秘密の町と夕顔の花
「……」
立ち尽くしていた男は、その場に崩れ落ちた。周りには一切人がいない。黒焦げの廃墟に一人佇む男……
彼がその女に出会ったのは、今からひと月ほど前だった。町はずれの古びた一軒家に、彼女は一人で住んでいた。夏の日に咲く儚げな夕顔のような、素敵な女だった。
彼はもともと首都の中心部にある、高層マンションに住んでいた。しかし、突如として起こった内戦に巻き込まれ、家を失った。そのために、彼は住める家を探して町はずれをさまよっていたのだ。そんな時に、出会いが彼に訪れた。
この小さな、でもしっかりした家で。この素敵な女性と一緒に。暮らしていけるのだとしたら、どんなに素晴らしいことだろう。彼はそう思った。
彼女も、こちらを見つめてきた。
いつかどこかで見たことがあるような、不思議な雰囲気を纏った男性。こちらを見つめる瞳には一切の敵意はなく、むしろ親しみを覚えてくれているようだ。
互いに惹かれあった二人は、ともに暮らしていくことを決めた。
二人の暮らしは、内戦が起こっているなど嘘のように穏やかだった。
近所の人々も親切にしてくれた。もちろん最初はいぶかしむ人もいたが、そのうちに打ち解けていった。
ともに暮らし始めて20日目。彼が言った。
「何故、君は名を名乗らない?」
彼女はこう答えた。
「こうしてともに暮らし、愛し合うことができるなら、名前などいらないわ。それに、貴方に名乗る気がないのなら、自分だけ名乗るわけにはいかないでしょう?」
「そうか、そう思っていたのか。」彼はつぶやくように言った。そして、
「なら、名乗ろう。俺の名前は、メルト。君の名前は?」と言った。
「…名乗れないわ。」震える声で、彼女は言った。
「何故。」「だって…」
「本当のことを言ってしまったら、貴方は私のことを嫌いになる。それに、貴方はそんなことをしないと信じているけど、殺されてしまったっておかしくないの。それも、私だけじゃなく、町の人全員。」
「一体どういうことなんだ。絶対に嫌いにならない、とは言えないけど、殺すだなんて絶対にしない。教えてくれ。分からないままで終わらせたくない。信じてくれ。」
「分かったわ。本当は言いたくないの、泣いてしまうかもしれないけど、いい?」
「構わない」
彼女はゆっくりと語り始めた。
……この町に住む人々は、かつて――16年前――弾圧されて首都の中心部から追われた民族であること。
不当な差別を受けずに済むよう、自分たちだけで町を作り、ひっそりと暮らしていること。
自分は22歳で、6歳の時に弾圧と逃避行を経験していること。
もとは両親・兄・自分・妹の5人家族だったが、逃げる途中で父と妹が殺されたこと。
その後この家で暮らし始めたこと。
兄がある日出かけたきり帰ってきていないこと。母が昨年病気で死んだこと。……
そこまで言い終わる頃には、彼女の目はうるんで決壊寸前になっていた。真っ直ぐこちらを見ることも難しいようだった。
メルトは、彼女と同い年だった。記憶を手繰ってみれば、確かに小学校1年生の時に、首都から追い出された人々のことをニュースでやっていたような気がする。当時の自分には、何のことかさっぱりわからなかったけれど。
「殺されてもおかしくない」と彼女が言ったのは、こういうわけだったのか。腑に落ちると同時に、一つ疑問が浮かぶ。
「じゃあ、何故俺をこの家に招き入れたんだい?」
気になって当たり前だ。こんなトラウマを抱えて、名乗ることができないくらい苦しんで。
それでも何故自分を招き入れて、愛も受け入れてくれたのだろうか。
「自分でもよく分かってなかったの。でも今分かった。貴方は兄に似ているのよ、たぶん」
鼻をすすりながら彼女は言った。袖で涙をぬぐっている。
9歳の時から会っていないから、本当にそうかはわからないけど、と彼女は付け足した。
「そうだったのか…」
「町の人たちもね、最初はスパイか何かだと思ったのよ、きっと。でも、私が信用してる相手なら平気だろうって思ったんでしょうね。」
「さっきも言ったけど、俺は君がどんな過去を持っていようが、関係ない。好きでなくなってなんかいないさ。」
「それなら嬉しいわ。ここまで秘密を明かしてしまったんだもの。名前も教えましょう。私の名前は…」
「君の名前は?」聞き返してくれて嬉しかったのか、彼女は頬を赤らめて微笑した。
その時だった。町のあちこちから悲鳴が聞こえだしたのは。
その後のことは、もうよく覚えていない。
最初は彼女を守ろうとしていたはずだ。でも、逃げるうちに、二人を繋いでいた手はほどけ、メルトは一人で走っていた。途中で兵隊に見つかった。この町の民族のことを知っているのだろう、目がギラギラしていた。怖くなって、懐から運転免許証を取り出した。それを見た兵隊は、俺がこの町の住人ではないことに気づき、俺の手を引いて歩きだした。
その後、ちょっとした取り調べを受けて、メルトは解放された。
彼女を裏切ってしまったことへの後悔ばかりが残っていた。
これでおしまいです。
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