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トーマスがターンに合わせてマリアの耳元で囁く。
「何をさせようというわけではないんだよ。きっとお前にかかって来るであろう迷惑を、受け流してほしいということさ。あの王女は一筋縄ではいかないよ。アラバスが言うように頭は悪いが根性はあるんだろうね。どれほど手痛く振ってもメゲないのだから大したものだよ」
「はあ……面倒ですわね。関わりたくはありませんわ」
「そう、それで正解だ。極力そうしなさい」
「それでよろしいんですの?」
「全然問題ないよ。卒業資格はもう取っているのだろう? この一年は社会見学のようなものだから、行っても行かなくても問題ないさ」
「ええ、後は卒業式に出るだけですの。では時々様子を見に行くだけにしておきましょうね」
久しぶりの兄とのダンスを満喫したマリアは、早々に帰宅する準備を始めた。
「僕は疲れたから帰るけれど、マリアはもう少し楽しんでも良いんだよ? せっかくアラバスが戻ってきたんだ」
「いいえ、お兄様とご一緒させてください。お土産を心待ちにしておりましたのよ?」
「ははは! きっとお前が喜ぶものだよ。では僕は少し挨拶を済ませてくるから、お前は殿下たちに帰る旨を伝えてきなさい」
「はい」
兄を見送ったマリアが会場を見渡したが、アラバスの姿は見つけられなかった。
トーマスと共に側近をしているアレンが、令嬢たちに囲まれて困った表情を浮かべている。
マリアはクスッと笑ってからアレンに声を掛けた。
「ラングレー公爵令息様、アラバス殿下はどちらに?」
香水の渦から助け出してくれたマリアに、目線で礼を言いながらアレンが答えた。
「殿下なら執務室に向かわれたよ。マリア嬢へのお土産を取りに行かれたんじゃないかな?」
アレンの後ろでレイラ公爵令嬢が苦虫を嚙みつぶしたような顔をしているが、当のアレンには見えていない。
「左様ですか。では少しお待ちした方がよろしいですわね」
令嬢たちの腕を振り解いたアレンが、内ポケットから小さな包みを取り出した。
「これは僕からのお土産だ。ささやかだけれど、君にきっと似合うと思ってね」
封筒のようなラッピングを受け取り、極上の微笑みを浮かべるマリア。
「私にまでお気を遣っていただき感謝いたします。開けてもよろしくて?」
「ああ、もちろん」
出てきたのは栞だった。
金を薄く伸ばした板状のものに、優しく微笑む聖女の立ち姿が描かれ、上部に通してあるリボンは燃えるような赤だ。
「素敵……ありがとうございます。ずっと大切に致しますわ」
「うん、でも大切にし過ぎて仕舞い込まないでね。無くしても良いから普段使いにしてほしいんだ」
「ええ、では日記に挟ませていただきますわね。必ず毎日開いておりますから」
嬉しそうなアレンの後ろから令嬢が声を掛けた。
「マリア様、あちらでトーマス様がお待ちですわ」
「あら大変、お知らせ頂きありがとうございます。えっと……あなたは……」
何度か夜会などで顔を見たことはある気もするのだが、咄嗟に名前が出てこない。
そんなマリアを無視して、急かすようにその令嬢が言った。
「お急ぎになった方がよろしいと存じます」
頷いたマリアはアレンに目だけで挨拶をした。
「ではラングレー公爵令息様、ご機嫌よう」
「ああ、マリア嬢も」
トーマスに頼まれたのかもしれないが、些か不躾な女性だと思ったアレンは、マリアを促して歩き出した令嬢の顔をもう一度よく見た。
「アレン様、どうぞ次は私と踊ってくださいませ」
「あら! 抜け駆けは卑怯ですわ」
再開されたダンスパートナー争奪戦を他人事のように眺めながら、アレンは先ほどマリアが見せた微笑みを思い浮かべていた。
うっすらと微笑んでいるアレンの後ろから声が掛かる。
「アレン、マリアを見なかったか?」
きょろきょろとしながら焦った様子を見せるトーマスだった。
「え? お前が呼んだんじゃないの? さっきどこぞのご令嬢が来て、お前が探してるってマリア嬢を連れて行ったぜ?」
「なんだと? 俺は誰にもそんなこと頼んでなどいないぞ」
二人で顔を見合わせていた時、給仕用扉から慌ただしくこちらに駆けてくる者がいた。