この日々は円環である。
少年が認識し、大人達が語る鍛錬や訓練とは、このようなおぞましい地獄を指す。
剣の知識を叩き込む為に、剣の扱い方を頭に直接叩き込まれながら、戦闘時における痛みを再現する。それだけではなく、その剣が何をもたらすのか、その知識も経験も、呪法の力で、少年の中へ深く刻みつける。
他もそう。魔力鍛錬であれば、そもそも魔力とはいかなるものか、どう扱えばいいのかという知識を強引に脳へ流し込みながら、炎に炙られ、氷で凍てつき、風で切り裂かれ、土の中で窒息する苦しみを味わう。身体鍛錬も似たようなもの。どうすれば無駄なく身体を扱えるのかという知識と、肉体のみで与えられる衝撃全てを、小さな身体一つで、全て体感せねばならない。
数多の歴史、知識を知る時は、その場で何が起きたのかを、再現させられる。脳に直接流れ込む情報は、資格や嗅覚、聴覚を騙し、実際の時間よりも遙かに長い時間、当時の出来事を否が応でも少年の眼前に再現する。歴史の中に、日照りにより大飢饉が起きてしまった時などは、その時生きてさえいなかったはずなのに、ひどい飢餓感さえ覚えて、ただ、耐える。
それが日常だった。
それが少年にとっての、当たり前の毎日だった。
全てが終われば、身体は元通り。与えられた知識と実際に経た経験も、確かに少年の中に深く根付く。
全ては、【英雄】としてその定めを全うする為に。
この世に生まれ落ちたという、【災厄】を滅ぼす為に。
大人達は皆そう言う。いや、ここにいる者達だけじゃない。この国にいる全ての人間が、それを望んでいる。少年はそれを知っていた。その身を以て、理解させられた。
けれど、幼い子どもは知らない。【英雄】とは何なのか。滅ぼさなければならない【災厄】とは何なのか。【災厄】が存在すれば、世界が滅びるという。だから、【英雄】として生まれた我が身が、剣を取ってその存在を消さねばならないと皆が言う。
世界が滅びればどうなるのだろう。人が死ぬのだろうか。それとも国が消えるのか。
分からない、と最後に疑問に思ったのはいつだったか。そんなものを考える余分な空白を、ここの大人達は与えてはくれなかったから。
……全ての鍛錬と訓練を終え、入浴の為にどろどろに汚れた衣服を脱ぎ捨てる。身体はあれだけ傷ついていくのに、服だけはいつも汚れるだけだ。最初は赤かった服も、この時間になれば黒く淀む。
それを籠の中に入れて、少年は浴場へ足を踏み入れた。例に漏れず、浴場もまた幼い身には不釣り合いな広さである。
何もまとわぬ姿となってはじめて、顕わとなったものが二つある。
一つ。少年の胸全体に、刻まれた……いや、痣のように浮かび上がる紋章だ。剣を模したようにも見える。
二つ。まるでひどく焼け爛れたような、黒い手。一つ見間違えれば、手ではなく、手をかたどった炭のようにも見えるひどいさま。
その二つが、少年を【英雄】たらしめる証だった。
ただ広いだけの湯船に身体を沈め、目を閉じる。三食と、入浴時。この僅かな時間が、少年が安らげる貴重な時間。
ほんの僅かなその隙間に、いつも思い出すことがある。
何も知らなかった三年前の事。
城で、国民の前に姿を現す事になった少年は、その後、宝物庫へと連れて行かれた。どうして、と無垢に疑問に思えたのは、あの時が最後だ。
連れられた場所の奥に、更に隠された空間があった。そこには宝石で出来た台座と、そこに真っ直ぐに突き立てられた剣があった。
「御子よ。【英雄】としてこの世に生を受けた其方ならば、この剣を解き放つことが出来る」
そう言ったのは誰だったか。もう思い出せもしない。
ただ言われるままに、追いやられるままに台座の前に立ち、自分の身長よりも遙かに大きな剣を見つめた。そっと振り返る。無表情の大人達が、無言で、そして険しい目つきでこちらを見ている。睨んでいる。
救いをもたらしてくれる誰かなどおらず、少年は恐る恐る、その手を剣へと伸ばした。
恐らくあれが、はじめての地獄だった。
剣に触れた瞬間、流れ込んできたものがあった。具体的になんであったかは覚えていない。ただ、悲鳴と、嘆きと、憎悪と、怒りと、怨嗟と、悔恨と、それから、わけも分からない果ての見えない絶望。
一瞬だけ見えた誰かの背中。何かに向かっているように見えた。あれが何だったのかも、何も知らない。
そして、気がつけば少年は床に倒れ伏していて、両手は黒く爛れていた。大人達はそんな少年の事など構わず、台座から外れていた剣に、歓声を上げながら歓喜していた。
……あの時、剣に何も起きなければ。
そんな〝もしも〟を、微かな空白の時間にいつも考える。考えても仕方のない事だと分かっていても、毎日、毎日、追想を繰り返す。
とぷん、と湯の中に全身を沈める。もうすぐ傍仕えが、就寝の時間が差し迫っていると告げにやって来る。それまでは、この湯の温度に、何も考えずまどろんでいたかった。
入浴を終え、寝衣の袖に腕を通す。
少年は今日も決まった時間に床に入り、明日、決まった時間に目を覚ます。そうして苦痛に塗れた地獄をくぐり抜け続け、湯にたゆたう僅かな合間に過去を思う。
その繰り返しだ。
余分な思考は、己を苦しめるだけだと、早い段階で気付くことが出来たのは、日々を思い返す事をしない。それは苦しみしかもたらさないと知っている。
天蓋付きのベッドに入り込む。目を閉じた。
「おやすみなさいませ。御子様」
傍仕えがそう告げると、部屋の灯りは全て消えた。
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