第十話 ある村の兄弟
「……私の名前を呼んで」と、言った彼女の名前を今では全く思い出せない。彼女の名前、それは僕にとってとても大切な物の筈なのに僕はすっかり忘れてしまった。今でも文通は続いているが、今更名前なんて、本人に聞けるわけが無い。要らない顰蹙を買うに決まっている。もう何年も彼女の顔を見ていない。あの別れ際に、困った時はいつでも私の名前を呼んでくれと、彼女は僕にそう言った。そうすれば何時でも助けに行くからと。目下その彼女の名前を思い出せないのが僕の近頃の小さな悩みの種だ。
僕達の文通を地元の人たちはとても気味悪がっていた。それも原因は明白で、その文通は魔術を使っている物であるからであった。魔術が広く世の中に浸透しているとは言え、未だ僕の地元では魔術を使えるのは僕の他には幼馴染のヒヨと、ヒヨの家の人達だけだった。ヒヨの家系は所謂系統魔術を専門に研究していて、ヒヨ本人は特に火の扱いには凄く長けていた。火を自由に扱えるヒヨは村の皆の実用的な役に立っていた。彼女は村の祭りの篝火を灯す役割を幼くして与えられて、村にとってはかけがえのない人物になっていた。精霊を祀っている僕達の村にとって彼女は火の精霊に愛された少女として村中の人の羨望を幼い身に集めていた。
彼女にひきかえ、僕の魔術はと言うと魔術の分類上は特殊魔術と言うらしく、響きこそ少し特別で凄い魔術の様に思えるが、事実はそんな物では無く、僕の魔術は伝統的な系統魔術の環からはみ出した魔術だった。特殊魔術とは火水木金土のどの系統にも属さない魔術の総称である。勿論その中には人智を超えた奇跡の様な魔術も存在するらしいが、まあ僕の魔術で何が出来るのかと言うと、何か僕の持ち物と引き換えにこの世界の何処かからお返しを貰うと言う、とてもつまらない魔術であった。とてもつまらない物ではあるけれども、僕にとってこの魔術はとても大切な物であった。
僕が生まれて初めて魔術を行使したのは六歳の時だった。僕の村には家族の休日と呼ばれる祝日があって、その日は皆が各々の家で家族水入らずで過ごすのだ。その日は大人は誰も働かず、勿論子供も学舎が休みになる。大抵の子供がその日には両親から細やかな贈り物を貰って、次の日に学舎で得意顔で自慢し合っていた。僕の家は貧しい訳では無かったけれど裕福でもなかった。いや、少し貧しい家だったのだろう、家族の休日は両親と一つ下の弟と家で程々の団欒を分かち合っていたが、両親からの特別な贈り物は無かった。僕はそれでも良かったのだけれど、ある年、弟が癇癪を起こした。その日の朝、両親と朝の挨拶を交わした時、僕は何となく今年もまあ、贈り物は無いんだろうと、子どもながらに察してはいたが、朝早くから多くの食材が台所に並んでいる光景に少し胸が高鳴るような覚えが有った。今日は御馳走でお父さんもお母さんも終日、家に寛ぐのだと思うと嬉しく思った。でもその年から学舎に入った弟はそうでは無かったのだ。学舎で何か学友たちから心無い事を言われたのだろう、拙い言葉で父と母を責めるような事を言った。自分も父母からの贈り物が欲しい、と小一時間大泣きして駄々をこねた。が弟の涙の主張は虚しく、父母は笑ってその場を流した。
その日の夕方、食事もほどほどに、父母が酒を啜るように飲み始めたから、僕たち兄弟二人は子供部屋に入って少し話をした。
「フウ、学舎で何か言われたのか?」と、僕は分かりきっている事をあえて弟に聞いてみた。
「うん……。お前の家は貧乏だからどうせ贈り物はもらえないんだろうって馬鹿にされた……。兄ちゃんもずっと貰って無いって、貧乏兄弟だって馬鹿にされた」ぽつりぽつりと呟くようにフウは話した。
「そう……僕は気にした事が無かったなあ。うちのご馳走凄いだろ? あれじゃあ駄目なのか」とフウに聞くと、無言で何度もこくこく頷いた。
「何か、皆に自慢できる物が欲しいんだね?」とフウに意地悪な事を聞くと、凄く戸惑った様な曖昧な素振りを見せた。首を横に振りながら頷く様なおかしな素振りだった。僕はその姿がおかしくて、それと同時に少し誇らしかった。
「お前は良く出来た奴だよ」と笑ってやった。フウはきょとんとしていた。
僕は小さな小箱を子供部屋から持ち出して家を出た。家を出る時に玄関の引き戸をカラカラと引いていると、玄関の直ぐ入って右手にある台所から、酒瓶を持った顔を少し赤らめた父親が出てきた。
「どこに行くんだ? フウはどうだ、落ち着いたのか?」
「ちょっとそこの公園まで行ってくる。フウは大丈夫! あいつはとても優しい奴だよ」
「そうか、悪いなお前達に何もあげられなくて、お前も学舎でからかわれているんじゃないか?」と、父は申し訳無さそうな顔をしているが酒に緩んだ口角が相反していて、僕は少し面白く思った。
「良いんだよ、今日は家族の休日。お父さんとお母さんの為の日でもあるんだから、皆で楽しくご馳走が食べれればそれで良いんだよ」と、父に言うと、父は泣き出しそうな顔で僕に言った
「お前が一番出来た奴だよ……祠の公園だろ? 気をつけて行って来い、あまり遅くなるなよ」と、父は僕を送り出してくれた。
たからもの。と、幼い字が描かれた小さな箱、と言ってもその頃の僕には両手で抱える位大きかった箱を抱えて僕は小さな祠の有る村の中心から少し離れた所にある外れの公園に走った。走り始めた時に心は沈着としていたが、だんだんと身体が温まってくるにつれて、心にも熱を帯びてきているのを感じていた。あの時の僕の気持ちを言葉に表すのは少し難解だが、何か幼く優しい使命感の様な物を思って走ったんだと思う。
公園は村外れに有るとは言え僕の家もそんなに中心に近い所にある訳では無いから、その公園に着くまでにはそれ程時間はかからず程なくして到着した。
僕は公園に入ってすぐに公園の中心にあるお社の直ぐそばの竹林の中にぽつんと分けられる様に佇んでいる祠の前まで歩いて行って、祠の前に膝を折って正座した。幼心なりに体裁を整えたつもりだった。あれだけ走ったのに不思議とあまり汗をかいていなかった。否、確かに走っているときは目に入る汗が鬱陶しく思うほどに額から汗が垂れていたが、今日のこの公園の空気は恐ろしく冷たかった。公園の入口から祠に歩いていく道のりを歩く少しの間に冷たく清かな風が僕の身体を完全に冷やしきってしまった。思えば少し妙な雰囲気もあった、お社の前を通り抜ける時分に何かお社の中から誰かがこちらを優しく見ている様な感覚があった。心の隅では感知していたものの、僕は無我夢中に近い心の状態であったから、その違和感に立ち止まる事をしなかった。
僕は祠の前に座って、持ってきた箱の中身を丁寧に祠の前の地面の上に並べて置いた。僕のたからもの箱の中身は様々な色に輝く綺麗な丸い石で、村にある宝石屋で店の主人から買ったり貰ったりした物だった。勿論、小さな子どもに買えない位の高価な物では無くて、値の付かない色の着いたただの石ころを主人が綺麗に磨いた物だった。主人いわく、ある土地によっては価値のあるものだがこの村では価値の無い物だと言っていた。いつかふらりと両親に連れ立って立ち寄ったこの店で僕はこの色石に一目惚れした。その日、なけなしの小遣いで綺麗な青い石を買った。両親は無駄遣いだと言っていたが僕はそうは思わず、その後も小遣いを貯めて足繁くあの宝石屋に通って、様々な色のその石ころを買い集めた。我ながらに幼くして少し可笑しな子供だったと思う。そんな僕に主人はよく
「君にとってこの色石はとても価値のある物のようだ」と言って、しばしばおまけに買った数以上の石を一つ二つ手に握らせてくれた。そうして僕のたからもの箱は沢山の色石で一杯になっていった。
この公園の社の脇の祠には昔からの言い伝えがあって、何か自分の大切な物を捧げれば、それと引き換えに何か一つ願いを叶えてくれると言う。その言い伝えを村の人はお伽噺の様に思っていて、大人たちは下らない話し草くらいにしか思っていないし、村の子ども達にとっても余程小さな子供らが可愛げに信じている程度の与太話であった。しかし僕はいつでも綺麗に整えられている薄く苔むしたその小さな石の祠を美しく思っていて、誰かが何時でも綺麗に掃除しているのは明白だったし、長く信仰されているのならそれなりに大事な物を捧げれ願いを叶えてくれる神様が本当に居るのでは無いかと幼い信仰心をずっと抱いていた。この幼くて優しい願いも叶わないのであれば、それこそ語り種くらいにはなるだろうと小さい期待と小さい疑念を持って今ここまで家から駆けて来たのだ。
僕は僕の大切な宝物である石を祠の前に並べて祈った。
フウに何か贈り物を下さい。
「その願い確かに聞き入れました」と、優しい声が胸に小さく響いた。僕は誰もいないはずの夕暮れの公園で人の声が聞こえた事に驚いて、辺りを見回したけれどやっぱり誰も居なくて、目を正面の祠に戻すと僕はまた心臓が飛び跳ねるような驚きを覚えた。
僕の大切な色石が全てその場から姿を消していて、そこには色石の代わりの様にに一張の弓が置いてあった。その弓には弦はなく、木で出来ていて少し品の良い光沢があった。形は小さく、子どもの手によく馴染む大きさだった。とても良い物だと一目に分かる代物であった。僕の願いが通じたのだと、大きな喜びと深い感謝の気持ちを感じて、自然と体が動くように両手を合わせて目を瞑って祠に向けて謝意を伝えた。よかった。これでフウも学舎で友達に誂われなくて済むぞ。と、僕は空になったたからもの箱の軽さから感じる虚しさを忘れて、その美しい一張の弓を握って公園をあとにした。公園を出る際に丁度よい長さの綺麗な真っ直ぐの木の棒を見つけて、これは矢に良いんじゃないかと思って拾い上げて持ち帰った。僕は軽くなったたからもの箱と、とても綺麗な弓矢を抱えて足早に家路を急いだ。足取りもここへ来るときよりもすごく軽く感じて、心臓が急ぐ様な感じも無かった。早くフウのところへこの木の弓矢を届けなければならないという妙な使命感を幼くも感じていたのだ。




