落ちこぼれ医療魔術師リリア
「ちょっと、まだできないのー?」
ルーシーの苛立った声が居間から聞こえた。
「ごめん、あと少しだけ待って」
リリアは厨房から返事をしたあと、スープを小皿に少しとり味見をする。
(うん、これでよし)
用意していた三枚の皿にスープを入れ、それらをトレーに載せて居間へ運ぶ。
居間に入るとルーシーと先生が“医療魔術”の話をしていた。
「午前中のレッドスネークに噛まれた人、どうやって治したんですか? いまいち解毒のやり方がピンと来なくて……」
「そうだね……目に見える外傷とは違い、視認できない骨折などは“透視”を発動し、患者の体内を直接視て治療することは学校で習ったね? 解毒も同じく、患者の血管に流れる血を視るんだ。コツとしては――おっと、食事ができたようだ。食べ終わったら続きを話そう」
リリアが話の邪魔していいものかと思案していると、先生がこちらに気づいたようだ。
「おまたせしました」
テーブルにトレーを載せ、二人と自分が座る空席の前に皿を置く。
「パンとサラダも持ってきます」
リリアは厨房に戻り、今朝買ってきた野菜で作ったサラダとパンと小皿を三つ、トレーに載せ再び居間へ運ぶ。
パンとサラダをテーブルの真ん中に起き、小皿をそれぞれ配ったあと、自分の席についた。
「やっぱり美味しいわ。医療魔術師としてやっていくのは無理なんだから、早めにこっちの道に進んだほうがいいんじゃない?」
スープを口に運んだあと、ルーシーはリリアに顔を向け言った。
「あはは……やっぱりそうだよね……」
リリアは作り笑顔を浮かべ、自嘲するように答える。
「ルーシーくん、口が過ぎるよ」
「はぁい」
先生に注意されたルーシーはパンを頬張りながら、軽い調子で言った。
先生は言葉を続ける。
「リリアくんは医療魔術自体は発現しているんだ。そうではなかったら、透視は絶対にできない。しかし体の中が正確に視えない、そういうことだったかな」
「はい……なんというか――」
「先生早く食べてさっきの続き教えてくださいよー」
ルーシーが退屈そうな表情をしながら口をはさむ。スープが入っていた皿はもう半分になっていた。
「あぁそうだったね。早く食べてしまうとしよう」
――リリアには魔術の才能がなかった。
正確に言えば医療魔術師としての才能が。
魔術はある例外を除き、大きく分けて二つに分類される。風、土、水、火の四大元素を包括する属性魔術と、今リリアたちが学んでいる医療魔術。
発現するのはだいたい一〇歳前後。七割の人は初等魔術学校を卒業する十二歳までに魔術を身に宿し、残りの三割は適正なしと烙印を押される。
卒業後は三つの進路に分かれる。
属性魔術師の場合は、冒険者パーティに入り魔物との戦闘を繰り返すことで練度を上げる。医療魔術師の場合は、診療所に勤めけが人を治療することで経験を積む。残りの者は、非魔術職の専門学校に通うことになる。
医療魔術師なら呼吸をするようにできる透視を使って、試験官の心拍数を数えるという簡単な卒業前試験を、リリアは合格できなかった。
しかし魔術師のみが発する“魔術光”は確認できたという理由で、この医療所に「特例」という形で派遣される事になった。
リリアは皿洗いを終えたあと、掃除に取り掛かっていた。
診療所の床をほうきで掃いていく。あらかた全体を回り終え、扉の前に集めていた埃や砂を外へ運ぶ。
ふと振り返ると、まだ居間で先生とルーシーは解毒についての講義を続けていた。
リリアは短くため息をついて、ほうきを持ったまま診療所の外に出て今度は石畳の上を掃き始める。
ふと前方に目をやると、少年が右足を引きずるように歩いてくるのが見えた。
(けが人かな)
ほうきを診療所の壁に立てかけ、少年に駆け寄る。
「どうしたの?」
「原っぱで友達と遊んでいたら転んじゃったんだ」
少年の右足を見ると、膝に血が滲んだ擦り傷がある。
「お姉ちゃんの背中に乗って」
リリアはそう言いながら少年の前に屈む。
「えっ……でも」
「いいから」
リリアは背中に重みを感じると、そのまま立ち上がり少年を背負いながら診療所まで歩いた。
「すみません。開けてください」
大声で呼びかけると、気だるそうな様子のルーシーが扉を開けた。
「もうなに……あらその子は?」
「転んでしまったようで……出血はひどくないですが、念のため細菌が入っていないか診てもらってもいいですか」
「何を言ってるんだ。君も医療魔術師の端くれだろう? リリアくんが診るんだ」
居間から話を聞いていたらしく、先生の声が届く。
「でも……わかりました」
リリアは逡巡したのち、医務室へ少年を運ぶ。ルーシーと先生も後ろからついてきた。
医務室のベッドに少年を座らせ、リリアはその前に屈む。
目を閉じ、意識を自分の魔力の流れに集中する。
そして思い描く。
――細い足、肌は少し日に焼けている。そして膝にはさっき作った擦り傷。
暗闇の中に、目の前に実在するだろう少年の足が浮かび上がる。
(今だ!)
リリアは目を大きく見開く。
そして大きく落胆した。
そこにはコップの中のミルクに潜ったかような、白く塗りつぶされた世界がどこまでも広がっていた。本来視えるはずの骨も筋肉も血管も何もない。
(また失敗した……やっぱり私には向いてないんだ)
意識が目の前の白い世界から遠のいていく。
「ねぇねぇおばあちゃん。なんで魔術が使えない人がいるの?」
幼い頃、高名な医療魔術師である祖母に聞いたことがあった。
「それは違うよリリア。本当は魔術を使えない人なんていないんだ」
「えーでもルーシーのお父さんもお母さんも大人なのに使えないよ」
「それは自分がどんな魔術が使えるか分からないだけなんだよ。そういう人はある日すごい魔術に目覚めることがあると昔から言われているんだ。天気を操ったり、石を水に変えたり。そういう不可能を可能にしてしまう魔術を“魔法”って呼ぶんだよ」
「そんな人見たことない。ほんとうにいるの?」
「おばあちゃんも使える人は見たことも聞いたこともないんだけどね」
祖母は穏やかな表情を浮かべ、リリアの頭を撫でる。
「リリア、魔術を使うために必要な魔力はどこから生まれると思う?」
「知らなーい」
「強い願いさ。石を水に変える魔術の才能があっても、実際に石を水に変えたいと強く心から神様に祈らなければうまく使えるようにはならない。リリアはそんなこと思ったことあるかい?」
「考えたこともない」
「そう、普通の人はそんなこと本気で思ったりはしない。だから魔法を使える人は滅多に現れないんだ」
「ふーん」
「でも属性魔術も医療魔術もその基本は変わらない。より願えば願うほど魔術も強いものになる。医療魔術師の場合は目の前の人を助けたいと、心から祈ることがなにより大事なんだ。おばあちゃんの今言ったこと覚えてくれたら嬉しいな」
「うんわかった! 水魔術師なんかじゃなくて、医療魔術師になっておばあちゃんみたいにたくさんの人を元気にしたい!」
「ふふ。それを聞いたらお母さんが悲しんじゃうよ」
「やだー! 絶対医療魔術師がいい!」
(おばあちゃんごめん。私やっぱりダメみたい)
「ちょっとリリア、今度はちゃんとできているの?」
ルーシーの声で意識が現実に戻ってきた。目の前には血の通った少年の足が見える。
意識が乱れたせいで、透視の発動が解けていた。
「その様子だと今回もダメだったみたいだね」
先生の毅然とした声が耳に届く。
「はい……」
「透視すらまともにできないなんて、本当どうしようもないわね」
ルーシーが呆れたような口調で言った。
「ルーシーくん、代わりに診なさい」
「はい。ほらいつまでも座り込んでないで、さっさとどきなさい」
ルーシに急かされたリリアは黙ってそっと立ち上がり、顔を俯かせたまま医務室を出た。
「早速実践だ。血管は視えるかな?」
「はい」
「よし。そのまま血管の中に意識を潜り込ませるんだ」
医務室の入り口近くの壁に体を預けていると、中から二人の会話が耳に入ってきた。
「できました。血流を俯瞰して視るんでしたね」
「その通り、流れる血を追っていては速すぎて何も視えない。川を離れたところから眺めるイメージだ。なにか異物が混じって流れていたりしないか?」
「んーそうですねぇ……あっ! ゴミみたいなものが流れている気がします」
「どれどれ……さすがだ。これはエンドリア菌といって、潜伏期間は長いが放っておくと全身の毛が抜け落ちてあらゆる毛穴から出血し、死に至る恐ろしい細菌だ」
「ハゲになるのも死ぬのもやだよー」
少年の叫び声が聞こえた。
「大丈夫だよ。今からこのお姉ちゃんが治してくれるからね。ルーシーくん、あとはできるな?」
「当たり前ですよ先生」
医務室の中から青白い光が漏れ出す。ルーシーが少年にヒールを使ったのだろう。
「処置完了しました」
「確かめよう。……問題ない。傷も塞がっているし、エンドリア菌も消えている」
「ほんとに? ありがとうお姉さん」
「はいはい。気をつけて遊ぶのよ」
医務室から出てきた少年と目があう。
「あっ、お姉さんもここまでおんぶしてくれてありがとう」
「うん……治ってよかったね」
リリアは辛うじて笑顔をつくり、声を絞り出す。
「うん。ばいばーい」
少年はそう言い残し、診療所から走り去っていった。
「しかしすごいな。普通、血流を視るのは相当な経験を積まないとできないものだが」
「まだまだですよ。何が流れているかなんて判別できなかったし」
「君ならすぐにできるさ。今回は細菌の除去だったが、解毒の場合も血流を視る感覚は同様だ。むしろそこが一番の難関だからもうほぼ習得しているようなものだ。これが天才ってやつかね」
「あはは。先生からそう言われると嬉しい反面、プレッシャーがかかります」
リリアは唇を噛んだ。
溢れ出るどす黒い感情が心の奥底に封印していた怪物を起こし、それはぐちゃぐちゃになった思考をすべて飲みこんでいった。
(なんでルーシーだけが。才能なら私のほうがあるはずなのに)
水の魔術の家系の母と、医療魔術の名家出身である父の間にリリアは生まれ、幼い頃から幼馴染みだったルーシーは非魔術師の両親の間に生まれた。
通常、発現する魔術の系統は両親のいずれか片方から継承する。そしてどちらの魔術を受け継ぐにせよ、魔術師としての能力も概ね血筋に依るというのが常識だ。
非魔術師どうしの子どもでも魔術を宿すことは稀にある。しかし魔術師の子どもと比べるとやはり劣る。
名家で生まれたリリアは当然周囲から期待され、ルーシーはしょせん非魔術師の子どもとして軽蔑されていた。
そのはずだった。
(昔は虐められてたくせに。私に泣きついてきたくせに)
(医療魔術の才能が私よりあるとわかった途端、私を見下してきて、家政婦扱いしてきて――)
気づいたらリリアは診療所を飛び出していた。ルーシーと先生の声が背後から聞こえた気がするが、振り向こうとすらしなかった。
家に向かって歩いていると、ふと右手から痛みを感じた。握りこぶしを緩めると爪が当たっていた部分から出血している。
自分はこんなのですら治せないんだと自虐を浮かべて笑う。
「魔術は強く願うことが大事」、祖母の教えを思い出す。
(じゃあ私は治したいと思ってないってこと? さっきの男の子も……)
少年を治したいと思っていた。しかしそれは思い込みで、心の奥底では実はどうでもよかったのだろうか。自分はそれほどまでに冷たい人間なのだろうか。だからいつまで経っても医療魔術がまともに使えないのだろうか、とリリアは自問自答をくり返す。
頭の中を空にしたくて、何千回と繰り返してきたことを無意識にしていた。
母のように天にかざした片手。しかしそこから水が出ることはない。
当然のことだ。魔術は一人一系統のみ、それが原則である。
(私は一体なんなのだろう。医療魔術は発現しているのに、できるのは不完全な透視だけ。水魔術ができるわけでもない。こんなことならいっそ非魔術師として生まれたほうがよかった。ルーシーが言うように最初から家政婦学校に通っていれば、こんな思いをせずに済んだ)
頭の中に吹き荒れる負の感情の暴風を止める術もなく、とぼとぼと歩いているといつの間にか家が見えていた。
(今日はすぐ寝てしまおう。そして明日診療所で先生に「辞めます」と言って、自分のものをまとめて家に持って帰る。それでおしまい)
家に近づくと急に悪寒が体中を走った。
(風邪かな?)
今日はいろいろとあって疲れたし、体調もお世辞にもいいとは言えない。
あとで父か祖母に診てもらおうと思い、家の敷地内に入る。
玄関の前に立ち呼び鈴を鳴らした。しかし誰も出る気配はない。いつもより早い帰宅ではあるが、村の周辺警備の仕事をしている母は非番で家にいるはずだ。いないとしても、祖母がいつもなら出てくれる。
「お母さん帰ったよー開けてー」
嫌な予感がリリアの胸をよぎる。すると誰かが廊下を走っている音が聞こえ、扉が勢いよく開いた。
「あっお母さんた――」
「リリア大変よ! おばあちゃんが!」
扉を開けるやいなや、血相を変えて母は言った。リリアはこんな取り乱した姿をこれまで見たことがない。
自分の顔が一気にこわばるのを感じた。
「えっ……どうしたの?」
「魔術暴走よ! 昼一緒にごはんを食べていたら突然苦しみだして……」
頭が真っ白になる。
――魔術暴走。
魔術師のみが突然発症する不治の病。ただし誰でもというわけではなく、その罹患率は能力に比例して高くなる。
症状は、患者の魔術系統によって変わるが、いずれも凄惨そのものである。
風は体の自由を失い壁や地面に叩きつけられ、土は徐々に石化し、水は何もなにもないところで溺れ、火は体から発火する。そして医療魔術は肉が裂け、骨は砕かれ、内蔵が潰れる。まるで誰かに手の余る力の代償を支払うかのように。
誰が最初に言い出したのか、別名は「魔術死」
治療法は存在しない。そもそも発生原因もメカニズムも、何ひとつ分かっていないのだ。
廊下を駆け抜け祖母の部屋の扉を開けると、思わず目を背ける。
赤く濡れたベッドの上に横たわる祖母が一瞬目に飛び込んできた。
深呼吸をしてもう一度、部屋の中央へ視線を移す。
そこには自分の知っている祖母の姿はなかった。
体中に切れ味の鋭い剣で切り裂かれたような傷が無数にあり、右腕はありえない方向へ曲がり、だらんと地面へ垂れ下がっている。そして優しかった祖母の顔は片目が飛び出て、口が裂け片耳は完全に取れてベッドに転がっていた。
吐き気を催し思わず両手で口を覆う。診療所でもたびたびこのような光景は見ていて、慣れていたはずだった。
ベッドの左脇では父が両手を交差させ、青白い光を祖母に向けている。
「母さん! しっかりしてくれ!」
そんな願いとは裏腹に、唐突に左足が縦にパックリと裂け、血が虚しく飛び散った。
リリアは自分の頭が急に冷えていくのを感じた。
どうせ自分には何もできやしない。何かしようとすれば却って父の邪魔になるだろう。
自分ができるのはやがて死にゆく祖母のそばに居てあげることぐらいだ。
父とは逆側へ歩み寄り、腰を落とし血まみれの左手を握る。まだ温かい。
涙がこぼれた。祖母との思い出が鮮明に蘇る。
(お父さんの手ですら負えない、重病の人を治してしまうおばあちゃん。昔はただおばあちゃんのようになりたい、それだけしか考えてなかったなぁ)
(医療魔術のテストの点数が悪かった時。おばあちゃんが学校まで乗り込んで、教師に採点基準がおかしいって怒鳴ってた。……あの時は少し恥ずかしかったけど、嬉しかった)
(ルーシーと喧嘩して泣きながら家に帰った時。おばあちゃんは黙って話を聞いたあと、それは私が悪いと叱ってくれた。あの時はびっくりしたけど、そのあと眠るまでずっと頭を撫でてくれた)
(診療所から帰ってきて落ち込んでいた時。おばあちゃんはいつも慰めてくれた。リリアならできる、なぜなら私の孫だから。それが口癖だった)
祖母の手を握ったまま、リリアはベッドに顔を伏せる。涙が血だらけのシーツに滲んだ。
(ごめんおばあちゃん。最後まで何もできないままで)
バキィッ!
骨が砕けるような大きな音に思わず顔を上げる。リリアの目の前にあった前腕が真ん中であり得ない方向へ曲がっていた。
(……?)
それと同時に一瞬黒い影が、祖母の左腕から浮き上がったように見えた。
「お父さん! 今の見た!?」
「今のって……これが魔術暴走の症状だ。学校で習っただろう?」
「そうじゃなくて! 今おばあちゃんの体からなにか出てきたんだよ!」
「リリア……辛いのはわかる。お父さんだってそうだ。だから今は馬鹿なこと言うのはやめてくれ」
父は諦めてしまったようで、静かに項垂れていた。
すると今度は祖母の腹が何か押しつぶされたように凹み、血を吐く。
リリアは先程よりはっきりと黒い影を見た。
祖母の手をぎゅっと握りしめる。
そして静かに目を閉じ、祖母の優しい笑顔を思い浮かべる。閉じた瞼からあふれた涙が頬を伝った。
(おばあちゃんみたいな立派な医療魔術師になれなくてもいい。それで人から馬鹿にされたって構わない)
(だけどおばあちゃんだけは助けたい! 神様どうかお願いします。私に力を貸してください!)
一縷の思いを託し、リリアは目を見開いた。
視界に広がるのは変わらない白い世界。
しかしいつもとは様子が違い、巨大な黒い影が触手のようなものを伸ばし空間を覆っていた。
(なに……これ……)
初めて視る異常な光景にリリアは呆然とする。
すると突如、黒い影の中心に単眼と口が浮かび上がった。キョロキョロと周りを見たあと、こちらを見つめ口角を釣り上げる。
思わず恐怖で透視が途切れそうになるが、なんとか思いとどまり乱れた意識を整えた。
黒い影を見つめ返すと、巨大な口が開く。
「なんだオマエ。私が視えるのか」
全身に悪寒が走る。この世のものとは思えない不気味な声だった。
リリアは喉から声を絞りだし、それに尋ねる。
「あなたは……一体……なんなの?」
黒い影は何がおかしいのか、ケタケタと笑いながら答えた。
「ワタシが何者か、か。そうだな……オマエらが言う神とでも名乗ろうか」
「嘘付かないで! こんなおぞましいものが神様なわけない! だいたいなんで神様がおばあちゃんの中にいるの?」
さっき祈りを捧げたばかりの神がこんな邪悪な姿をしているとは、リリアには信じられなかった。
「貸したモノを返してもらいにきただけだ。この人間はワタシの力をずいぶんと使った。だからその対価を今支払ってもらっている」
「そんな馬鹿な話あるわけが……」
リリアは愕然として言葉に詰まる。黒い影はおかまいなしに話を続けた。
「オマエら人間ごときが、ただでワタシの力を使えるとでも思っているのか? まぁ大抵の使いこなせない奴は、取り立てる前に死んでしまうのだがな」
不快な笑い声が響く。
リリアは絶望に打ちひしがれた。
(神様だなんて……私なんかじゃ何もできない。いや誰だって――)
「それよりオマエはなんだ? なぜワタシが視える。なぜワタシの声が聞こえる」
何者かなんてリリア自身が一番知りたかった。
自分はなんなのか。
自分には一体なにができるのか。
自分はどうすれば祖母を救えるのか。
その時、リリアの左手を握り返してくるような感覚がした。
見えなくてもまだその温かさは伝わってくる。
(そうだ……)
「魔術は強く願うことが大事」「リリアならできる」
祖母の言葉を心のなかで反芻させる。
そして、思いを研ぎ澄ます。
(神様になんかじゃない――私が私自身に祈る。強く、強く願う!)
魔力がより激しく全身を駆け巡るのを感じる。
「おばあちゃんを助けるためだったら何が立ち塞がろうとも私が壊してみせる! ――それが神様であろうとも!」
リリアは視界には映らない腕を持ち上げ、顔の前で手を重ねる。すると白い世界に自分の両腕が現れた。
そして交差した両手を黒い影に向ける。
黒い影は三日月のような口を一瞬直線にしたあと、再びより大きく口の端を吊り上げた。
「そういうことか、いやはやまだ人間も捨てたものではないな」
黒い影は楽しそうに笑う。
「お前がなんであろうとも関係ない! おばあちゃんの体から出ていってもらう!」
自分の体に流れる大量の魔力を自分の両手にすべて集める。
するとリリアの手からまばゆい青白い光が溢れ出す。
そしてそれは次第に大きくなり、世界を包んだ。
光の中、黒い影が溶けていく。
完全に消え去るその時まで、それは口角を上げこちらを見ていた。
光が消えると、黒い影はいなくなっていた。
(終わったの……?)
何もない空間を見渡す。
白い世界がどこまでも広がっていた。
安堵し長く息を吐いたあと、突然ぐらりと視界が暗転しリリアはそのまま意識を失った。
目覚めると自分のベッドの上にいた。窓から陽の光が差し込んでいる。
(あれ……昨日ベッドで寝たんだっけ……)
目をこすり、辺りを見渡す。何も変わらない自分の部屋だ。
(昨日何があったんだっけ。診療所でいつも通り昼ごはんを作って、怪我した少年を運んで、その後飛び出して家に帰ってそれから……)
ぼんやりした頭の中に、徐々に昨日の出来事が浮かんでくる。
リリアはベッドから飛び起き、祖母の部屋まで走り勢いよく扉を開けた。
そこにはいつもと変わらない様子で魔術書を読む祖母の姿があった。
「リリア!」
こちらに気付いた祖母は魔術書を置き、ベッドから立ち上がった。
「おばあちゃん!」
リリアは祖母に駆け寄り抱きつく。
「よかった……よかった……」
涙を溢れさせ、胸に顔を埋める。
(温かい……)
祖母の上着がリリアの涙と鼻水でどんどん濡れていく。
「リリアが治してくれたんだって? やっぱり私の孫だ、不可能を可能にしてしまった。一体どうやったんだ?」
リリアは昨日の黒い影を思い出す。しかし今はそれを忘れることにした。
「わかんない……でもおばあちゃんが死んじゃうのがただ嫌だった」
胸に顔を埋めるように擦り寄せる。
「そう。……ありがとう、リリア」
祖母は強く抱きしめ返し、涙に濡れた顔をリリアの頭に乗せた。
診療所の扉を開けると、居間で先生とルーシーが昼食を食べていた。
「ちょっと何してたのよ! 大遅刻よ! あんたが来ないせいでこんな不味いものを食べることに……」
ルーシーが席を立ちこちらへ駆け寄ってくる。
先生は椅子に座ったまま黙ってルーシーを睨みつけていた。
「ごめん色々あって……」
「色々って何よ。昨日も急に飛び出して……心配したんだから」
「それより、リリアくんに何か謝ることがあったんじゃないのか?」
先生の鋭い声音にルーシーは体をビクッと震わせた。
「その……昨日は酷いことを言ってしまった。悪かったわ」
申し訳なさそうなルーシーを見て思わずリリアは笑った。
「大丈夫だよ。ルーシーだし。そんなことより先生、今日でこの診療所を辞めます」
「どうしてよ! 悪かったって言ってるじゃない!」
ルーシーが慌てたように騒ぎ出す。
「そうか……それは残念だ。次の道はもう決まっているのかい?」
「はい。旅に出ようと思うんです」
「旅ぃ? どうして、なんのために!」
「ルーシーくんは黙っていなさい。その様子だと決意は固いようだ。……理由は聞かないでおこう。自分のやるべきことが見えたようだね」
「はい!」
リリアは診療所に置いてあった私物を家に持ち帰り、自分の部屋で整理をしつつ、旅の支度を進めていた。
先程の出来事を思い出し、思わずクスリと笑う。
(あんなルーシー、久しぶりに見たなぁ)
診療所を去ろうとすると、ルーシーが「行かないでよぉ~」と涙を隠そうともせずしがみついてくる。先生がそれを無理やり引きはがすと、「毎日手紙よこしなさいよ! 絶対だからね!」とずっと大声で叫んでいた。
(これでよし)
荷造りが終わり、大きなカバンを背負い家族に声をかけ家の外に出る。
「今日じゃなきゃダメなの? もうすぐ陽も落ちるし、明日にでも……」
母が心配そうな顔でつぶやく。
「私を待っている人がいるから。少しでも早く行かないと」
「定期的に手紙を出しなさい。それと森にはむやみに入らないこと」
父は毅然とした態度を崩さず言った。
「うん。わかった」
「リリア、これを持っていきなさい。……きっと役立つことが書いてあるだろうから」
祖母は一冊の魔術書を渡してきた。
「いいの?」
「あぁ。私が持っていても仕方がない」
そう言うと祖母は抱きついてきた。
「リリア……気をつけてね。たまには元気な姿を見せに帰ってくるんだよ」
「うん……おばちゃんも元気でね」
溢れそうになる涙を堪え、リリアは祖母の体をぎゅうと抱きしめた。
「それじゃあ行ってきます」
リリアは魔術書をカバンにしまい、家族に別れを告げ歩きだす。
家が見えなくなるまで何度も振り返り、見送る家族に手を振った。
顔を上げると、真っ赤な夕暮れの空が広がる。
(さて……街に着いたらまずは宿探しからかな)
そんなことを考えていた時。
覚えのある悪寒が襲ってきた。
どこからか視線も感じる。
立ち止まり周囲を見渡すと、夕暮れに焼かれた草原が広がる。人の気配はない。
視線を正面に戻し、再び力強く歩みを進めた。
(お前には絶対負けない。一人でも多く救ってみせる)
リリアはそう決意し、魔法使いとしての一歩を踏み出した。