婚約破棄宣言をされても、涙より先に笑いが込み上げました。
私の名前はセシリア・エルディア。
エルディア公爵家の長女に生まれ、物心ついた頃から王太子の婚約者と定められていた。
将来は王妃――それは誉れ高いことのはず。
だが、幼い私にとってそれは誉れではなく、牢獄だった。
「殿下の隣に立つのですから、泣き顔は見せてはなりません」
「感情で動くのではなく、冷静さを常に」
そう教育され続けた結果、私は「冷たい令嬢」として成長した。
そして学園に入学すると――事件は起きた。
リオネル殿下が心を寄せたのは、辺境伯の娘リリア・ハートフィールド。
彼女は庶民に近い出自ゆえに礼儀を欠き、言葉遣いも危うい。
けれど、だからこそ眩しい。
殿下にとっては「自分を飾らず慕ってくれる天真爛漫な少女」だったのだ。
対照的に、私は「冷たく、感情のない婚約者」として映ったのだろう。
噂はすぐに形を持ち始めた。
「セシリア様がリリア様に意地悪をしている」
「嫉妬に狂った悪役令嬢だ」
根拠はない。ただ都合のいい物語が転がっていただけ。
けれど、殿下はそれを信じた。
「セシリア、君はリリアに冷たすぎる」
「……殿下、私は何もしておりません」
「態度が問題なのだ。君の無愛想さは、王妃にふさわしくない」
そう告げられたとき、私は理解した。
――この婚約は、遅かれ早かれ終わる。
そして迎えた舞踏会の夜。
殿下は群衆の前で高らかに「婚約破棄」を宣告し、私は笑いを堪えることに必死だった。
◇
「セシリア・エルディア、公爵令嬢との婚約を――ここに破棄する!」
リオネル殿下の声が舞踏会場に響きわたる。
ざわめく群衆。震えるリリア。
すべてが、殿下が望んだ舞台装置だ。
「君はリリアを妬み、彼女のドレスを汚したり、舞踏会から締め出そうとしたりした! そのような卑劣な令嬢を、未来の王妃として迎えることなどできぬ!」
(……あら、派手に盛ったこと)
会場からは「まあ!」と小さな悲鳴。
誰一人、証拠を求めようとする者はいない。
断罪劇は、事実よりも「物語性」が重視されるのだ。
私は深呼吸を一つ。
そして静かに答える。
「承知いたしました、殿下。ご決断、心よりお慶び申し上げます」
「なっ……」
リオネル殿下の声が裏返った。
期待していたのは、泣き叫ぶ悪役令嬢の姿だったのだろう。
だが、その隙を埋めるように、リリアが小さく震える声で言った。
「……わ、わたし、本当は……セシリア様が、少し怖かったのです。目が、いつも冷たくて……」
(上手いわね。これで“私は何もしてない”と言っても、全部否定される)
案の定、殿下は彼女の肩を抱き寄せ私を睨みつける。
「聞いたか! リリアは恐れていたんだ! 彼女の優しさゆえに口にしなかったが、君の冷酷さは皆が知っている!」
……ほんと、完璧な筋書きね。
だから私は、一歩前に出て、はっきりと言った。
「殿下。リリア様。どうぞ末永くお幸せに。――もっとも、私の悪名が王国中に広まったあとで、まだ“純白の恋物語”が続くかどうかは、存じませんが」
会場が一瞬、凍りついた。
殿下の顔が真っ赤に染まり、リリアの肩が小さく震える。
私は深々と一礼した。
「それでは、私はこの場を失礼いたします。二度と、あなた方の舞台に上がるつもりはございませんので」
――それが、私の婚約破棄の幕引きだった。
◇
舞踏会の翌日から、噂は稲妻のように王都を駆け巡った。
「やはり公爵令嬢セシリアは悪役だった」
「リリア嬢を虐げた挙げ句、殿下に見放された」
「断罪の場でも冷笑を浮かべたらしい」
――面白いことに、私は実際には泣きも叫びもしていないのに、人々の話の中で私はすでに「醜態をさらした哀れな女」になっていた。
(噂というのは便利なものね。事実なんて誰も求めていないのだから)
その結果、私のもとを訪れる令嬢はいなくなり、友人と呼べる存在も一人残らず去った。
社交の場に出れば、さりげなく距離を取られ、目を合わせれば扇子で口元を隠して笑われる。
――そう、私は完璧に孤立した。
けれども。
「……静かでいいわね」
皮肉ではなく、心からそう思った。
婚約者という名の鎖に縛られていた頃は、
「王妃にふさわしく」と四六時中、監視されているようだった。
笑顔ひとつにも気を使い、失言を恐れて口を閉ざし、常に正しくあろうとした。
今はどうだろう。
「悪役令嬢」という烙印を押された私は、何をしても悪く言われる。
ならば逆に、気を張る必要などないのだ。
紅茶をどれだけ飲もうが、侍女と世間話で笑おうが、
――もう「王太子の婚約者」として咎められることはない。
(悪評も、自由の対価と思えば安いものだわ)
だが、私の冷静さは周囲にとってはかなり意外だったのだろう。
「セシリア様、落ちぶれて泣き暮らしているらしい」
「いいえ、屋敷で笑っているそうよ。不気味だわ」
……侍女によるとどうやら私は今、「泣き崩れる悪役令嬢」から「笑う悪役令嬢」へとアップデートされたらしい。
その頃、屋敷に一通の手紙が届いた。
差出人は――侯爵家の令息、アルノー。
内容は簡潔だった。
『舞踏会でのご対応、見事でした。もしよろしければ、お茶の席を共にいかがでしょう』
……まったく。
婚約破棄から数日で、新しい誘いとは。
(さて、これは私の物語に新しい幕が開いた、ということかしら?)
◇
手紙を受け取った日の午後、私は応接室で紅茶を片手にその文面を読み返していた。
差出人は侯爵家の令息アルノー・ヴァルディエール。
婚約破棄の一件以来、私に接触してくる貴族は皆無だった。
にもかかわらず、彼だけはこう記していたのだ。
『あの日のご対応、見事でした。殿下と令嬢に侮辱されながらも、毅然と振る舞われたその姿に敬意を表します』
(……見事、ですって?)
王都中が私を「笑う悪役令嬢」と呼んでいるのに、彼だけは違う見方をしているらしい。
正直なところ、半分は好奇心に押されて、私は誘いを受けることにした。
――指定された茶会の場は、王都の郊外にある侯爵家の別邸だった。
「ようこそ、セシリア様」
現れたアルノーは、穏やかな微笑を浮かべた青年だった。
殿下のように煌びやかな美貌ではない。だが彼の瞳は真っ直ぐで、相手を品定めするような妙な嫌らしさがない。
「お誘いに応じてくださり、光栄です。お噂を耳にしてから、どうしてもお会いしたく思っておりました」
「……私と? 殿下に捨てられた、悪役令嬢と?」
皮肉を込めて言ったつもりだったが、彼は首を横に振った。
「いいえ。殿下に捨てられたのは、セシリア様ではなく、本当は殿下自身なのでしょう」
一瞬、言葉を失った。
私の中にあった小さな棘を、するりと撫でて外すような言葉だったから。
彼は続けた。
「社交界は噂に踊らされます。けれど、あの日のあなたの微笑み――あれは虚勢ではなく、誇りそのものだったと思います。それを理解した者も、少なからずいるのですよ」
(……理解、ですって?)
私の胸の奥で、なにかが小さく揺れた。
侍女の前で無邪気に笑うのとも違う、妙に落ち着かない感覚。
「だからこそ、もしよろしければ……少しずつで構いません。あなたの時間を分けていただけませんか」
紅茶の湯気の向こうで、彼の真摯な眼差しが私を射抜く。
私はカップを置き、深呼吸をした。
――婚約破棄で幕を閉じたはずの私の物語は、どうやらまだ続くようだ。
「……面白いお話になりそうですね。よろしいわ、アルノー様」
こうして私は、思いもよらぬ縁へと歩み出したのだった。
◇
アルノーとの茶会は、驚くほど心地よい時間だった。
堅苦しい話題も、遠回しの探り合いもない。
彼はただ、季節の花や書物の話をし、時折さりげなく私の意見を尋ねる。
(……なんて穏やかなのかしら)
思えば、殿下と過ごした時間は、常に緊張と虚飾で彩られていた。
「王太子妃としてあるべき姿」を演じることが求められ、私自身の声など聞かれることはなかった。
だがアルノーは違った。
私が少し辛辣な意見を述べても、彼は笑って受け止める。
それどころか「もっと聞かせてください」と身を乗り出してくるのだ。
「……本当に、変わった方ですわね」
「変わっているとよく言われます。ですがセシリア様にそう言われるのは、光栄です」
冗談めかしたやり取りに、つい口元が緩んだ。
それから数日、私は何度か彼と茶会を重ねた。
そのたびに心が軽くなるのを感じ、気づけば日記に彼の話題を記している自分がいた。
――だが、世の中はそう簡単に私を放ってはくれなかった。
ある日、屋敷に戻ると、侍女がそっと耳打ちした。
「お嬢様…社交界で、新しい噂が広まっております」
「またですか。今度はどんな愉快なお話?」
「……セシリア様が“次なる婚約者を見つけた”と」
私は思わず紅茶を吹き出しそうになった。
アルノーとの茶会を、誰かが見ていたに違いない。
「まだ何も決まっていませんのに……まったく、噂好きなこと」
「けれど、殿下の元婚約者に新しい縁談が持ち上がるなど、皆が色めき立つのも無理はありません」
私は肩をすくめ、笑った。
(皮肉なものね。婚約破棄で“笑う悪役令嬢”と呼ばれた私が、今度は“再婚を狙う女”になるなんて)
けれど、心のどこかで――その噂を完全には否定できない自分がいた。
アルノーの真摯な眼差しを思い出すたびに、胸の奥がほんのりと熱を帯びるのだ。
◇
「セシリア、最近楽しそうだな」
そう声をかけられたのは、まさかの王宮だった。
ある舞踏会に招待され、しぶしぶ出席した私の前に、王太子リオネル殿下が現れたのだ。
――そして、彼の隣には当然のようにリリア嬢がいた。
相変わらず小鳥のようにか弱げな笑みを浮かべ、殿下の腕に寄り添っている。
「……殿下。私と会話をなさる必要はございませんでしょう」
「そうもいかない。お前の噂が、あまりに広まっているからな」
殿下の目が細められる。
その奥には、あの時の断罪の場では見せなかった苛立ちがあった。
「アルノー侯爵令息と親しくしているそうだな」
「お噂は自由ですわ。事実を確かめるのは、ご自身でどうぞ」
私が涼しく返すと、リリア嬢が慌てて口を挟んだ。
「セシリア様……っ。そんなふうに殿下にお答えしては……。どうか、殿下を挑発しないでくださいませ」
挑発? 私は笑いそうになった。
あの日、殿下が一方的に私を断罪した時――その彼が、今や私の噂ひとつで落ち着きを失っている。
「挑発だなんて。私はただ、自分の時間を楽しんでいるだけです。殿下とリリア様がそうしているように」
殿下の顔がかすかに歪む。
それを見て、私は確信した。
(……あら、これは嫉妬かしら?)
リリア嬢を選んだはずの王太子が、今さら私の笑顔を気にしている。
なんと身勝手なことだろう。
「セシリア。忘れるな。お前はかつて、王太子妃となるはずの身だった。軽率な振る舞いは許されん」
「まあ。殿下に婚約を破棄された女に、まだそんな責任があるとお考え?」
会場のざわめきが大きくなる。
人々は、かつての「断罪の再演」を期待して耳をそばだてている。
――けれど今度は、私がうつむく番ではなかった。
「ご心配なく。私は私の道を歩きますわ。殿下がどなたをお選びになろうと」
そして、横からすっと手が差し出された。
アルノーの手だった。
「失礼。セシリア様をお借りしてもよろしいですかな、殿下?」
王太子の表情が凍りついた。
私は微笑み、アルノーの手を取った。
「ええ、ぜひ。……殿下に見せる涙は残っていませんもの」
その瞬間、私の背後で人々の囁きが渦を巻いた。
舞踏会の主役は、王太子でもリリアでもなく――「笑う悪役令嬢」と、彼女の隣に立つ侯爵令息となったのだ。
◇
舞踏会の一幕は、翌日には王都中の話題となっていた。
「王太子殿下が声を荒げたのをご覧になった?」
「ええ、それをさらりと受け流して、侯爵令息の手を取ったあの姿……!」
「“笑う悪役令嬢”どころか、もはや“微笑みの淑女”ですわね」
私が歩くたび、耳に入るのはそんな囁きだった。
皮肉なものだ。
ほんの少し前までは断罪された哀れな令嬢として笑いものにされていたのに。
(でも……悪くない気分ね)
もちろん、すべてが歓迎の声ではない。
「王太子を挑発するなんて愚かだ」と陰口を叩く者もいる。
だが、私をあからさまに侮辱する声は、もうほとんど聞こえなくなっていた。
――そして、その変化をもっとも敏感に察したのは、リリア嬢だった。
「セシリア様……皆さま、あなたを褒めてばかりです。わたくしは……っ、殿下の婚約者なのに……」
ある茶会で、彼女は思わず泣きそうな声を漏らした。
隣にいたご婦人方は顔を見合わせ、困ったように視線を逸らす。
その瞬間、私には理解できた。
(ああ、この子は――光を独り占めしていたはずなのに、初めて影の冷たさを知ったのね)
かつて私が味わった孤独を、今度はリリアが味わい始めているのだ。
「リリア様」
私は彼女に歩み寄り、穏やかに声をかけた。
「ご安心なさい。殿下の隣に立つのは、あなたです。 わたくしはただ……自身の道を歩いているだけ」
彼女の瞳が大きく揺れる。
それは嫉妬か、不安か――本人にも分からないのだろう。
一方、アルノーはと言えば、そんな騒ぎをよそに私の隣に自然に立ち、茶を注ぎながらこう囁いた。
「人の評価など、風のようなものです。追いかけても捕まえられないし、背を向けても勝手についてくる」
「……貴方は本当に、変わっているわ」
「ええ。だからこそ、あなたと話が合うのです」
紅茶の香りに包まれながら、私は思った。
――社交界の風がどう吹こうと、もはや恐れる必要はない。
私の笑顔は、もはや「悪役令嬢の仮面」ではなく、心からのものになりつつあるのだから。
◇
王都に新しい噂が広まったのは、舞踏会から十日後のことだった。
「セシリア嬢が侯爵家に正式に求婚されるらしい」
「いや、まだ話は出ていない。ただ……王宮がついに動いたそうだ」
屋敷の門番までもがざわついていたから、事態の大きさはすぐに知れた。
そして私は、王家からの正式な召喚状を受け取ったのだ。
――内容は簡潔だった。
“セシリア・ド・ラヴェル嬢、王城に出頭せよ”
(またあの場所に呼ばれるなんて……)
一度は断罪され、涙ではなく笑いを選んだあの場へ。
今度は何を言われるのだろう。
当日、王城の広間に通されると、すでに王太子とリリア嬢が並んでいた。
その隣には、初老の国王と冷ややかな王妃の姿。
さらにもう一人――私を支えるように、アルノー侯爵令息が立っていた。
「セシリア・ド・ラヴェル」
王の声が響く。
「お前が王都で大きな噂の渦を巻き起こしていること、我らも耳にしておる」
「恐れ入ります。ですが、わたくしはただ……己の道を歩んでいるだけにございます」
「道を歩むのは結構。しかし、その姿が王家の威信を損なうとなれば、看過できぬ」
リリア嬢がすかさず声を上げた。
「そうです陛下! セシリア様はわたくしと殿下のご婚約を陰から嘲笑い、社交界を惑わせておられます!」
(嘲笑っているのは、どちらかしらね)
私は口をつぐみ、静かに視線を落とした。
その代わりに、アルノーが一歩前に出る。
「陛下。失礼ながら、セシリア嬢は断罪の場においても毅然とし、今も自らの誇りを守っておられる。
彼女の存在が人々に光を与えているのは、陛下もお認めになるはず」
王妃がわずかに眉をひそめ、国王は深くため息をつく。広間の空気は張り詰め、誰もが次の言葉を待っていた。
――その時。
王太子が、耐えきれぬように声を荒げた。
「セシリア! 貴様はなぜ、いつも笑っていられるのだ!」
その叫びは、嫉妬と焦燥に満ちていた。
私は思わず、唇の端を上げてしまった。
「殿下……。お忘れですの? あの日、私は涙より先に笑いがこみあげた女ですわ」
広間にざわめきが走る。
そして私は気づいた――これこそが私の答えなのだと。
◇
「……笑う、だと?」
王太子リオネル殿下の顔は紅潮し、拳は震えていた。
「婚約を破棄されたお前が、どうして笑っていられる! 誇りも未来も失ったはずだろう!」
広間に殿下の叫びが響く。
リリア嬢は青ざめ、国王と王妃は沈黙し、廷臣たちは固唾を呑んで見守っていた。
私は、静かに息を吸った。
――あの日、涙を選ばず笑いを選んだ自分を裏切らぬために。
「殿下。わたくしは、選ばれませんでした」
その一言で、広間がざわめく。
「けれど……選ばれなかったからといって、わたくしの価値が消えるわけではありません。
むしろ、選ばれなかったからこそ――わたくしは、自分自身を選ぶ道を得たのです」
王太子の目が大きく見開かれる。
リリア嬢は唇を震わせ、国王と王妃は互いに視線を交わした。
「セシリア嬢」
アルノーが一歩進み出て、私の隣に立つ。
「だからこそ、私はあなたを敬愛する。あなたは誰にも縛られず、自分の足で歩んでいる。その姿を、私は誇りに思う」
廷臣たちの間から、低いどよめきが起こった。
「なるほど……」
「悪役令嬢などではなく、まさしく――」
振り返れば、リオネル殿下の顔は苦渋に歪み、リリア嬢の瞳には不安の影が揺れている。
そして、私の隣には確かな温もり――アルノーが立っていた。
(選ばれなかった。だけど、それは終わりじゃない)
むしろ始まりだ。
涙より先に笑いを選んだ、あの日から続く道の。
◇
大舞踏会の夜。
煌めくシャンデリアの下で、私の周囲には絶え間ない笑い声と祝福の言葉が集まっていた。
誰もが「断罪されても笑った令嬢」を語り、私の名を誇らしげに口にする。
――そして、その反対側。
リオネル殿下とリリア嬢は、広間の隅に追いやられていた。
声をかける者はおらず、近づこうとした侍女までもが途中で踵を返す。
「……どうしてだ、これは夢か……? 私は王太子だぞ!」
殿下は必死に周囲を見回すが、誰一人目を合わせない。
リリア嬢が縋るように声を上げる。
「殿下……やっぱり、セシリア様が……」
その名を口にした途端、周囲の視線がさらに冷たく突き刺さる。
王太子とその妃の座が「笑われる存在」となった瞬間だった。
「殿下」
一人の侯爵が歩み寄り、淡々と告げる。
「政略において最も重んじられるのは、人心を得ること。……それを失った王太子に、未来はありません」
「なっ……!」
その言葉が広間に響き渡った時、殿下の顔は真っ青になり、リリア嬢は崩れ落ちるように涙をこぼした。
――社交界の寵児になるはずだった二人は、その場で完全に孤立したのだ。
アルノーがそっと手を差し伸べてきた。
「行きましょう、セシリア。あなたはもう、ここにとどまる必要はない」
私はその手を取って、広間を後にした。
背後に殿下たちの惨めな姿があることを知りながら
私は振り返ることはなかった。
外に出ると、夜空に白い月が輝いていた。
ひんやりとした風が頬を撫で、胸いっぱいに新しい空気を吸い込む。
「……やっと、自由になれましたわね」
そう呟いた私の笑みは、かつての“悪役令嬢”という烙印を遠くに置き去りにしていた。
月明かりが花々を照らす中、セシリアの頬を一筋の雫が伝った。
自分でも驚くほど、あまりにも自然に。
その涙を、アルノーがそっと指先で受け止める。
彼はただ、優しく微笑んでいた。
セシリアは小さく息をつき、握られた手に力を込める。
言葉はいらなかった。
夜の静けさの中で、二人の影だけが寄り添い重なっていく。
未来はまだ見えない。
けれど、涙より先に笑いを選んだあの日の私なら――きっと、この先も笑って歩けるだろう。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
泣かないはずの令嬢が最後に見せた一粒の涙――そこから、読んでくださった方が何か感じ取っていただけたなら嬉しいです。
悪役令嬢ものや婚約破棄ものには「スカッとする」展開を求められることが多いですが、最後は少しだけ柔らかく、ほっとするような余韻を残すのも良いかなと。
読後に「ざまぁだったな」と同時に「ちょっと温かい気持ちになったな」と思っていただければ幸いです。
それでは、また次のお話でお会いできますように。
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一ノ瀬和葉