ようやく名を呼ばれた俺
【登場人物】
エリザベート・ロシュ 公爵令嬢
クロウ 黒ヒョウを守護獣に持つ猫型獣人
ラナ エリザベートの侍女
エリザベートの透き通るような白い肌のなかで、そこだけ鮮やかな紅をさした唇がかすかに動いた。
彼女は何か言いかけた気がしたが、その唇から言葉がこぼれることはなく。
通りすぎるときにドレスの衣擦れの音、ふわりと清涼感のあるシトラスとフリージアの甘い香りがした。
キリッとした大人っぽい顔立ちなのに、身につける香りは少女らしい優しい甘さだ。それよりも。
(今の……なんだ?)
うしろ姿を見送ることになったのは俺のほうだった。けれど振り向くこともなく、彼女の姿は扉の向こうに消えた。
このまま予定通り進むらしいがまだ何時間も続く。俺はちょうどやってきた同僚と交代した。
夜会用の制服は衛士といえども装飾が多い。通用口をでてひと気のない裏庭にでた俺は、首元を緩め息をつく。
カーミス男爵令嬢には悪いが、俺としてはあの「氷の令嬢」が踊るところを見たかったな。
魔導シャンデリアの光を受けた白金の長い髪は、夜空に輝く月のように優美で冴え冴えとした美貌を引き立てる。
冷たく澄んだ青い瞳は雪原で出会った狼みたいに、人なつこさを感じさせず油断がならない。
(ま、人間だけどよ)
そのときかすかに悲鳴が聞こえた。俺の耳がピクリと反応し、しっぽの毛がぶわりと逆立つ。
俺たち獣人族が人間の国ロックガルドで雇われているのは、その身体能力ゆえだ。
耳を音のした方向にむけ、金色をした瞳の瞳孔をばっとひろげれば、俺の視界に白いドレスが暗闇からはっきりと浮かびあがる。
(あの姫さん……あんな所で何やってんだ⁉)
城とふだん使われない塔を結ぶ回廊、そこでさっき婚約破棄されたばかりの公爵令嬢エリザベートが何者かともみあっている。
もがき抵抗する彼女より襲撃者のほうが力は上らしく、あっさりと彼女の上半身は手すりの向こうに投げだされた。
考えるより先に俺は城壁に飛びついた。
ギッと硬化した手足の爪を使い、壁を滑るように横に走る。
落下する白いドレスに向かい、勢いよく跳躍した。
(とどけ!)
俺の身体能力はこういうときに役にたつ。
エリザベートの高級品らしいドレスにカギ裂きのような傷を作ったが、なんとか爪にひっかけることに成功し、布ごと巻きこむように細い体を手繰り寄せた。
そのまま彼女の体を抱きかかえて、クルクルと空中で回転する。落下スピードを相殺するためだ。
背中から着地するなんてヘマはしない。
俺の両足が地面をとらえた。
二人分の体重がかかっているとは思えないほど、ストッと軽やかな音がした。
何が起きたか分からなかったのだろう、大きく見ひらかれた彼女の青い目が、俺に向けられる。
「失礼」
俺は彼女を地面におろし、取りだした警笛を勢いよく吹く。
ピーッピピッピッピーッ!ピルリピーッ、ピー!
リズムがついているのは情報伝達のためだ。意味は「西の回廊・侵入者・人数は不明」、最後に軽く吹いたのは「要応援・中庭・一名保護」ってとこか。
逃がしゃしねぇ、俺たち衛士を舐めんなよ。
城のあちこちにつっ立ってるだけの、お飾りじゃねぇことを分からせてやる。
でないと俺が衛士長からドヤされる。
俺が向かってもいいが、こっちにはお姫さんがいる。まずは安全確保だ。
俺はエリザベートを見下ろ……せなかった。落ちた時にヒールは脱げたようだが、彼女の青い瞳は俺の真ん前にある。
つまり目線の高さ、背の高さはほぼ同じだ。これ、ヒール履かれたら俺が見下ろされるやつ!
俺の持論その一!
『男の価値は背丈じゃ決まらない』
負け猫の遠吠えとでも何とでも言え、とにかく背丈じゃ絶対にねぇからな!
俺はキリッと顔を作った。
「おケガはありませんか?」
「あ……」
ちゃんと丁寧語が使える俺、偉い。
「すぐに応援が参ります。ご安心を」
まぁ休憩中ではあったけど。わざわざ名乗るほどでもない。だって俺モブの衛士だし。
相手は公爵令嬢だぜ?
王太子にフラれたからって、隣国の皇太子とか辺境伯とか騎士団長とかそういうのいっぱいいる。
身の程をわきまえてる俺、偉い。
(まずは着替え……いや、きょうはラウル殿下のせいでめったに着ない正装だったな。ならこのまま引き継ぎして、さっさと宿舎にひきあげるか)
そんなことを考えていたら、エリザベートが大きな青い瞳をうるませ、想いをたっぷりこめたみたいに俺の名を呼んだ。
「クロちゃんっ!」
「……なぜ俺の名を?」
けれどパチパチと目をしばたいた彼女は、驚いたように口元に手をあてる。
「ま、まさか本当にクロちゃんとおっしゃるの?」
「正確にはクロウね。あとちゃん付けはさすがにやめてくれる?」
「わかりました。ではクロ……くん」
クロちゃんよりはいいかな。相手は公爵令嬢だ、許す。どっちみち「許しません」と言ったって首が飛ぶ。しかしイマイチ会話がかみ合わない。
エリザベートは目が合うとポッと頬を染めた。
「ごめんなさい、昔飼っていた猫の名前が『クロちゃん』なの。雰囲気がよく似ていて……」
キタコレ。獣人あるある、飼ってた猫に似てました!
わかる。これ絶対、恋愛感情ないやつ!
ここロックガルドは人間の王国。
獣人たちもそこそこいるが、物珍しそうな視線はよく飛んでくる。
しかも残念なことに俺の体は小さい。俺みたいな華奢なタイプは獣人のなかでも珍しい。
獣人だけあって身体能力はバッチリだし、そこらの騎士とも素手で対等にやり合える。
けれどパッチリした金の瞳に艶のある黒髪、音に反応してピクッと動く耳……王城でもよく叫ばれるんだ。
「キャー、かわいい!」って。
ちなみに王女殿下のお茶会でもよく警備という口実で駆りだされる。
で、そいつらの目当ては俺というよりも。
「しっぽ触らせて」
とか。
「耳を撫でさせて」
とかそんな感じ。あのね、俺仕事中なの。ついでに言えば成人男性なの。
お前ら淑女のくせしてセクハラ案件かましてくんじゃねーよ!
幸い王女殿下からの、俺を殿下の専属に……という申し出は、衛士長が渋い顔でビシッとうまいこと言って断ってくれた。
「こやつは獣人で、ロックガルドの常識もきちんと身につけておりません。王女殿下の前でどんな無作法をやらかすか」
衛士長サンクス!俺ひとり抜けるだけでも、ローテーションが狂うんだよ。
まぁそんな話はこの際関係ない。王城からゾロゾロと衛士や騎士たちが飛びだしてくる。
「ロシュ公爵令嬢!」
エリザベートはすぐにキラキラしい騎士たちに囲まれた。雇われの警備員的な衛士と違い、騎士の奴らは自分か親が領地持ちで、馬を飼う余裕のある者たちばかりだ。当然貴族か金持ちの坊ちゃんで、見目麗しく品もいい。
婚約破棄されたばかりの公爵令嬢と、恋に堕ちるヤツがいるかもしれない。いろいろ大変な思いをしたロシュ公爵令嬢に、俺は最大限のいたわりスマイルを向けた。
「後のことは騎士が引き継ぎます。では!」
「あ、お待ちくだ……」
エリザベートは何か言おうとしたが、屈強な騎士たちのひとりが進みでる。
「ご安心ください、エリザベート様。われわれが公爵家までお送りします」
おうおう、みんなもう狙っちゃってんの?横並びで抜け駆けなしよってか、俺には関係ねぇけど。
俺はシュタタッとその場を離れ、まずは詰め所で衛士長に状況報告をしたついでに、明日の休暇をもぎとった。
(今夜の読書はやめにして、明日図書館でゆーっくり過ごすかぁ……)
力を使ったから今日はもう眠い。ベマ戦記は王城図書館で読むことにして、宿舎でかるくシャワーを浴びた俺はさっさと寝た。
ようやく名前が呼ばれました、黒猫獣人のクロウ君です。





