風邪【4】
シュタルクヘルトで生まれ育ったアリーシャには、ペルフェクトでの身分証が存在しない。
身分証があれば、医療機関だけではなく、教育機関への入学や身分証の提示を伴う様な事もーー今では滅多にないが選挙権の取得も。可能となる。
シュタルクヘルトからやって来た者でも、厳重な審査の上、ペルフェクト国民としての身分証を発行してもらえる。
だがアリーシャの場合はその審査の過程で、正体がアリサ・リリーベル・シュタルクヘルトだとバレてしまう可能性があった。
そうなれば、これまでの苦労が水の泡となる。
それどころか、オルキデアとの今の関係を引き裂かれるかもしれない。
そう考えると、未だに申請が出来なかった。
「それなら、郊外の軍事病院はどうだ? あそこなら、お前の知り合いがいるんだろう?」
「郊外に行くには車が必要だが、ここに来る前にコーンウォール家に寄ったら、今日はメイソン氏が仕事で使っていると、マルテに言われてな。
さすがに体調の悪いアリーシャを、長時間、バスと電車には乗せられない」
車を使わずに軍事病院に行くには、バスと電車を使わなければならない。
車を飛ばせば二時間もかからずに軍事病院に着くが、バスと電車を使うとなると、乗り継ぎの時間も含めて、その倍はかかるだろう。
健康な時ならそれもいいかもしれないが、今の体調でアリーシャを連れて歩いたら、どうなるかわからない。
最悪は、体調が悪化するかもしれない。
「そうですか。父が……」
「こんな事なら、早めにアリーシャの身分証を申請しておくべきだった」
今更、後悔しても遅いが、こうなってしまうと、アリーシャの正体が知られてしまうのを覚悟してでも、身分証を用意しておくべきだった。
風邪で寝込んでいる愛妻を前にして、見守る事しか出来ないのが、こんなにももどかしいとは思わなかった。
「軍部から車を借りてくるか?」
クシャースラの申し出にしばし逡巡するが、やがて「いや」と首を振る。
「そこまで周りに迷惑をかけたくない。
とりあえず今日一日、様子を見るつもりだ。それでも駄目なら、明日病院に連れて行く」
「そうか……。何かあれば声を掛けてくれ。軍部から車を借りてくるからさ」
「私も。看病に行きます」
「助かる。だが、そうなる前に俺の方でなんとかするさ。お前たちはせっかくの夫婦水入らずの時間を過ごしてくれ」
心配そうな二人と別れて、オルキデアは屋敷に戻る。
時折、背後からつけられている様な気配を感じていた。
屋敷に戻る前に、何食わぬ顔で近くの店舗のガラスのショーウィンドウを見ると、建物の影に隠れそこなったエンブレムがキラリと光っていた。
(どうやら、つけられているのは間違いないようだな)
顔は見えないが、体格からして屋敷の前に居た兵だろう。
アリーシャの正体を勘づかれたかと思ったが、狙いは自分だと分かって、そっと肩の荷が降りる。
(今はいい。そんな事より、アリーシャだ)
屋敷に入って厨房に荷物を置くと、すぐにアリーシャの部屋に向かう。
音を立てないようにそっと扉を開けて中に入ると、愛妻は出掛けた時と寸分違わず、ベッドの上で静かに寝息を立てていたのだった。
その様子にオルキデアはホッと胸を撫で下ろすと、電話機のメモを回収して部屋を出る。
今の内に、屋敷の事を全部済ませてしまおうと思ったのだった。
その時、ふと思い出した事があって、自室へと戻る。
机の引き出しを開けると、中から青い布張りの小さな箱を取り出したのだった。
(見つけた時、どんな顔をするかな……)
フッと笑うと、アリーシャの部屋へと取って返す。
小箱を電話機の側に置くと、今度こそ部屋を出たのだった。