推しがいた。
目の前に推しがいた。
うちの父は世界中を旅している。旅行ではなく、仕事ではあるのだが、数ヶ月に1度帰宅した時にはお土産を大量に買って僕に渡してくるのだ。
いつも家にいないから、その穴を埋めるように。
名前もあまり聞いたことのない地域に行くことも多く、いつもその地域の文化に関係のあるお土産を買ってくるものだから家には謎の仮面やお守り、よく分からない糸を編んだ紐、真っ赤に塗られた木製の指輪等不思議な物で溢れていた。
いつもなら何に使えばいいのかわからなくて放置してしまうのだが、一つだけ惹き付けられる物があった。
それはコップだ。
子どもが使用するような小さなコップ。表面にはなんとも言えない模様が彫ってある。父がこれを渡してくれた時に言っていた。
『これは会いたい人に会える魔法のコップらしい。自分の好きな飲み物を注いで、会いたい人のことを思い浮かべるとその人に会えるそうだ』
曖昧な言い方だったからお土産を買った現地の人の受け売りをそのまま話したのだろう。
『まじない程度だと思って、父さんに会いたくなったらこれを使っていいんだぞ』
そう言って笑っていた。
僕が会いたいのはアニメ『プリティマジカル』のヒロインの1人、アイシャ・ゾ・ドナワール・メロンだった。
だから普通にコーラを注いで願ったのだ。アイシャ・ゾ・ドナワール・メロンに会いたい、と。父のことは既に忘れていた。
もちろん期待なんてしていない。でも、小学生の時に流行った消しゴムに好きな人の名前を書いて使い切ると両想いになれる、みたいな簡単に出来るおまじないは誰でも試したくなる。
ぼけーっと自室を見渡し、変化がないことに気付いて、やっぱり子ども騙しなんて思っていた時の事だった。
「ここ、どこ?」
可愛らしいボイス。
染めたのではなく、天然の金髪。
小さく可愛らしい華奢な体。
少し触っただけで壊れてしまいそうなほど綺麗な肌。
そして、プリティマジカル作中で1番よく着ている白いワンピース。
目の前に。
推しがいた。
「...」
「ん?えっと、そこのブタ。」
可愛らしい声で豚と呼ばれたのはもちろん僕のことだ。小太りなオタク学生である僕にピッタリな名前、ではあるのだが…。
そう、アイシャ・ゾ・ドナワール・メロンちゃんは口が悪い。それに性格も。
外面はよく、まわりから愛されるキャラだったがそれは表向きの顔。本当は何かあれば悪態をつく、大人も関係なくバカにする、自分が一番可愛いから何をやっても許されると思っている、そんな女の子なのだ。
「は、はい…」
「あなたが攻撃をくらう前に空間転移魔法を使ってくれたのね、感謝はしてあげる」
こんな感じでお礼は忘れない、そんな一面もあってとある層には人気なのだった。そして僕は彼女を救ってしまったらしい。アイシャちゃんが攻撃される直前で空間転移魔法を使って逃がした男、それが僕らしいのだった。
アイシャ・ゾ・ドナワール・メロンちゃんはこの状況に驚いていないようだ。アイシャちゃんの世界では魔法なんて普通だし、これも魔法の一種だと思っているのだろう。
ちなみに、アイシャちゃんはこちらの世界に来るにあたって、きちんと3次元の容姿になっている。しかし、違和感はなく、2次元の容姿と同じ感覚に感じられるよううまく落とし込まれているのだ。
すごい技術…もうこの際さっきのおまじないがガチの魔法だったことは考えないでおこう。外国のお土産だし、日本からでたことのない僕の思考の範疇を超えたものだってあるはずだ。
ちなみに、父によると。
『効果は五分だけ、みたいなこと言ってたな。父さん、5分でお前に話したいこと伝え切れるかな(笑)』
ということなのでもう時間がない。聞きたいこととかいっぱいあるのだが、触りたいのだが、問題があった。そう、僕は女の子と会話したことがほとんどないのである。アイシャちゃんは見た目は幼いものの、大人びているところもあり、僕としては『女性』として扱える。目の前に『女の子』として現われてしまうと何も出来なくなってしまうのだ。話すのが怖い。あと、変なこと聞いて今後のアニメの展開のネタバレくらったら立ち直れない…。
アイシャちゃんは素直じゃないが、それでもいい子だと見抜いてくれた同じ魔法少女のアオバちゃんと今どんどん仲良くなっている。
『アオバちゃんのこと好きなの?』
と聞いたらそれは重大犯罪だ。
「...」
建前を全て取り去ると、正直、アイシャちゃんのおしっこが見たかった。
ひどい言い方かもしれないが、いやらしい意味はない。アニメに排泄描写がないが、魔法少女は実際にトイレをするのかどうかそれがファンとして気になっているだけだ。魔法少女という人間でありつつもそれとは外れた力を持つ女の子。排泄をしないと聞いても驚かない。あと、もし良ければおしっこが飲みたかった。
「…いや」
それを言ったらどうなるか、馬鹿でもわかる。
多分僕は死ぬ。
アニメの中だとギャグで済まされるアイシャちゃんが怒って魔法を放つシーン。まわりの魔法少女はやれやれ…という反応をしているが、僕がそれをくらえば骨も残らない。
なんとか上手いこと、遠回しにお願いしてみるしかないようだ。
「あの…おしっ…」
「なに?」
何故か分からないが睨まれた。いや、これがアイシャちゃんの素だ。まず相手を嫌うところからスタートする面倒な女の子なのだ(そこも好きだが)。女の子に睨まれても…と思うかもしれないが、先ほどのとおり対人経験があまりない僕には大ダメージである。あと最初にブタ呼ばわりされたのもちょっと傷付いてて、じわじわと心が痛んできた。推しの所業じゃなければ泣いていたかもしれない。それに小学生の時に好きな女の子からブタと呼ばれて泣いた過去を思い出すから。
こんなシーンでおしっこして、それを見せて、なんて言えるわけがなかった。あと飲むよ、とも。
もし、魔法を放たれると僕の部屋、いや、この家も消滅してしまう。下手をしたらこのあたり一帯吹き飛ぶかもしれない。魔法を防ぐ結界もないし。うちは父さんのローンがまだ残っているのに。それは避けなければならない。今僕は世界を、この家を守るための戦いをしているのだ。
「...」
そして気付く。
そもそも、僕如きがおしっこを見せてください、なんて頼んでもいいのだろうか。
公式カプ(だと僕は思っている)、アオバちゃんとの関係。百合とまではいかないが、仲良くなってきていて友達として微笑ましい姿を見せることも多い。素直じゃないアイシャちゃんは「あたしに構わないで!」とアオバちゃんを拒絶するが、面倒見のいいアオバちゃんはアイシャちゃんから離れない。
確かあれは20話だっただろうか。アイシャちゃんが初めて魔法少女同士のバトルに負けた時、1人公園で泣いているとアオバちゃんがやってくるのだ。
慰めはしない。
ただ隣で座ってるだけ。
アイシャちゃんは「笑いに来たの?」と言うが、アオバちゃんは静かに首を横に振る。そして何も言わずにそっとアイシャちゃんを抱き寄せるのだ。
そんな綺麗で澄んだ関係性に『実はアイシャちゃんは小太りの人間におしっこを採取されたことがある』という情報が加わったらそれはノイズでしかない!
これは無理難題。夢を叶えれば夢が崩れてしまう。かのアインシュタインが生涯をかけたとしても回答は見い出せないだろう。僕だってそりゃこんな状況になれば舌を出したくもなる。
僕の好きな関係性が、僕という人間の手によって崩されてしまう!
「ねえ、ブタ、聞いてるの?」
まあ、僕はブタだからいいか。
人間だったら大変だけどブタだからノーカンだし。
むしろ家畜に餌を与える的な感じだよね。
学校で飼ってる兎の飼育係になって餌あげるみたいなハートウォーミングなエピソード。
あとはどうやって頼み込むか…だけど、まずは話してみて仲良くなるところから始めるか…。コーラとかいっぱい飲ませてトイレに行くよう仕向けよう。最悪、土下座すればなんかうまいこといくだろう。バイトで得たお金もそれなりにあるし。アイシャちゃんの好物も知ってるから、それをまず渡して態度が軟化した時にお願いすればいい。それでも断られたら乳首ぐらい見せてもらおう。
これは愛だ、愛故なのだ。
「あ、あのっ…アイシャちゃん!」
目の前から推しは消えていた。
気付いたら5分経過していた。
少し揺れているアイシャちゃんが座っていた椅子。まだ温もりがある。
そう、そこに推しがいたのだ。
僕はその場で横になり、天井を見る。耳を澄ますと、カラスの鳴き声。もう夕方だった。僅かにするカレーの匂い。鳴るお腹の音。スマホを見て、静かに目を閉じる。
今日の晩御飯はカレーみたいだ。
よろしくお願いします。