シュタルクヘルト家【6】
「旦那様とのお話はいかがでしたか?」
父の部屋から出てすぐカリーダは気遣う様に声を掛けてくる。アリーシャが何も答えずにいると、カリーダは赤く腫れたアリーシャの頬から何かを察したのか「お部屋に案内します」とだけ言って歩き出したので、カリーダの背を追いかける様にアリーシャも後に続く。先程父の部屋まで案内してくれた従僕と違い、体調が悪いアリーシャに考慮してくれたのか、カリーダは歩幅を緩めてアリーシャに合わせるだけではなく、階段では手を貸してくれた。目的の階に着いたアリーシャが謝ると、カリーダは「執事として当然のことをしたまでです」と答えただけであった。
カリーダが用意したという部屋は、元は数年前に嫁いだ姉が使っていた部屋だった。慰問に行くまでにアリーシャが使っていた部屋は、アリーシャ亡き後、物置部屋にしてしまったらしい。
「以前使っていた部屋に置いていたお嬢様の荷物は、全て処分する様に旦那様に言われていましたが、私が保管していました」
部屋には姉が使っていた豪華な家具や嫁ぐ時に置いていった服や本、小物などに混ざって、アリーシャの部屋にあった服や小物が置かれていた。ほとんどが処分してもいい物ばかりだったが、カリーダが大切に保管してくれていたのだろう。その証拠にどれもアリーシャが最後に見た時の状態のまま、傷みも汚れも埃一つさえ無かった。
「ありがとうございます、カリーダさん。捨ててしまって良かったのに……」
「慰問先の軍事医療施設から運ばれたご遺体の中にお嬢様と思しきご遺体が無かったと聞かされてから、私はどこかでお嬢様が生きていると信じておりました。いつかこの屋敷にお戻りになられることも……。その時に困らぬ様にこうして保管しておりました。全て私の独断です」
頭を下げるカリーダにアリーシャは礼を言うと、疲れているから休みたいと話す。カリーダは湯浴みと父に叩かれた頬を冷やすタオル、少しでも何か口にした方がいいと軽食の用意をすると申し出てくれたが、それより一刻も早く一人になりたかったのでアリーシャは全て固辞する。
どこか心配そうなカリーダが部屋を出て行くと、アリーシャはようやく肩の力を抜くことが出来たのであった。
「ふぅ……」
靴を脱ぐと、アリーシャはそのままベッドに寝転ぶ。大きく息を吐き出すと、少しだけ身体が軽くなった様な気さえした。
(オルキデア様……)
服の上から胸元のネックレスに触れながらアリーシャは心の中で呟く。生まれ故郷に戻ってきて、住み慣れた屋敷に戻って来ても心は沈んだまま。
父の言う通り、ここでは飢えることもなければ、雨露を凌ぐ家もある。新品じゃなくてもいいなら有名なブランドの洋服や宝飾品、化粧品もある。
それでもここにはアリーシャが愛する人がいない。アリーシャを愛してくれる人もいない。
生まれ育った故郷でも苦労する生活でもいい。高価な物が買えなくてもいい。
ただそこにオルキデアが居てくれるのならーー。
「私のことが嫌いになったんですか? 不要になったんですか? 邪魔になったんですか? それとも……他に好きな人が出来たんですか?」
その問いに答えてくれる者は誰もいない。少なくともこの国には。
アリーシャがそっと目を閉じると、菫色の瞳から涙が零れる。降り始めた雨の様にゆっくりと落ちていた涙は、やがて土砂降りの涙雨となってアリーシャの頬を濡らしたのであった。
そんなアリーシャの姿を傍観するかの様に、薄情な冬の月が皓々と差し続ける。
アリーシャの雨は止むことはなく、いつまでも降り続けたのであった。