まだ名前はない俺
【登場人物】
エリザベート・ロッシュハウト 公爵令嬢
俺 黒ヒョウを守護獣に持つ猫型獣人
ラウル殿下 ロックガルド王国の王太子
ミア・カーミス男爵令嬢
「エリザベート、きみとの婚約は破棄させてもらう!」
城の大広間に王太子であるラウル殿下の声が響き、扉の前で警備をしていた衛士の俺は、内心天を仰いだ。
(うわちゃぁ~これ残業確定じゃん。帰ったら〝ベマ戦記〟の続き読むの楽しみにしてたのに)
そして耳が垂れたり尻尾がぷらりと動かないよう、気をひきしめた。人間の城で働く猫型獣人の俺は、そんなことまで気を使う。
ロックガルドは人間たちの王国だが獣人には理解があり、城でもあちこちで獣人を見かける。
俺はその中でも小柄なほうで、顔立ちもどちらかというとかわいらしいファニーフェイスだ。
黒い毛並みに金の瞳を持つ俺は、王女殿下のお茶会には必ず衛士として呼ばれるから、舞踏会の警備に駆りだされたのもきっとその辺が理由だろう。
獣人だからそれなりに腕っぷしには自信があるんだけどな。
そんな俺が城で衛士をしている理由のひとつに、「王城図書館を自由に利用できる」ことがある。
本は買うと高いし場所をとるから、シリーズ物なんて宿舎暮らしの俺には揃えられない。
一度に十冊まで借りられて読み放題、マジ最高!
趣味を持つならこういう金のかからないものに限る。
図書館には法律や学術書みたいな本ばかりでなく、城で働く女官たちも借りにくるから、行儀作法やマナーの教本にロマンス小説まである。
つまりラインナップが豊富だ。
俺はいま戦記物にハマって、片っ端から読みあさっている。
(ベマ湿原に陣を展開した軍師リューンが、いかに不利な戦況を打開するか……ってとこなんだよなぁ)
「きみのまったく表情が変わらない、人形のような顔にはもううんざりだ!」
おっといけね、仕事仕事。
きょうはラウル殿下が十八歳を迎えた誕生日で、彼の成人と立太子を祝う記念祝賀会が開かれている。
大広間で華々しく開催される舞踏会では、殿下が婚約者であるロッシュハウト公爵令嬢エリザベートの手をとり、ダンスを披露するはずだった。
白いドレスに身を包んだエリザベートはプラチナブロンドに抜けるような白い肌、青い瞳は昔雪原で見かけた狼を思いださせる。
こんなときでも堂々としてて気品のある女だ。
大広間はシン……と静まりかえり、だれもが凍りついたように動きを止めた。
さきほどまで流れていた音楽もピタリとやみ、ラウル殿下は朗々と言葉を続ける。
「私はいまやリックガルドの王太子、この身命に賭して真実の愛を貫き通すと誓う!」
おいおい、殿下ってば立太子して即、命を賭けちゃったよ。壇上の国王陛下もぼうぜんとしちゃってる。
だって王太子になったばかりの一人息子が、盛大にやらかしちゃったもんな。
ロッシュハウト公爵は治水工事の遅れで、まだ領地にいるため参加していない。いたら決闘もんだ。
よけいな仕事が増えないよう、俺は読書の神に祈った。
「……殿下、いけません!」
こぼれんばかりの大きな瞳に涙をため、か細いがはっきり聞こえる声をだすのは栗色の髪に美しい緑の瞳を持つ少女だ。
いつのまにか王太子のそばに立ち、頭を振ってぶるぶる震えている。ええっと、あれはたしか……。
「カーミス男爵令嬢!」
そうそう、そんな名前。ラウル殿下は彼女の姿を目にして、とろけるような笑顔になった。
大股でスタスタと歩み寄り、彼女の手をとるとその場でひざまづく。
「親愛なるミア、あなたでないとダメなのです。どうか私の妃になってください」
「殿下……そんな、あ……あ……私なんとお答えすれば」
芝居がかったしぐさでミアが、とられてないほうの左手を頬にあてる。ラウル殿下は切なげに眉を寄せて彼女を見上げ、うっとりするような甘い声でささやく。
「どうかミア、『はい』と」
つかのま見つめあうふたり。
男爵令嬢はおずおずと頬から左手を降ろし、王太子の手に両手をのせて、やっぱり小さなか細い声で答えた。
「……はい」
「ありがとう、ミア!必ず幸せにすると誓う!」
感極まったようすでラウル殿下が彼女の両手にキスを落とし、立ちあがるとその細い体をギュッと抱きしめた。
殿下の取り巻きだった連中や、ミアとよくつるんでいた伯爵令嬢たちが、ワッと歓声をあげ拍手で盛りあげる。
「おめでとうございます、ラウル殿下!」
「おめでとうございます、ミア様!」
「真実の愛を見つけられたおふたりに祝福を!」
そりゃ王太子殿下だもんな、告白が断られるわけないじゃん。
カーミス男爵令嬢は文句なしの美少女だが、オドオドとした小動物みたいな動きをする。
人目を惹くというよりは、チリ……とした違和感を感じさせる。
なんだか挙動不審なので、衛士の俺も王城で見かける彼女には注意していた。
たぶんラウル殿下も最初はそれで彼女に気づいたのだろう。
あの殿下、もともと神経質だしな。
一方、ロッシュハウト公爵令嬢のエリザベートは、彫像のように立ちつくしたまま微動だにしない。
この令嬢、「笑っているところを見たことがない」だの「まさしく氷の令嬢」だの「生き人形」だの、陰口を叩かれるぐらい口数が少なく表情がまったく変わらない。
ときおり俺が仕事をしていると、中庭で優雅にラウル殿下とお茶を飲むところを見かけたが、彼女が楽しそうに笑うことはなかった。
冷たさも感じさせる人形のような端正な顔立ちは、俺はけっこう好みだけどね。
ラウル殿下のほうがむしろ、彼女の顔色をうかがってイライラしていた。
王族の彼はいつもまわりに人がいて、何くれと世話を焼かれるのに慣れている。
エリザベートはただそこにいるだけだ。婚約者だからとまわりが遠慮して、ふたりきりにしたのがかえって良くなかった。
イライラしているラウル殿下と、無言で静かにお茶を飲むエリザベートのまわりには、冷え切った空気がいつも流れていた。
その点、カーミス男爵令嬢はソツがなかった。
「殿下ぁ、お顔の色が優れませんわ。ここは少し風が冷たいですし、お部屋に入りませんか?」
「ああ、そうだな」
彼がうなずくだけで「殿下は私とお部屋で過ごすそうよ」とまわりを動かした。
ふたりきりではないのだから、何らやましいことはない。
けれどふたりがいっしょに過ごす時間は確実に増えていき、いつも自分を持ちあげて優しく気遣う彼女に、ラウル殿下がどんどん惚れこんでいった。
まぁあの令嬢、メイドや下働き、俺たち衛士に対する態度はなってないから、妃殿下となっても城で愛されるかはわからんけど。
目の前で婚約者に茶番をやらかされても、ロッシュハウト公爵令嬢はとても静かだった。あ、破棄したばかりだから元婚約者か。
青ざめるでもなく泣きわめくでもなく、嫉妬に顔を歪ませることもなく、その場できれいなカーテシーをする。さすが体幹しっかりしてんな。
「かしこまりました。わたくしはこの場にふさわしくないようですから失礼いたします」
そのままエリザベートはきびすを返し、振り向くことなく退場する。
「ふん、最後まで表情の変わらないつまらぬ女だ」
王太子殿下、その辺にしとこうよ。扉のところにいる俺にまで聞こえちゃってるよ。
大広間から退場する瞬間、彼女は楽隊の指揮者をちらりとみた。
彼女と目が合った指揮者はハッとして背筋を伸ばし、タクトを振りはじめる。
ロッシュハウト公爵令嬢の退場に合わせ大広間には音楽が流れはじめ、中央ではラウル殿下とカーミス男爵令嬢が幸せそうに踊る。
まるですべてが予定通り、何事もなかったかのように。
(あいつらにそこまでしてやることねぇのに)
公爵令嬢は無表情なだけで、ちゃんと気配りのできる女だってのは俺にも分かった。
また顔を正面に戻したエリザベートは、つんと澄ました顔のままで扉をすり抜けようとして。
俺と目が合った。
(え?)
その瞬間、俺は心臓が止まるかと思った。
大きく目を見開いた彼女はみるみる頬を紅潮させ、潤んだ青い瞳で俺を見つめ、めちゃめちゃ嬉しそうな微笑みを浮かべる。
なんつーか、人形が〝生きた人間〟になった瞬間だった。
名前はいちおう考えてます。「モブ」ではないです。
猫じゃらし様の企画「獣人春の恋祭り」参加作品。