第十五話 不穏な風
リオとヒヨはファリオの後ろの方に少し離れて帰路を歩いていた。
「ねえ、私納得いかないわ」と、歩きながら小声で言うヒヨ。
「納得いかないったってどうするの? 多分父さんは言っても聞かないよ、意外と頑固なんだ」
「……いい考えがあるの」と、言ってヒヨはにやりと不敵な笑みを浮かべた。
「どうするんだよ」と、リオが不思議そうに聞くと。
「まあ、見てて……」と、言ったきりヒヨは黙ってファリオの後ろに着いて歩いていた。やがて、村外れのリオの家に着いた。ヒヨの家はもっと村の中心地から離れた小高い丘の上に有った為、リオの家の方に先に到着した。
「じゃあリオ、父さんヒヨの家まで行って来るから……飯は先に食っていて良いと母さんに伝えてくれな」と、ファリオはリオに言ってヒヨと一緒にヒヨの家の方へ歩いて行った。もう既に陽はだいぶ陰り、空は夕焼け色と夕闇の紺色に半分ずつ混じり合っていた。周辺には喧騒から離れた心地の良い黄昏時の雰囲気が流れていた。
リオは家の前で家の中から聞こえる物音を聞きながら、ヒヨの伸びる影を目で追っていた。リオは無性にヒヨを追いかけていってその影を踏みたいと言う衝動に駆られたが、その青い衝動をぐっと堪えた。じいっとヒヨの後ろ姿を眺めていると、不意にヒヨが振り返り先程と同じ不敵な笑みを浮かべて小さく手を振ってきた。
「ヒヨ、何をするつもりなんだろう……」と、手を振り返してリオは一人苦笑を浮かべた。
リオは家の中に入って、台所で食事の支度をしている母親の姿を見た。玄関を入ってすぐ右手が少し広い土間になっている。竈では何かを煮炊きしていて鍋から蒸気が吹き出ていて、何かほっとする様な食欲を唆るにおいが空間に充満している。竈の横にある少し広い卓の上では母親が包丁を扱っていて、何かを切る湿り気のある気味の良い音を立てている。小気味の良い包丁がまな板を叩く音と竈で煮炊きをする時折吹きこぼしが蒸発する短い蒸気の音、その下で弾ける薪の火の音、心地の良い生活音が台所に響いていた。
「ただいま」リオが母親の背に声をかけた。
「おかえりぃ……あれ? お父さんは? 一緒じゃなかった?」と、母親は包丁を手に持ったまま振り向いてリオに応えた。
「ヒヨを家まで送っていった、先に食べてて良いってさ」と、リオが言うと
「そう。じゃあリオ、お父さんのお酒だけ板の間の棚から取って来といて」と、母親に言われたのでリオは言われた通り土間の端にほんの僅かな広さだけ高く板張りに備えられた板の間に靴を脱いで上がって、そこの棚に収められている酒瓶を一本手に取った。それは昨日の夕時にファリオが手に持っていた酒瓶と同じ物だった。
「居間に置いておけばいい?」と、リオが聞くと母親は何やら大きな野菜の根を切っていて、手が離せない様で見向きもずに短く返事をした。リオはその返事を聞いてそそくさと、酒瓶を居間に運んでまた土間に戻って来た。すると、母親の方から話し始めた。
「ねえリオ、フウが何か目を腫らして帰って来たんだけど何か知ってる? 学舎で何かあったの?」
「……知らない。……フウは何か言っているの?」と、リオは少し口籠る様な返事をした。
「いや、帰ってきて部屋に行ったっきり出てこないから……。それにリオがあげた弓も持っていなかったし……無くしたのかしら?」と、母親は心配そうに言った。
「さあ? 今日は学舎ではフウに一回も会ってないから……」と、リオは誤魔化した。
フウが自分で言わないんだったら僕が言う事じゃ無いよね。と、リオは弟の意思を尊重した。
「そう……」と、呟く母親にバツが悪い気持ちになったリオは
「ちょっと、外で父さんを待っているね」と、言って家を出るのであった。
リオは家の軒先で小さく響く煮炊きの音や金物が何かに当たる音、水を扱う音を聞きながら帰って来る人影を待っていた。頬を撫でる夜風が優しく気持ちが良いな、なんて思っていると、家に向かって歩いて来る人影があった。目を凝らしてよく見るとその人影はファリオの物では無く、なんとヒヨの物であった。リオは家の中の気配を気にしながら、足音を立てないように忍び足に近い足取りでヒヨの元へ駆け寄った。
「ヒヨ?」と、リオが名前を呼ぶと
「ええ、上手くいったわ」と、ヒヨがとても愛らしく得意気な顔をして見せた。
「何をしたんだ? 父さんは? まさか?」と、リオは少し気の引けた様な顔でヒヨを見た。
「何よ、その顔は。良からぬ事は何もしてないわよ?」
「父さんは一緒じゃないの?」
「ええ、眠ってもらったわ」と、得意気に不敵な笑みを見せるヒヨ
「良からぬ事してるじゃないか!」と、リオが声を荒げる
「ちょっと人聞きの悪い事言わないで! 別に殴ったりしたわけじゃないんだから! 私が腕力で大人にかなう訳ないでしょう?」
「じゃあ……どうやって?」
「魔術よ、魔術」と、またヒヨは得意気な顔を見せた。
「魔術?」
「ええ、簡単な魔術よ少し眠気を与える魔術。習ったばかりだからダメ元でやってみたけど上手くいったわ、よっぽど疲れているのねあなたのお父さん」と、ヒヨは少し呆れた様な口調で言った。
「それで今どこに?」
「家の者に運ばせて私の家の客間で眠ってもらっているわ、神社の帰りに起こしてちゃんと謝るわよ」と、ヒヨは申し訳無さそうな顔をした。
「やっぱり行くんだね」と、リオが若干引け目を感じる語気で言うと
「だって気になるじゃない、あなたのこの弓と玉と神社の祠と、あの二人の態度の変わり様よ、気になって気になって仕方が無いわ!」と、口調が荒ぶるヒヨ。
「……そうだね。……父さんが持ってた弓、持ってきたんだね」と、リオが言った。
「ええ、この弓も有った方が何かわかる事も多いかもしれないでしょう? あなたが持ってなさいよ、これはフウの物なんだから」と、少し申し訳無さそうにヒヨが言った。まだフウを泣かせた事を気に病んでいるんだろうなとリオは少し同情した。
「僕、黙って家出てきちゃったし早く行こうよ」と言ったリオの言葉にヒヨも頷いて、二人は神社に向かって走り出した。
神社に辿り着いた二人を包んだのは異様な冷たい空気だった。何か背筋を湿った布で撫でられている様な気持ち悪さを抱えつつも二人は口に出さずに中にある祠の方へ向かって歩いた。
祠に近づくにつれて段々と空気がさらに冷たく重くなる事を二人は感じていた。嫌な予感……ファリオとヒスイのこの言葉が心の枷になる様に歩みを鈍らせる感覚がリオにあった。リオがヒヨの方を見るとヒヨも同じ感覚に気取られているのか、その玉の様に透き通る頬の上を汗が二筋、三筋と伝っているのが見えた。
とうとう、二人は立ち止まってしまって目配せをした。進むのか否かの迷いが生まれた。二人は恐怖していた。何か得体の知れない物がこの先に居る。そんな気配を二人は確かに感じていたのだ。
二人が歩み倦ねていると、祠の方で何か言い争う声が聞こえて来ていた。その声の一つは先程までに聞き覚えのある声であったから二人は意を決して、祠の方へ息を殺して忍び足で近づく事にした。
二人が祠の見える位置まで来ると、そこに二人の人影があった。二人は直感的にそこに居る人物にこちらの存在を気付かれては駄目だと悟った。ぎりぎり二人の様子が確認出来る距離の神社の茂みの中にその小さな身を隠した。
祠の前に立つ一人はヒスイの物である事が分かったが、もう一人は二人の見知らぬ人物であった。
「ヒスイさんが話しているのは誰?」と、ヒヨが言うと
「見たことが無い人だ、服装も見たことが無い」と、リオが言った。
ヒスイの目の前に立つ男は袴を履いていて、明らかにこの村の人間では無かった。右手には脇差くらいの長さの刀が握られていて、その切っ先をヒスイの方へ向けていた。腰はしっかりと落ちて肩の下がった淀みのない自然体の様な構えであった。




