第二十六話 朝の些事
明朝、リュウは途轍もない息苦しさに目を覚ました。目が覚めたリュウが身体を起こそうにも、どうにも身体が動かない。
学生三人の部屋はチンの部屋とは違って、居間から直通出来る扉は無い。玄関から居間に入り、向かって正面、更に建物の奥側に続く扉を出ると廊下に至る。
建物の主たるその廊下沿いに扉が左右に三つずつ有り、そこがそれぞれの部屋に至る入り口になっていた。
廊下の一番奥には広い露台へ出るための磨りガラスの扉が有ってその扉には貼り紙が貼ってあって、洗濯は一日二回、と白い紙に赤文字で書かれている。洗濯機と洗面台がその露台に設置されているようであった。
リュウとタツが部屋に行く際には廊下に灯りは無かったが、その磨りガラスの扉から透かして見える月明かりがやけに明るく、暗い廊下を歩くのに困る事は無かった。リュウとタツの部屋は廊下の一番奥に向かい合わせに指定されていた。扉には丁寧にも既に表札の様に名札が掲げられていた。
居間から廊下に出ると六つある内の一番手前の右の扉にリオの名前が有ったので、リュウは自分の名前を扉に探しながら歩いて、一番奥右側の扉に行き着いた。その向かいの部屋の扉にはタツの名前が提げられていた。そうして、リュウはタツに短く「お休み」と言って自室に入った。タツも「お休み」と返事をして自室に入っていった。リュウに返事を返したタツのその瞳はとても眠たそうに虚ろであった。リュウが自室に入ると、既にリュウの荷物は運び込まれていたが、明日で良いか……、と考えたリュウは荷物を壁に寄せるだけで荷解きはしなかった。
そして部屋の隅の壁沿いに置いてある布団を、空いている場所に無造作に敷くとリュウは着替えもせずに布団に潜り込んで、そのまま眠りについたのであった。
布団に入って目を閉じ、溜息をつくように深く息を吐いてリュウはふと思った。
……なんで布団? この国はベッドじゃないのか? 出身国を配慮されているのか? そういえば置いてある机も座卓だったな……。色々考えているうちにリュウはいつの間にか深い眠りに入っていた。
明朝、窓から部屋に優しく溢れるように差し込む朝の木漏れ日がリュウの目を覚まさせたが、目が覚めてからと言うものも何故か身体が動かないリュウは茫然と首だけを窓に向けて見ていた。リュウは何かがのしかかっている様な重みを身体に感じていたが、寝起きの惚けた思考ではあまり気にならなかったようだ。
不意に風に揺れた木々の隙間から朝日が強く目に刺さってリュウは、はっとして身体に伸し掛かる重さの正体を突き止めようと、唯一動く両腕を使って掛け布団を勢い良く放り投げた。すると、そこに現れたのはリュウの布団の中に潜り込み、リュウの脇腹に抱き着く様な姿勢で眠っているタツの姿であった。
リュウは戸惑った。自分の腹の上にのしかかるタツの体の温かな重みを感じながら、どうしたものか……どう起こしたらいいのか。と布団に寝たまま朝日をぼうっと眺めるよう見ながら考えていた。静かな朝であった。殆ど無音の部屋には窓の向こうから柔らかな朝日が差し込みぼんやりと明るい。部屋の扉の向こうの居間の方では穏やかな足音が鳴っていた。リオのものであろう。そして、胸の上のタツからは呑気な寝息が耳に小さく聞こえている。
穏やかな朝だなあ。リュウはそう思って、タツの安らかな寝顔と寝息につられて瞼をそっと閉じた。もう一度眠っても良いんじゃないか? と何ともまあ自分を甘やかす様な考えの元、リュウはもう一眠りしようとしたが、不意に今までたおやかに響いていた居間の足音が何か強い意志を持ってリュウの部屋に近づいて来ている。
「タツ? リュウは起きた?」と、言う声と共に勢い良くリュウの部屋の扉が開いて、制服を綺麗に着こなしたリオが部屋に入って来た。
部屋に入ったリオの目に飛び込んできたのは、仰向けに寝たリュウの上でぐっすりと眠りこけた寝息をかくタツの姿と、困ったようなどこかバツの悪い表情でこちらを見ているリュウの姿であった。朝日照らされた布団で横たわる二人の姿を見たリオは呆れた様に深くため息をついた。
不意にタツの身体がぴくりと動いて、リュウの上に跨がる様に半身を起こした。
「あら、起きたのリュウ?」と、タツは少し寝ぼけたような虚ろな瞳でそう言うとリオが
「起きたの? じゃないよタツ。何でリュウを起こしに行ったはずの君がぐっすりと眠りこけているのさ」と、リオが呆れたように言った。
「そうだ! なんでお前が俺の布団の中で寝ているんだ?!」と、抗議する様にリュウが少し声を荒げた。
「朝から人の股の下でうるさいわね」と、タツが文句を言うと
「うるさいじゃない、お前が俺の上で寝ていた理由を聞いているんだ」と、リュウが静かな口調でタツに聞いた。するとタツは何故か頬を赤らめてもじもじとした仕草で話し始めた
「布団っていうの? ここに寝転がった時の低い視点、地べたに寝ている感覚……最高に癒されるわねえ……そこに潜り込んだら温かいの何のって、やっぱり人肌の温もりは良いわね、もう一瞬よ、一瞬。気付いた時には眠りこけていたわあ、駄目だとは思ったのよ? リュウは一応男の子だし、学校にも行かなきゃいけないし……」と、悪さをして親に叱られた子供の様な頼りない口調で、タツが話すと
「そうだよ、学校! 遅刻するよ!」と、リオが焦った様子で急かすように乱暴に二人の下に敷かれた敷布団を引っ剥がす様に取り上げたのだった。二人は敷布団から弾き出せれて床に転がり落ちた。
「乱暴ねえ」と、タツが床にぺたりと座りながら呑気な事を言った。
「良いから! のんびりしない! 居間に朝ご飯の握り飯があるから食べてきな!」と、リオがタツを無理やり立たせて部屋から追い出す様に背中を押して扉の外へ追いやった。タツは不服そうな表情で口を尖らせながらもリオの勢いに押されてされるがままにリュウの部屋の外に出て、そのまま居間の方へと歩いて行った。
「リュウもだよ! いつまで寝転がっているんだ!」と、タツとリオのやりとりを床に涅槃像の様な姿勢で肘をついて寝転がってぼうっと見ていたリュウにリオが若干声を荒げて言った。リオに怒鳴られたリュウはびくっと身体を震わせて飛び起きた。
「まったくもうっ」と、リオは呆れた様子で呟いて、敷布団と掛け布団を丁寧に三つ折に畳んで、部屋の隅に置いた。リュウはその間も床にあぐらをかいて黙ってリオの動きを目で追っていた。
「リュウ、顔だけでも洗ってきなよ、洗面台は外の露台にあるから」と、リオが穏やかな声色でリュウに言った。打って変わった静かなリオの声をリュウはなぜだか恐ろしく感じて
「お、おう……布団畳んでくれてありがとな」と、短くバツの悪い返事をして部屋を出た。
「外の水、冷たいな……」と、誰に向けてでも無く呟きながらリュウが居間に入ると
「僕は先に行くからね、二人とも遅れたらだめだよ」と言って、もう既に身仕度を整え終えた様子の右手に鞄を持ったリオがそう言って小屋を出ていった。
「顔、もう少しちゃんと拭いたらどうなの?」と、昨晩と同じ椅子に座っているタツがのんびりとした口調で言った。リュウの顔は水滴が滴るほどに濡れていて
「拭くものが無かったんだよ、ちょっと部屋に行って取ってくる」と言って、濡れた手を制服のズボンで拭いながらもう一度部屋に戻った。自室に戻ったリュウは直ぐに手拭いを首に掛けて鞄を手に持った状態で居間に戻って来た。リュウは部屋で顔を拭ったのであろう、顔は既に乾いていて、前髪だけが湿って少し跳ねていた。
「前髪、跳ねているよ」と、タツが指摘するとリュウは粗雑に前髪を手櫛でとかして、黙ってタツの方を見た。
「うん。大丈夫」と、言ってタツは立ち上がって小屋を出ようと言う雰囲気を醸していた。
「俺の朝飯は?」と、リュウがタツに聞くと
「私がとっくに食べたわよ、呑気に食べている暇なんてないでしょう?」と、タツが目の前の二つ並んだ空の皿を視線で示す様に見ながら言った。
「ほら、遅刻しちゃうから早く出るわよ」と、タツはリュウを急かす様に言った。
「俺の朝飯……ひでえ……」と、不服そうに呟いたリュウはタツに言われるがままに小屋を出た。
小屋を出た二人は校舎までの道を急ぐのであった。




