入れ墨の男
──どうしてこうなったの。
両手足を縛られ猿ぐつわをかまされた状態で、黒く湿った床に転がされながら、ルナティアは自問した。
*
翌朝目が覚めたら地獄だった。
昨夜、興奮冷めやらぬまま眠りについて、そこからの記憶がない。というより、今の状況を省みるに、どうやら自分は、眠っている間にどこかへと連れ去られたらしい。
目元は薄い布のようなもので覆われ、口には猿ぐつわをかまされている。おまけにロープで両手足を縛られ、冷たく湿った床に頬をつけている。状況としては最悪だ。
布ごしに自然な明るさが感じられるので、おそらく今の時刻は朝だ。
小鳥の囀りと──葉の擦れるような音も聞こえる気がするので、森の中だろうか。
ガタゴトと、固い木板ごしに感じる振動は、馬車の揺れだろう。森の中を走っているようだ。
とにかく、顔を洗いたい。歯を磨きたい。お腹も空いた。
このままでは、身体をあちこちぶつけて痛めてしまうし、真新しい法術士の衣装も汚れて──
──って、服、着てない!…じゃなくて、寝間着だわっ!
まさかのパジャマである。服もなければ、杖もない。
──こんな格好で外に出ることになるなんて…これじゃ法術も使えないし。不潔だし。…最悪だわ。
荷馬車か何かの荷台に転がされているのだろうか、周りに人の気配は感じられない。ティア一人だ。ということは、彼女もいない。
昨日出会ったばかりの、とても頼りがいのある女性の姿を思い出して、途端にティアは恋しくなってしまった。
彼女は、自分を探しに来てくれるだろうか。
このまま何時間、否、もしかしたら何日も、この状態が続くのかもしれない。乱暴されやしないか、夜になったら魔獣の襲撃もあるのではないか。
こんな扱いを受ける謂れは、ティアにはこれっぽっちもないはずなのだが、今は腹を立てるより切羽詰まった気持ちの方が大きい。
──オリビアさん…
お守りのようにその名を呼ぼうにも、それすら出来ないのは辛かった。
翌朝起きたらティアがいなかった。
荷物は置いてあったので、先に下に降りたか、散歩にでも出かけたのだろうと思い、さして気にも留めずオリビアは一人食堂へ向かう。
注文したメニューを啜っていると、同じように朝食をとりに来たのであろう客の一人が声をかけてきた。
「おい。」
いささか乱暴に、しかし周りの客への配慮はされた強さで、バン、とテーブルに置かれた手をついと見やる。
袖の長い服から覗く手の甲に、入れ墨のような紋様がちらりと見えた。
「聞いているのか」
ずずず、とお椀をすすりつつ、そのまま目線を上にやる。
若い男だった。青年──いや、少年か。フードを目深に被っている為はっきりとは分からないが、オリビアよりも背は低い。身体の線の細さも、病的なのか若さ故なのか──いまいち判別がつかない。
ゆったりとした黒の衣装には、所々深緑色の糸で刺繍が施されている。手の入れ墨に似た模様に見えた。
さらに視線を上にやると、フードの下に形の良い鼻と唇が見え、細い首筋には少し長めの、褪せたような色の髪がかかっていた。
瞳の色は──
「おい。返事くらいしたらどうなんだ」
彼の持つ色彩に、僅かな既視感を覚えたところで、思考を邪魔された。
声の主は威圧的にこちらを見下ろしてはいるが、その声にも重さがない。この時点でオリビアは、完全に相手のことを舐めくさっていた。
彼女は椀を置き、ついと向かいの席を顎で指した。
「とりあえず座ったら?私に話があるんでしょ。ちょうどいいや、連れがいなくて暇してたから。」
「お前…もしかして、気がついていないのか?」
「何が?」
彼はオリビアの返答に意表を突かれた様に黙りこくった。しばし煩悶するような様子を見せてから、慌ただしく前の席に着く。そして身を乗り出した。
「君の連れは、攫われたんだぞ!」
オリビアは少し目を瞠ったが、目の前の彼が自分よりよほど動揺しているように見えるせいか、逆にすっと冷静になった。
「…なんで君が、そのことを知ってるのかな。」
彼女の落ち着いた様子に、男はもどかしげに口元を歪める。
目を閉じ、そして一つ息を吐くと、先ほどよりかは幾分落ち着いた様子で、話を切り出した。
「…昨日の昼間、君たちを襲った連中の中に俺もいた。でも目的のために一緒に行動していただけで、仲間っていうわけじゃない」
ここで彼はいったん話を止めた。窺うようにオリビアの方を見るが、彼女の促す視線を受けて、先を続ける。
「君の連れを攫ったのはあいつらだ。奴らのところまで案内するから、連中を始末してほしい。利害は一致するはずだ。」
「……。」
オリビアは黙って渋茶をすすった。向かいの彼は静かに座ってはいるが、食い入るようにこちらを見ている。まるで急かしているようだ。
もしティアが誘拐されたというのが本当なら、焦りたいのはこっちだというのに。
「…色々と突っ込みたい事はあるんだけど。昨日の一団の中にあんたもいたなら、私達を攻撃してきたってことでしょ?なら敵同士だ。そんな奴と行動を共にする気にはなれないね」
そう告げると、途端に彼は渋面になった。
目線を左にやりつつ、何か思い出すようなそぶりをする。
「森で魔獣を斬っただろ。あれは俺が使役していたんだ。あれを使って奴等を蹴散らして、俺は連中から逃げるつもりだった。
…でもそこで、邪魔が入った。」
彼はオリビアを見つめた。
「あれ。邪魔って…私?というか、あれ、魔獣だったのか…いやでもあれ、明らかにティアを狙ってたような…いや、どうだったかな…」
この一帯は森林地帯で、そのほとんどが魔の森だ。
魔の森ではその名の如く、魔物が多く出るが、昼間はほぼ姿を現さない。オリビアはその形状をよく確認もせずに、普通の獣だと思って斬ったのだ。
狩りの獲物が見つからず辟易していたところに現れた大物だったので、喜び勇んで突っ込んでいったというのも大きいが──
──もうちょっとこの大雑把な性格を直した方がいいな。
下手すれば命取りになる。
魔獣は通常の獣と違って特別な能力を持つものもいるという。
オリビアは軽く反省したが、だからといってこの少年──青年?──に責められる謂れはないはずである。獰猛な獣が非力な少女の近くにいれば危険だと思うのは当たり前だ。
そもそも──
「…魔獣を使役するなんて話、聞いたことないんだけど。」
オリビアが胡乱な目を向けると、彼は溜め息を吐いた。
「証拠は──今は見せられないが。逆に言うと、俺にはこの能力以外何もないんだ。
だからこの森一帯で、彼女を待ち伏せするために二手に分かれて行動していたあの時しか、俺が奴らを撒いて逃げるタイミングはないと思ったんだ」
彼女、とは、ティアのことだろう。
「…あいつらがティアを狙った理由に心当たりは?」
「法術士としての能力だよ。でもどうせ碌な目的じゃないさ」
半ば吐き捨てるように彼は言った。
「…ふぅん。ついでにあんたが連中と組んでた目的は?ルナティアを巻き込まないっていうのなら、手を貸してもいい」
「ついでかよ。それは今は言えないが、奴らを始末した後で話す。その時に俺が君たちにとって危険だと判断したなら、斬ってくれてもいい」
彼の目的が、他の連中と同じくティアの能力だというなら、面倒事を避ける為にも手は貸さない方がいいだろう。オリビア一人でティアを助け出す方がましである。
当てはないが。
「うーん…」
状況だけ見ると彼の言動はいかにも怪しく、敵の罠の可能性もあるわけなのだが、どうにもしっくりこない。
罠や演技なのだとしたら、話がややこしすぎるのだ。何故敵の一味であるということをわざわざ明かすのか。
それに見たところ、彼の立場は怪しいが、彼の態度は正直だ。
等身大の少年のような反応に見える。オリビアが考えているより、彼は若いのかもしれない。
魔獣使いの能力というのにも興味がある。
つまるところ、オリビアはこの少年のような青年のような男のことを、ちょっと気に入ってしまったのである。
「一つ言っておくけど、私は人は斬らないよ。だから君のことも命の保証はするから、そこは安心して。その代わり、賊退治は君にも手伝ってもらう。変な態度を見せたら、容赦はしない」
オリビアは淡々と条件を述べた。
「…それでいい」
彼は頷く。
「気になることは沢山あるけど、とりあえず今は時間が惜しい。歩きながら話そう。奴らの移動手段は?どれくらいで追いつけそう?」
「…あいつらは馬車で移動しているが、人目を避ける為、森の中を通っているから、普通より時間がかかる。
目的地はサンタナだ。こっちは徒歩でも、街道を行けば先回りが出来る。
奴らがちょうど森を抜ける地点で待ち伏せをして、奇襲をかける作戦だ。」
立ち上がりかけていたオリビアは、それを聞いて再び座り直した。
なるほど、焦ったところであまり意味はないということだ。
彼女は気を取り直して、テーブルの端に並ぶ調味料の瓶のひとつを手に取り、器に振りかけた。
「…さっきから気になっていたんだが、それ、何だ?」
「ん、これ?山の実のお茶漬けだよ。山椒が利いてて美味しいんだ。この辺りの米って固いから、こういうメニューは有り難いよね。消化にもいいから、朝食にもちょうど良いし。ん~~っ、美味い!」
幸せそうに緩むオリビアの顔をじっと見て、フードの彼はぽつりと告げた。
「君。…女だよな?」
彼女はにっこり笑顔でそれに答える。
「腹ごしらえが済んだら、出発するよ」