09.破棄の代償
「本当に、ヴィクトーリア嬢との婚約を破棄するつもりか」
公城の最奥部、公王の執務室に呼び出され、渋り切った顔の父王にそう問われて、公太子は自信満々に答えた。
「もちろんそのつもりです。二言はありません。
あんな粗野な女など我が妻として、我が公爵家の妃として相応しくありません!もっと相応しき貴顕の血筋をこそ娶るべきです!」
自信に満ちたその顔を見て、後継者として手塩にかけて育てたはずの男が実は何ひとつ理解していなかったのだと、公王は理解せざるを得なかった。
「おまえは、我が国を滅ぼすつもりなのだな」
「………は?父上は何を仰せなのですか?」
「東方辺境伯がこのまま引き下がるはずがないことくらい、解らんのか?」
「もしもごちゃごちゃと不満を述べたてるようであれば、公王家の威光をもって黙らせれば済むではありませんか」
やはり公太子は解っていない。
公王家と辺境伯家が対等な力関係だということが。
「では、聞こうか。もうここ十数年も我が国の軍事を一手に引き受け続けている、我が国最高の軍事力を抱えて我が国最大の領土を持つ、東方辺境伯エステルハージ家を如何にして押さえるか………いや、違うな。公王家の威光とやらでどうやれば押えられるのか、果たして抑えられるものか、そなたの考えを聞こう」
クラウスは、ちょっと何言ってるか分かんないといった表情を少しだけ浮かべたあと、真顔で答えた。
「そんなもの、我が国の筆頭貴族である四大侯爵家と北方辺境伯、南方辺境伯の軍勢を結集し、もしも足りないようなら他の貴族たちの私兵も拠出させれば良いでしょう?東方辺境伯がどれほどの軍勢を持つかなど考えるまでもなく、一家門と他の全家門との戦いになるのですから、問題なく討ち滅ぼせるでしょう!」
「……………バカめ」
「は?」
「バカめ、と言ったのだ」
公王はやれやれ、といった様子で冷めた目を愚息に向ける。
「四大侯爵家で軍勢を持つのは公都防衛を担うグーゼンバウアー家のみ、兵数は10万に満たぬ。北方辺境伯はブロイスやルーシの侵攻に備え、南方辺境伯はエトルリアと交戦中でどちらも一兵も動かせぬわ。そして他の貴族たちの持つのはほとんどが私兵に過ぎず、常備兵力はそれぞれ万に満たぬであろうよ」
そこで公王はわざわざ言葉を切って、またしても愚息に蔑んだ目を向ける。
その目を向けられるたび、クラウスの心が冷えていく。
「我が国が国家として常備する兵力は30万といったところか。予備兵まで招集しても40万には届かぬであろうな」
「そ、それだけあれば充分では?」
「百万だ」
「………は?」
「昨年報告のあった東方辺境伯の保有兵力だ」
ひゃくまん。
公国の常備兵力の3倍以上。
その事実に気付いて、クラウスの心がますます冷える。
「東方辺境伯はそれだけの兵力を有し、北方や南方にも援兵しておる。その上で仇敵マジャルを抑え、さらに魔獣や魔物の討伐隊まで組んでおる。対して公国兵力はもう10年は実戦を経験しておらぬ」
「…………。」
「戦慣れした多数の軍勢を、戦の経験のない少数の兵でどうやって抑えるのだ?あまつさえ『問題なく討ち滅ぼせる』だと?世迷い言も大概にいたせ」
「そ、そんな………ではなぜ東方辺境伯は反乱を」
「そこで“血の盟約”が活きるのだ」
つまり、公王家が辺境伯家を尊重して対等と扱う限り、辺境伯家は反乱を起こすことなく未来永劫公王家に忠誠を誓う。それこそが“血の盟約”である。それを次期公王であるクラウスが独断で一方的に破棄したのだ。
それが何を意味するか、さすがにクラウスでも分かる。東方辺境伯家の離叛である。
「そもそもの話、この状況で他の貴族たちが我が家に与すると何故言い切れる?」
「え、それは━━」
「そなたがヴィクトーリア嬢へ理不尽な婚約破棄を突きつけ、決闘を申し込ませた上で卑怯にも母系の代理人を立てて勝利を掠め取ったこと、この城で働く多くの貴族たちが目にしておる」
「ひ、卑怯などと」
クラウスがタマラに決闘を受けさせたのは、それが受けなければならないものだったからだが、母系の縁者を代理人に立てたのはクラウスだ。どうしてもヴィクトーリアに勝てる代理人を立てたくてタマラから親族の情報を事細かに聞き出し、ジークムントと血縁関係にあることを確認した上で貴族典範を読み込んで、母系の代理人が禁止されていないことに目をつけたのだ。
そしてジークムントを呼び出して代理人を受けさせたのもクラウスだった。タマラとジークムントはそれまで一面識もなかったのに、そして母系の縁者であることを理由に彼が渋ったのにも関わらず、公太子として命じてまで無理に受けさせたのだ。
「代理人は男系の縁者に限る。暗黙の了解とはいえそれが習わしだ。明確に禁止されておらぬゆえに認める他はなかったが、あの場にいた多くのものが不満を抱いたであろうな」
「ですが、しかし」
「取り決めに無いから何をやっても許される、とでも言うつもりか?それを『卑怯』と言わずして何と言うのだ?」
言われて当然の指摘に、ついにクラウスは黙り込む。
「しかもそなた、魔術を用いたであろう?」
だがそう言われて、クラウスは驚きに目を瞠る。
「ああも多くの者の眼前で、よくもそのような恥知らずの不正をやれたものよな」
「わ、私は━━」
「やっておらぬ、などと申すなよ?あの場には魔術師団の団長や副団長もおったのだぞ?魔力残滓を辿れば誰がいつどこで何の魔術を行使したかなど、隠しおおせるものではないわ」
確かにクラウスは魔術を用いた。
それは五色の魔力属性のいずれにも属さない“無属性魔術”と呼ばれる術式のひとつで、[停止]の術式であった。この術式は効果時間は一瞬だけだが、対象の動きを止めることができる。
彼はヴィクトーリアがなかなか敗北しないことに苛立ち、万が一勝たれてしまっては困ると感じ、焦って咄嗟に詠唱してしまったのだ。まさかあれほど劇的な効果が得られるとは思いもよらなかったが、二度の使用でヴィクトーリアを瀕死に追い込めたことで、誰もクラウスが魔術を使ったことを気にかける余裕などあるはずもない、と思っていたのだが。
「あ……あ……あ……」
「フン。もはや否定も言い訳も出せぬか」
公王の目はどこまでも冷たくなる。もはやそれは息子に向けるものではなく、汚らわしい罪人を見る目つきであった。
「理不尽に婚約破棄され血の盟約までも反故にされた辺境伯家に同調する貴族は多かろうて。しかも我が公王家が卑怯にも母系の代理人を立てた挙げ句、魔術行使の不正までやってのけたのだ。
そのような卑怯な王家に、それでも味方してくれる家門があるといいがな」
もはやクラウスは蒼白になって震えるばかりである。
「ああ、それとな」
トドメと言わんばかりに公王が口を開く。
「もしもエステルハージ家が全領全軍を挙げてマジャルに降ったら、どうなると思う?」
「……………ひっ!?」
もはや掠れた悲鳴しか出なかった。
そんなことになれば、アウストリーの全土はなすすべ無くマジャル軍の侵略者たちに蹂躙されてしまうだろう。古代ロマヌム帝国の後裔を称する八裔国のひとつ、栄えあるアウストリー公国の命運も儚く潰えてしまうことになる。しかもその破滅の侵掠の先頭に立つのはエステルハージ家の当主ウルリヒと、その娘のヴィクトーリアになるのだ。
そこまで想像して、ようやくクラウスは自分が何をやらかしたのか、明確に理解することになった。
「だからいつもあれほど言っておったのだ。ヴィクトーリア嬢を大事にいたせ、東方辺境伯家を蔑ろにするな、と」
まあ今さら気付いたところで詮ないことだがな、と公王は力なく嗤った。クラウスは一言も返せなかった。
少し長めになりましたが、公太子が何を「やらかした」のか、全部詰めました。