別れと断髪【1】
アリーシャを寝かせてから数時間後。
明け方近くになって、ようやく玄関の呼び鈴が鳴らされた。
「この様な時間に失礼します。ペテルギウス大将の使いでやって来ました」
「お前は……!? 久しいな。息災だったか?」
「はい。弟の件では大変お世話になりました。ラナンキュラス少将」
「いや。そうでもないさ。中に入ってくれ、アリーシャは二階の自室に寝かせている」
「失礼します」
そう言って軽く一礼すると、ペテルギウス大将の使いの男は小柄な人間なら余裕で入りそうな大きなスーツケースを手に屋敷に入って来る。オルキデアは先に立つと、アリーシャの部屋まで男を案内したのだった。
黒いシャツに紺のズボンという清潔感のある私服姿であり、物腰も穏やかではあるが、油断も隙も見せないこの男は、かつてオルキデアの元にいた部下であった。
何年か前に軍の諜報部隊に所属していた末の弟を不慮の事故で亡くした後、傷心の母親を慰めるため、しばらく軍を離れていた。
母親が回復してからは軍に戻ってきたが、その際にオルキデアの元から離れたので会うのはそれ以来であった。
「今はペテルギウス大将の元に?」
「あの後はしばらく国境沿いの基地に転属になりましたが、ペテルギウス大将に引き抜かれまして」
「母君は息災か?」
「おかげさまで息災です。最近ではハルモニアに住む友人が出来たそうで、文通が楽しいようです。身分を気にせず、気軽に美術に関する話を出来る者が身近にいないもので……。無学なわたしでは力不足ですし」
「それは良かった」
そんなことを話しながら、二人はアリーシャが寝ている部屋へと辿り着く。
「彼女がアリーシャさんですね」
「ああ」
「ペテルギウス大将から聞いていた通りのたおやかな女性ですね。これなら、この中に入りそうです」
そう言って、ペテルギウスの使いの者は音を立てないように持っていた大型のスーツケースを床に降ろすと蓋を開けた。
中も入っていない空っぽのスーツケースの中を軽く整えてもらうと、オルキデアはベッドから抱き上げたアリーシャを中に入れたのだった。
華奢な身体を横たえ、手足を曲げて身を丸めれば、スーツケースにピッタリ収まる。
身動きが取れないので少し窮屈かもしれないが、王都から出るまでの辛抱だ。
寒くないように身体を毛布で包むと、最後に穏やかな表情で眠り続ける愛しい妻の頬に触れる。
(アリーシャ……)
初めて出会った頃に比べて、やや肉付きがよくなった白磁の柔肌をじっくり堪能すると軽く頬に口づけを落とす。
空気が入るように少しだけ隙間を作ると、スーツケースの蓋を閉めたのだった。
使いの者に手を貸してアリーシャの服を詰めたバッグを持つと、屋敷の玄関まで二人で慎重にスーツケースを運ぶ。
玄関前には使いの者の部下が待っており、アリーシャが入ったスーツケースを丁重に受け取ってくれたのだった。
「彼女のことは……」
「大丈夫です。わたしたちが必ずやシュタルクヘルトまで送り届けます」
そうして部下たちが車に乗り込み、使いの男も車に乗ろうとしたところで、不意に見送りに出ていたオルキデアを振り向く。
「本当にこれでいいのですか?」
使いの男の紺色の両目は心配そうな色を湛えていた。
オルキデアは頷くと、寂しげな笑みを浮かべたのだった。