第二十話 ヒヨの為に
足取りが重たそうなオアシは、一歩、また一歩、リオとヒヨの二人の方へ、極めてゆったりとした歩調で歩みを進めている。オアシの挙動に拍を合わせた様に、あの恐ろしい冷たく重い風がリオ達へほんのりと吹き付ける。
おや? とヒヨは疑念を抱いた。
何故だか分からないのだが、オアシの纏う雰囲気が下の神社で相対した時程の息苦しさがなく、ヒヨの体も心も、思ったほどに萎縮していない。つい先ほどまで感じていた。
息も出来ない程の恐怖感は何だったのだろう。と、ヒヨの心に少しのゆとりが生まれていた。
「だから経験不足だと言っているだろう」
不意にヒヨの耳に、あの男の恐ろしい声が聞こえた気がした。実際には、オアシは声を発していない。ヒヨの勘が相対しているオアシの危険性を感じ取って、自身の耳に幻聴を聞かせたのだった。
やはりヒヨはオアシの言うように魔術師の逸材であった。
油断しては駄目だ……、油断しては駄目だ。ヒヨは自分に言い聞かせるように何度も心の中でそう念じた。
オアシが不意に不敵ににやりと笑った。
「良いぞ小娘!」と、オアシが大きな声で言葉を発した。
オアシは今日の今日で些細な失敗から学び大きな成長を見せるヒヨの姿を見て歓喜したのだ。
事実、ヒヨが感じ取ったオアシの脅威感の無さはオアシがあえて作り出していた雰囲気であった。それを前回の対峙から学び、油断大敵であると、帯を締め直したヒヨの姿を見て、オアシは嬉しかったのであろう。
リオは二人の殆ど言葉の無いやりとりを黙って見ていたが、オアシの手に握られたある物を見て堪らず声を発した。
「その弓」と、呟くように言ったリオの言葉にオアシが言葉を返した。
「やっぱりこの弓はお前の物なんだな、この弓から微かに天の力を感じるのだ……、やはりお前は天に通じる術式を持っている、そうであれば、私はお前を我が国に連れ帰らねばならない」と、恐ろしく淡々とした声で言った。
オアシから吹き出る恐ろしい風が、段々と重たく、冷たくなっている様にヒヨとリオに感じられた様で、ヒヨは戦慄した様な緩慢でぎこち無い挙動で杖を取り出して、オアシにその先端を向けたのであった。
少しの間、睨み合う三者であったが
「提案がある」と、オアシが戦う気が無いとでも言うように弓を地面に置いて、そして両手を広げて腕を上に挙げた。
「……何?」とヒヨが聞いた。
「小娘、小僧、お前達を殺すのは止めよう、お前達二人を我が国に客人として向かい入れよう、有望な魔術師は出来るだけ殺さずに囲っときたいのが本音なんだよ」と言うオアシの言葉にヒヨがすかさず
「冗談でしょ? 殺さない……、なんて言葉はね、そんなに殺気だった人間が言う言葉じゃないわ」と、ヒヨはオアシの言葉を否定した。
「……、そうだな」と、オアシが、少しの間黙り込んだ後に呟いたかと思うと、次の瞬間にはヒヨの首はオアシの手によって締め上げられていた。
オアシは一瞬の内にヒヨとの間合いを詰め、その手中にヒヨのか弱い首筋を鷲掴みにしたのだ。
ヒヨにはオアシの動作を視界に捉える事が出来なかった。ヒヨは首を掴まれ締め上げられるまで、自分に起きた事を理解できなかった。
「……っ!」声を出せず、苦しさにヒヨは必死にジタバタと手足を動かして抵抗したが、子供の手足の長さでは大の男には大した攻撃にはならなかった。
「動くな小僧!」ヒヨを助けるために、オアシの方へ駆け出そうと脛に力を入れて地を蹴ろうと踏ん張ったリオの些細な挙動にオアシは気付いていて、怒鳴るように叫んだ。
「お前達は生きたまま連れていく、無事にとはいかないだろうが、お前たちは殺さない、だが……、この村の人間、特にお前たちの家族は全員殺す」と、酷く冷たい瞳でオアシが言うと、ヒヨの抵抗が一層に強くなった。
抵抗する様に言葉にならない言葉で唸りながらヒヨは何とか震える手で右手に握っていた杖を強く握り直してオアシの冷たい瞳の前に差し向けた。次の瞬間、オアシの顔の前で強烈に炎が弾けた。ヒヨが魔術で爆発を起こしたのだ。
爆発の煙の中からヒヨが放り出される様に飛び出てきた。それを視界に捉えた瞬間にリオは走った。そしてリオは背中から倒れる様に煙の中から飛び出てきたヒヨの体を抱きとめて、そのまま爆発の勢いを利用してオアシから離れるように後退した。
「大丈夫?」と、リオが腕の中に抱き止めたヒヨに心配の声をかけた。
「大丈夫じゃないわよ」と、ヒヨが少しかすれた声で言った。
「ふふふっ……、ははっ……、あーはっはっはっ!」リオとヒヨは突然煙の中から聞こえてきた高笑いを気味悪がって爆発の煙の中を警戒心を大いに高めて凝視した。
オアシが腕を横に振るうと煙が一瞬にして晴れた。そしてその中から出てきたオアシの顔を見た瞬間にヒヨとリオは驚愕すると同時にこの男に抱く何度目なのかもわからない恐怖心を心底に感じるのであった。
ヒヨの魔術を諸に受けたオアシの顔面は酷く焼け爛れていた。とりわけ眼球の損傷は顕著であり、眼窩が黒く焦げ付いていて焼け消えてしまったのか眼球の存在が見受けられないのである。その様な大きな損傷を受けたオアシが何故だか機嫌の良い高笑いをするものだから、ヒヨとリオは得体のしれない畏怖を抱いたのである。
顔面の損傷が激しいオアシの感情を量れる物は口元しか無い状況であった。そんなオアシが口角を上げて微笑んだ。その気味の悪い姿に慄いて身構えた二人だったが次の瞬間に更に理解の及ばない現象を目にするのであった。
オアシが自分の顔を右手の掌で二人から隠すように覆った。そしてその手を再び自身の顔から外した瞬間に、オアシの顔の火傷は全て無かったかの様に元通りに回復して、傷一つ無い綺麗な顔になっていた。
二人の目にはまるで、掌で顔を撫でただけで全て元通りに回復した様に見えた。
「うわぁぁっぁぁ!」ヒヨはとてつもない恐怖に駆られて、火球を連続でオアシの方へ放った。その全てをオアシは無抵抗に受けたが、煙の中から出てくるオアシは服こそは、焼け縮れたり焦げたりと言った損傷を見せているが、自身の身は無傷なのである。
不気味な風がまた一層と強くなった瞬間に、ヒヨはオアシに馬乗りに組み倒された。オアシの高速移動に一切の反応を許されなかったのだ。
オアシは股の下に組み倒したヒヨを見下ろして不気味に微笑むと
「お前の魔術に敬意を払って抵抗せずに火球を受けてやると言っただろう?」と、朗らかに言った。ヒヨの瞳は抵抗の色を見せながらもその奥底には到底拭えようもない絶望が見えていた。
「どうした、もう抵抗しないのか?」馬乗りに組み倒したヒヨを挑発する様にオアシが言った。
言葉を返す事も出来ないヒヨと、少し離れた所で動けずにいるリオに言い聞かせる様にオアシは話し続けた。
「ヒスイの奴から固有魔術の事は聞いているのだろう? 回復の魔術、それが俺の固有魔術さ。地味だろう? 治せる物も生き物の体の損傷のみで、服や建物の様な生命では無い構造物は直せない……、だから、何でもかんでも直してしまう奇跡の様な魔法とも違う、とても地味で役に立たない魔術さ、でも俺はこの魔術をとても気に入っている。使い様によっては相手の心を完全に挫く事が出来るからね」と言ったオアシはにやりと不適に笑って、振り上げた拳に魔力を力いっぱい込めて、ヒヨの頬に向かって振り下ろした。
びちゃっ、びちゃっ、びちゃっ、びちゃっ。
湿った血なまぐさい音を立てて何度も殴りつけられたヒヨの顔面は原形も無いほどに潰されていた。顎は外れ、眼球は眼窩から張り出すように飛び出ていた。鼻は踏まれた小枝の様に折られていた。
原型を留めていないヒヨの表情は、その壊れた構造の中に大きな絶望感と苦痛を浮かべていた。
オアシは微笑を浮かべながらヒヨの顔に手をかざして回復の魔術を行使した。するとヒヨの顔はすっかり元通り傷一つなく復元してしまった。ヒヨの血に滲んだ視界が晴れた時に、ヒヨの視界に映ったのは、相変わらず不敵な笑みを浮かべているオアシが自分を馬乗りに上から見下ろしている姿だった。
ヒヨはすっかりと回復してしまった現象に信じられないと言った表情をしていた。
そして、この後に起こるであろう自らの恐ろしい行く末を悟ったヒヨは表情に絶望を満たして首を激しく横に振って泣きじゃくっていた。それは普段の大人びたヒヨには無い年相応の幼い子供の癇癪であった。
そんなヒヨの姿を見かねたリオがヒヨを助けようと動き出そうとした。そんなリオにオアシが極めて冷酷な口調で言った。
「小僧……、俺たち魔術師たちの戦いに無力なただの小僧のお前がが水を差すんじゃない、無力なお前は小娘が俺に痛めつけられる姿を黙って見ていればいい」
オアシの冷酷で残忍な態度に恐れ慄いたリオは、悔しさや情けなさに奥歯を噛み締めながら一歩も動く事が出来ずに立ち尽くした。
自分が動いて突撃したところで、オアシに対して何の抵抗にもならない。そんな事はリオには分かってい
る。しかし、目の前でヒヨが身体を痛めつけられ、心をも傷つけられている姿を目の当たりにすると、いてもたってもいられない直ぐにでもオアシに飛び掛ってヒヨから引き剥がして、ヒヨを助け出したいという衝動に駆られる。しかし、オアシの纏う冷酷な雰囲気や空気感がリオに行動を許さない。
「小娘、たった一回壊されたくらいでもう音を上げるのか?」と、落胆した様な表情をオアシが見せた。ヒヨは涙で目尻を赤く腫らして、絶望に瞳を泳がせていた。
「期待外れだ……」と、再び魔力を込めた拳を振り上げる素振りをオアシが見せた時に、オアシの様子がおかしくなっている事にリオが気付いた。
ヒヨはどうにかオアシの拳から逃れようとオアシから顔を背けて首を必死に捩っていてオアシの異常に気付いていない。
「まさか……」とオアシが動かない身体を必死に捩ってこの広場に通じる山道の方を見た。そこには衣服はぼろぼろにはだけ、全身擦り傷や打撲で傷だらけのヒスイが必死の形相で立っていた。
オアシの身体はヒスイの停止の魔術によって止められていたのだ。
「ヒヨ! 逃げろ!」咄嗟に叫ぶリオ。
するとヒヨもオアシの異常に気付いた様で、瞳に生気が戻り動けないオアシの股下から素早く脱出してリオのそばへ駆け寄った。
「リオ! 社へ走れ! 渡した木箱の中身で君の魔術を行使するんだ!」とヒスイが叫ぶと、リオはわけもわからず言われるがままに社へ走った。
「ヒスイ……、貴様っ……!」オアシが苦虫を噛み潰したような顔でヒスイを詰る様に言った。
ヒスイは悔しそうな表情でリオが社の中へ入っていくのを見ていた。
リオは社の中へ入ると、入り口の直ぐ側に置いていたヒスイの木箱を持ち上げて良く観察した。
その木箱の表面には、観音開きに開く事ができる小さな扉が設えられていて、リオがその小さな扉を開けてみると、中には綺麗な紫色の布に包まれた丸い塊が入っていた。
リオは直感的にこれは色石、玉なのだと理解した。そして同時に部屋の奥の祭壇の存在感が先程よりもずっと大きな物になっていると感じた。
リオは誰に何を説明される事も無く、この布に包まれた玉であろう大きな塊を祭壇の前の台座に置いて、布を広げて、その中身を台座の上に露出させた。
布の中身はやはり石の塊であったがリオが集めていた色石やヒスイが使っていた玉とは風体が少し違っていた。その石の表面はざらついていて、所々に大きな塊の様な粒が張り出していて酷く凸凹している。色は濃い緑色で染みのような黒ずみが所々に見受けられる。世辞にも綺麗だと言える容貌ではなかった。
リオは、こんなにも丁寧に布に包まれていて、綺麗な木箱に収められているのだから、よっぽど美しい玉が出てくる物だと仄かに期待していたものだから、些か拍子が抜ける心持ちになった。
リオは、その黒緑色の岩の塊を台座に広げたまま、昨日と同じように手を合わせて願った。
――ヒヨを助けたいんだ。僕にあの男と戦える力を下さい。
リオは心の底から願ったが、何も起こらない。しかし、リオは諦めずに、何度も何度も心中で祈り続けた。
この短い時間に何度祈っただろうか、リオの願いは虚しく虚空に霧散したかと思われた。
何度目かの祈りの時に、ふと、リオは願い事を小さく声に出した。
「ヒヨを、村の皆を、助けられる力を下さい」
――願い、聞き入れましょう。
またあの優しい声が聞こえた気がして、リオは伏せた顔を上げた。リオの目線の先の祭壇に立てかけてあった太陽の石板が眩く黄金色に輝き始めた。
光は燦々とした輝きを段々と強めて、ついには祭壇の輪郭を全て飲み込む程に光り輝いた。光に沈んだ社の中で、リオは光の中に飲み込まれた。
光は社の外にも漏れ出して、社の輪郭さえも外から見えなくなってしまい、それを見ていた馬乗りの体勢のまま地に膝を付いて動けないオアシの口元は歓喜に震え、暗い瞳は歓喜のあまりに涙を大水の様に溜めて燦々と輝いていた。




