊は仕事上がりに、美都を近くのファミリーレストランに誘った。深夜のファミレスは閑散としていて、窓際の席で二人きり、長い時間を過ごした。蛍光灯の白い光の下で、柊の顔は店にいるときとは違って見えた。より人間的で、より親しみやすい。
「まず、証拠を残しましょう」
柊はノートを取り出し、ペンを走らせた。
「暴力を受けた日時、場所、状況。できれば写真も。病院で診断書をもらうのも有効です」
「でも、そんなことしたら彼が怒って……」
「だから秘密裏に進めるんです」
柊の手際は驚くほど的確だった。まるで以前から計画していたかのように、淀みなく手順を説明していく。警察への相談、弁護士への依頼、シェルターの利用、住所変更の手続き。
「相談窓口はいくつかあります。警察のDV相談、配偶者暴力相談支援センター、それから民間のシェルターも」
柊はノートに連絡先を書き込んでいった。
「弁護士はできれば女性の方がいいかもしれません。話しやすいでしょうし。僕の知り合いに、こういう案件に強い弁護士がいます。紹介しましょうか」
「柊さん、詳しいんですね」
「経験者ですから」
柊は薄く笑った。
「同じ思いをしている人を、放っておけないんです」
◆
それから数週間、二人は頻繁に連絡を取り合った。
店での時間だけでなく、休日に会うこともあった。柊は美都の相談に乗り、時に励まし、時に叱咤した。美都は最初こそ怯えていたものの、柊の存在が支えとなり、少しずつ前を向き始めていた。
ある休日、二人は都内の公園を散歩していた。秋の陽射しは柔らかく、木々の葉が赤や黄色に色づき始めている。
「綺麗ですね」
美都は落ち葉を踏みしめながら言った。
「こうやって外を歩くの、久しぶりです。彼と付き合っていた頃は休日はずっと家にいることが多くて」
「外出を制限されていたんですか」
「制限というか……一人で出かけると機嫌が悪くなるので、自然と避けるようになって」
「それも支配の一種です」
柊は静かに言った。
「直接的な暴力だけがDVではありません。行動を制限する、人間関係を断たせる、経済的に依存させる。そういった精神的な支配も暴力の一形態です」
「柊さんの元カレも、そういう人だったんですか」
「ええ」
柊は遠くを見つめた。
「最初は優しかったんです。でも付き合いが長くなるにつれて、少しずつ変わっていった。僕の服装に口を出すようになり、友人と会うのを嫌がるようになり、やがて……」
「やがて?」
「手を上げるようになりました」
柊の声は淡々としていた。まるで他人事のように。
「殴られるたびに、自分が悪いんだと思っていました。僕がもっとちゃんとしていれば、彼を怒らせなければ、って」
「それは違います」
美都は思わず柊の腕を掴んだ。
「暴力を振るう側が悪いんです。柊さんが言ったように」
柊は少し驚いたような顔をして、それから微笑んだ。
「ありがとうございます。今はもう、分かっています」
二人は並んで歩き続けた。時折風が吹いて、落ち葉が舞い上がる。
「今日、弁護士に会ってきました」
ある日、美都はそう報告した。
「接近禁止命令を出せるって」
「よかった」
柊の表情が珍しく柔らかく崩れた。
「頑張りましたね」
「柊さんのおかげです、色々と教えてくださって……」
「僕は何もしていませんよ。全部、美都さんが自分で決めて、自分で動いたんです」
それは事実だった。柊はアドバイスを与えはしたが実際に動いたのは美都自身だった。警察に行ったのも、弁護士に相談したのも、職場の上司に事情を説明して協力を求めたのも、全て美都の決断だった。
「最初は怖かったんです」
美都は言った。
「でも、柊さんと話しているうちに、怖がってばかりじゃダメだって思えるようになって」
「美都さんは強い人ですよ」
「そんなこと……」
「いいえ。本当に弱い人は助けを求めることすらできません。美都さんは声を上げた。それがどれだけ勇気のいることか、僕には分かります」
篠塚健司への対処は想像以上に上手くいった。
美都が集めた証拠は十分で、弁護士を通じて内容証明を送ると、意外にも相手は大人しくなった。接近禁止命令が出され、美都は住所を変更し、新しい生活を始めることができた。
「もう大丈夫そうですね」
柊はいつものように穏やかに言った。
「はい。本当にありがとうございました」
美都の目には涙が浮かんでいた。感謝と、それから別の感情が混ざり合った涙だった。
「柊さん」
「はい」
「私、柊さんのこと……」
言葉が続かない。
柊は黙って待っていた。急かすことも、話を逸らすこともせず。
「好き、です」
言ってしまった。
美都は顔を真っ赤にして俯いた。
「お客さんとして、とかじゃなくて……一人の人として、柊さんのことが好きです」
長い沈黙があった。
美都は心臓が壊れるのではないかと思った。やはり言うべきではなかったと後悔が押し寄せる。ホストに恋をするなど、愚かな客の典型ではないか。
「美都さん」
柊の声はいつもより低かった。
「顔を上げてください」
おそるおそる顔を上げると、柊の顔が間近にあった。
「僕も」
柊の唇が美都の額に触れた。
「ずっと、そう思っていました」
◆
二人の関係はそこから急速に深まった。
柊は店での営業を続けながらも、美都との時間を何より大切にした。デートを重ね、互いの過去を語り合い、未来を夢想した。美都は幸福だった。あの暗い日々が嘘のように、毎日が輝いて見えた。
休日には一緒に美術館を巡り、映画を観て、小さなカフェで何時間もおしゃべりをした。
「柊さんって、何でも知ってるよね」
ある日、美都はそう言った。二人は代官山のカフェで向かい合って座っていた。
「そんなことないよ」
「ううん、本当に。映画の話をしても、本の話をしても、すぐについてくる。私の好みもよく分かってるし」
「美都さんの話を聞いているうちに、自然と」
柊は微笑んだ。
「好きな人のことは知りたくなるものでしょ?」
美都は頬を赤らめ、気恥ずかしさをごまかすかのように口を開く。
「柊さんの部屋、見てみたいな」
「僕の部屋?」
「だめ?」
「いや……」
柊は一瞬だけ何かを考えるような表情を見せた。しかしすぐに微笑んで頷いた。
「じゃあ来週の土曜日にでも」
・
・
・
そして当日。柊が美都を連れていったのは駅から少し離れた場所にあるワンルームマンションだった。
部屋は清潔に片付いていた。シンプルな家具、控えめなインテリア。本棚には小説が並び、窓際には小さな観葉植物が置かれている。何の変哲もない、一人暮らしの部屋だった。
「狭くてごめんね」
「そんなことないよ。落ち着く部屋だね」
美都は嬉しそうに室内を見回した。
本棚を覗き込むと、美都の好きな作家の本が何冊か並んでいた。
「あ、この本私も持ってる」
「そうなんだ。偶然だね」
柊は穏やかに笑った。
「紅茶でも入れるね」
「あ、手伝うよ」
「いいよ。座ってて」
柊がキッチンに立つ間、美都はソファに座って待った。壁にかかった時計の秒針が規則正しく時を刻んでいる。
幸福だった──心の底から、そう思えた。
◆
美都が帰った後、柊は一人で部屋に残っていた。
窓の外は既に暗い。街灯の光がカーテンの隙間から漏れ入り、床に細い線を描いている。柊はしばらくそれを見つめていた。動かない。呼吸すら浅い。まるで石像のように。
やがて立ち上がり、部屋を出た。
向かった先は同じマンションの別の部屋だった。
鍵を開け、中に入る。
電気をつけた瞬間、部屋の様相が一変した。
壁一面に、写真が貼られている。
全て、美都の写真だった。
街を歩く姿。カフェで本を読む姿。職場のビルに入っていく後ろ姿。友人と笑い合う横顔。何百枚、何千枚という写真が壁という壁を埋め尽くしている。中には引き伸ばされたものもあった。美都の顔がA3サイズに拡大され、丁寧に額縁に入れられて飾られている。
柊は満足そうに、それらを眺めた。
部屋の奥には机があり、その上には分厚いファイルが何冊も積まれていた。中を開けば、美都の行動記録が克明に記されている。何月何日何時何分、どこで何をしていたか。誰と会い、何を食べ、何を買ったか。全てが詳細に記録されている。
別の引き出しを開けると、美都が捨てたレシートや、使い終わったリップクリーム、抜け落ちた髪の毛までもが丁寧にビニール袋に入れて保管されていた。
──ずっと見ていた。
そう、柊はずっと見ていたのだ。
美都が「Lunaris」に初めて来た夜よりもずっと前から。
真帆を通じて、美都に店を勧めたのは柊の仕込みである。その真帆と知り合うためにも、柊は相応の時間を費やした。何度も何度も偶然を装って接触し、ホストクラブに興味を持つよう誘導した。
年単位の計画だ。
DVを受けた経験なども一切ない。元カレからDVを受けていたなどと嘘をついたのは共感を得るため。同じ経験をした者として美都に寄り添うため。そうすれば美都は心を開く。柊を信頼する。やがては柊なしでは生きられなくなる──いや、生きられなくする。
すべては美都を手に入れるための、柊の詐術である。
柊は写真の一枚に手を伸ばし、指先で美都の輪郭をなぞった。
「やっと……手に入れた」
その声は歓喜に震えていた。
◆
記憶は色を持っている。
柊にとって、あの日の記憶は淡い桜色だった。
小学六年生の春。新しい学校への転校はもう何度目か分からなかった。女の子らしくしなさいと言われるたびに反発し、周囲から浮き、いじめられ、そして転校する。その繰り返しだった。自分が何者なのか分からないまま、どこにも居場所がないまま、ただ流されるように学校を転々としていた。
新しいクラスでも同じだろうと思っていた。
だから初めは誰とも関わろうとしなかった。窓際の席で、一人で本を読んでいた。誰かが話しかけてきても、最低限の返事しかしなかった。どうせまた転校するのだ。友達を作っても意味がない。
「ねえ、一緒にお弁当食べない?」
声をかけてきたのは窓際の席に座っていた女の子だった。長い黒髪を揺らし、まっすぐにこちらを見つめている。その目には好奇心があった。しかし嫌悪はなかった。
「……いいの」
「何が?」
「私、変だって言われるよ」
「変? どこが?」
本気で分からないという顔だった。
名前は美都といった。
彼女は本当に何も気にしていないようだった。柊が自分のことを「僕」と呼んでも、男の子みたいな格好をしていても、それを奇異な目で見ることはなかった。むしろ面白がっているようですらあった。
「かっこいいね、その服」
「……かっこいい?」
「うん。似合ってる」
初めて、そんなことを言われた。
柊の心臓が大きく跳ねた。
三ヶ月間だった。
たった三ヶ月。しかしその短い時間は柊の人生において最も輝かしい日々だった。美都と過ごす時間は幸福そのものだった。一緒にお弁当を食べ、休み時間にはおしゃべりをし、放課後には少しだけ寄り道をして帰った。
「井狩くんって、好きな本ある?」
「……村上春樹とか」
「私も好き! どの作品が好き?」
「『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』かな」
「私も! あの二つの世界が交互に進んでいく感じがいいよね」
趣味が合った。話が尽きなかった。美都といると、自分が自分でいられた。初めて、ありのままの自分を受け入れてもらえた気がした。
ある日の放課後、二人は公園で並んでブランコに座っていた。
「井狩くんは大きくなったら何になりたい?」
「分からない。考えたこともない」
「私はね、編集者になりたいの。本を作る仕事」
「編集者か。美都らしいね」
「でしょ?」
美都は嬉しそうに笑った。
「井狩くんも、きっと何かやりたいことが見つかるよ。井狩くんは特別だもん」
「特別?」
「うん。他の人とは違う。いい意味でね」
その言葉が柊の心に深く刻まれた。
けれど、また転校することになった。
理由は覚えていない。親の都合だったのか、学校で何かあったのか。覚えていないのではなく、覚えたくないのかもしれない。父親は単身赴任を繰り返す人だった。母親は父についていくことを選び、柊はいつもその付属品のように扱われた。
最後の日、美都は泣いていた。
「また会えるよね」
柊は答えられなかった。また会えるとは思えなかった。転校を繰り返すうち、再会の約束が果たされたことは一度もない。
「絶対また会おうね」
美都は柊の手を握り、そう言った。
その温もりを、柊はずっと忘れられなかった。
「約束だよ」
美都は小指を差し出した。柊はそれに自分の小指を絡めた。
「約束……」
声が震えた。泣きそうだった。泣いてはいけないと思った。男の子は泣かないと父親に言われていた。でも柊は男の子ではなかった。かといって女の子でもなかった。自分が何者なのか、やはり分からないままだった。
分かっていたのは一つだけ。
美都のことが好きだということ。
それだけが確かだった。
◆
高校を出て、柊は歌舞伎町に流れ着いた。
親とは絶縁していた。高校を卒業した日に家を出て、それきり連絡を取っていない。自分らしく生きたかった。誰かに押し付けられた「女の子らしさ」から自由になりたかったのだ。
最初は男装カフェで働き、やがてジェンダーレスホストとして店に入った。自分のような存在が受け入れられる場所を、ようやく見つけたように思えた。ここでは誰も、柊の性別を詮索しない。男でも女でもない柊を、ただの「柊」として扱ってくれる。
美都を見つけたのは偶然だった。
いや、偶然ではないのかもしれない。柊は無意識のうちに美都を探していたのかもしれない。あの日の約束を、ずっと忘れていなかったから。
SNSで見つけた美都の写真はあの頃の面影を残していた。長い黒髪、まっすぐな目。少し大人びて、綺麗になっていた。プロフィールを見ると、出版社で編集者として働いていると書いてあった。
あの頃の夢を、叶えたのだ。
柊の心臓が跳ねた。
それから調べ始めた。
住所、職場、交友関係、趣味、行きつけの店。調べられることは全て調べた。幸いにも、その時柊には夜の仕事で得た伝手があったし、稼ぎもあった。興信所を使うこともあった。SNSを隅々まで調べ上げ、美都の友人たちのアカウントもチェックした。
写真を撮り始めたのはいつからだったか。気がつけば習慣になっていた。美都の日常を記録することが柊の生きがいになっていた。望遠レンズのついたカメラを買い、美都の行動を追った。朝、家を出る時刻。通勤に使う電車。昼食をとる店。帰宅する時刻。全てを把握した。
異常だと自覚していた。けれど止められなかった。美都のことを知れば知るほど、もっと知りたくなった。美都の全てが欲しかった。
篠塚健司という男の存在を知ったとき、柊の中で何かが壊れた。
美都に触れる男がいる。美都を傷つける男がいる。許せなかった。その男に殺意を覚えた瞬間すらあった。けれど、冷静になった。今すぐ排除しようとすれば、美都との関係が壊れる。慎重に、計画的に進めなければならない。
篠塚がDVをしていることは調査の中で分かっていた。あの男を排除する道具として使える。同時に、美都を救う「白馬の王子」として自分を位置づけることもできる。一石二鳥だ。
結果として全てが上手くいった。当たり前だ、篠塚健司がろくでもない男であるという事は事前につかんでいて、それでいてその男を排除するために十分な準備をしてきたのだから。美都は柊の手際をほめたが手際が良いのは至極当然の話であった。
柊は壁の写真を見つめながら、深く息を吐いた。
「美都……」
自分のこの感情が世間一般でいう「愛」とは異なることは理解していた。執着。偏執。あるいは狂気。どう呼んでもいい。けれどこれが自分のかたちなのだ。美都を手に入れるためなら何でもする。美都を他の誰にも渡さない。美都は自分だけのものだ。
あの日、美都が差し伸べてくれた手。あの温もりだけが柊を人間として繋ぎ止めていた。美都がいなければ、自分はとうの昔に壊れていただろう。
いや──もしかしたら、とうの昔に壊れていたのかもしれない。
柊は額縁に入った美都の写真を手に取り、そっと唇を寄せた。
「ずっと一緒にいようね」
誰にも聞こえない声で、柊は囁いた。
(了)




