伽藍堂に焔が灯る。
ひとしきりミラーナが喜び終わった頃には、カインにもいくらか余裕が戻っていた。大きく息を吸い込んで、吐く。
(落ち着け、俺)
驚愕と歓喜と、あと他にも色々なものに振り回されて、何というか、知らない感覚が身体に乗っかっている気がする。
これは何だったか、と考えて、すぐに気付く。
(疲れた、んだな。これは)
疲れ。疲労。今のカインは、そういったものを抱えているのだと考える。
でも、不思議と気持ち悪くない。常であれば、痛みの余韻と共に、状態が落ち着くまで耐えねばならぬ代物だ。こんなに気持ちよく疲れることが、人の身で出来たのかと、しみじみと実感した。
振り回すことこそやめたけれど、未だカインの手を握り締めているミラーナ。カインが目を向けると、当然のように笑顔を向けてくれて、心の奥がさわさわと微かに震える。これは……くすぐったい、というんだろうか。
「そうだ! ねえ、カイン──」
笑ったまま、ミラーナが何か閃いたように口を開く。名前を呼ばれた。
刹那。
プツン、と。
灯りが途絶えたように。あるいは糸が切れたように。
瞬き一つで景色が黒くなって、もう一度同じように瞬きをすれば、見慣れた赤い天蓋がそこにあった。視界の隅には、やはりいつもと同じ、黒い絹のカーテン。
カインは、咄嗟にがばりと身体を起こす。座っていたはずの身体は横になっていた事に、起き上がってから気がついた。今自分がいる場所を確認する。
……いつもの、場所だ。いつもの部屋だ。自分の身体に見合わない大きすぎるベッドに、広すぎて、冷たいシーツの海。無意識に、頭を押さえていた。
まだ耳に、ミラーナの声が残っている。心の中で響いている。はじめて感じた心地の良い疲労感も、ゲートに咲いていた赤薔薇の香りも、ミラーナと同じ名前をした空色の花の美しさも、全部、思い出せる。覚えてる。
これは、なんだ。
訳が分からなくなって自然と呼吸が乱れてくるカインに
「起きたか。おはよう」
何者かが知らない声で、言葉をかけた。
すぐさまそちらを見る。見たこともない大人がいる。ベッドの端に、自分がそこにいるのが当たり前だと言わんばかりに腰掛けていた。
自分が今まで見てきた男の誰よりも大きい大人だった。だけど年を何十年も重ねているようにも見えない。……青年、と言うべきなんだろうか?
青年は漆黒の髪をしている。額へ巻き付けられている赤く長いバンダナの端が、ベッドのシーツに触れていた。
そして、炎のように揺らめいているように見える、青年の紅蓮の瞳。その不思議な瞳に、青年と同じ色の髪をしたカイン自身が映し出されている。
青年の瞳は優しかった。ミラーナが向けてくれた目とは、また違った感情がそこにあるのだと、カインは自然と受け入れていた。
「悪い。まだ、俺もあんまり時間が取れるわけじゃねえんだ。だから何の説明もしてやれない。でもようやく、〝繋がった〟。俺も、お前の前に、出てこられるようになった。……今まで一人きりにして、すまなかったな」
青年の腕がぐんと伸ばされたのを見て、咄嗟にカインは身構えた。
どんな事をされるのかと恐れたカインにやって来たのは、その髪を些か乱雑に撫で付ける感触。
「今の俺に言える事はこれだけだ。いいか。決して諦めるな。絶望に屈するな。あの胸糞悪い大人どもが閉ざしたお前達の明日も、未来も、全部切り拓く。その為の俺と、俺達だ」
そうして最後に、ぽん、と優しく頭を叩かれて。
「ミラーナと仲良くな」
その穏やかな言葉を最後に、青年の気配は消えた。
勢いよく顔を上げる。
たった今まで触れていたはずの手も勿論消えていて、シーツの上にだって、青年が座っていた痕跡すらも残っていない。
いつもなら絶対にしない雑な動作で、ベッドから飛び降りた。飛び退いた、とも言える。
幼い少年一人には広すぎる部屋の中には、誰もおらず、しんと静まりかえっている。誰かが訪れていた気配などなく。常と同じように、昨日と同じ位置に着替えがあって、恐らくはもうすぐ、同じように傍仕えが朝を告げに来るのだろう。
……だけど。
「…………」
はじめて、名前を名乗った事を、覚えている。
はじめて、この名前を呼んでくれた声を、覚えている。
「……『お揃い』だって、笑っていた」
カインと同じだと、笑って、はしゃぎながら喜んだ女の子がいた事を、覚えてる。
「諦めるな、って言ってくれた」
ベッドの上で見た、自分と同じ色の髪と、不思議な煌めきをした紅蓮の瞳を、覚えている。
大きな手でこの頭を雑に撫で付けられた感触を、覚えている。
『ミラーナと仲良くな』
そう穏やかに告げてくれたのを、覚えている。
きっと大人達は言うのだろう。
そんなものは幻だと。夢で、幻覚で幻聴で、そんなものありはしないのだと嘲笑うのだろう。
だから、カインはそれを全部自分の中に秘める事にした。絶対に、誰にも、渡しなどするものかと決意した。
ただの夢などと嗤わせるものか。
ありもしない幻覚などと憐れませるものか。
聞こえるはずのない幻聴などと蔑ませるものか。
これは全部、真実だ。
地獄しか知らない幼い少年が、全てを懸けて託すに値する真実で、希望だ。
顔を上げる。
寝衣を脱ぎ捨てて、いつもの服に袖を通す。
耐える。耐えてみせる。何があっても、どんな事が起きようと。大丈夫だ。何も存在しない空っぽの身体に、ついに光が灯ったのだ。小さくて、ささやかなものだとしても、それでも、この温度があれば、決して挫けない。そんな事はしない。
今日もまた地獄が訪れる。昨日までは無為に受け入れていたそれに、少年ははじめて、立ち向かう意志を、心の奥底深くに根差したのだ。
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