少年の〝日常〟──苦痛はいつ何時も傍らに在る。
本来であれば数十人が利用するような、広く、そして贅を尽くした食堂で、少年は一人、朝の食事を飲み下す。両隣には侍女が一人ずつ。食堂の扉にも、同じように扉の左右に侍女が一人ずつ佇んでいる。
最高品質の小麦を使ったパン。同じ品質のまろやかなバター。厳選された野菜達を用いたサラダに、赤ワイン仕立てのソースのかかった、絶妙に焼き上げた鶏肉。
少年が動かす銀食器は音も立てずに動かされ、それらは淡々と、少しずつ消えていく。侍女達も身じろぎ一つせず立っている。
恐ろしいほどに静まりかえった時間だった。恐らくはこの場にいる全員の耳に、静寂がもたらす、あの特有の甲高い音が届いていただろう。
明らかに幼い子どもの傍に、本来いるべき親、兄弟といったものは、ここには存在しない。……いや、それでは語弊があるだろう。
少年は、母を知らない。
生きている事は知っている。名前も教えられている。けれど、ここではないどこかにいて、母と会う必要はないのだと、昔、誰かに告げられて、それで終わった。
父の存在は知っている。会った事もある。ほんの数回。きっと片手の指の数より少ない。それに、まともな会話をした事はない。少なくともそんな覚えは、少年にはない。
少年が父と会ったと明確に覚えているのは、三年と少し前。当時、何も知らなかったこの幼子を、見知らぬ大人達がこの国の城、その最も高いところまで連れて行った。そして幼子は、数え切れないほどの人間……国民達の前に、有無を言わされぬままその姿を晒すこととなった。
あの後、もう一度くらいは顔を見た、かもしれない。どちらにせよ、まるで鉄で人を形作ったような父しか記憶にない。その記憶さえもおぼろげだ。
兄弟は、いない。らしい。
侍女や従者達、それ以外の大人達も皆、そう言っていたから、そうなのだろう。いたとしても、顔も名前も知らない誰かの事など、少年は気にすることも出来ないのだが。
無心に、用意された朝食を切り分け、口に運び、喉を通して胃の中に落とし込む。味はしない。香りもしない。本当は味がついているのかもしれないし、香りだって見た目に違わぬ良い香りがしているのかもしれない。でも、少年の舌も、嗅覚も、意思さえも、それを認識せずにいる。出来ぬのではなく、認識しない事をあえて選んでいる。
並べられた白い食器達が空となり、カチリと、微かな音を立てて銀食器が置かれた。この広い広い空間で、初めて響いた音だった。
「お下げ致します」
右隣にいた侍女が告げ、慣れた手つきで、手早く食器を片付けていく。
扉に控えていた二人の侍女は、その細い手を使い、重たい扉を開いた。
全てを見届けた上で、左隣に立っている侍女が、口を開く。
「それでは、これから剣術鍛錬のお時間となります。第三の間へお向かい下さいませ。〝御子様〟」
その言葉を合図とするように、四人の侍女は示し合わせていたかのように、あるいは操り糸で操られた人形のように、微かな差異のない動作で、それぞれ深く頭を下げた。
少年は何も答えない。椅子から降りて、扉へ向かう。
少年は母を知らない。父の記憶はおぼろげで、兄弟がいるかも分からない。
そして……己の名を、誰かに呼ばれた事が、ない。
汚れも埃も何一つ存在しない、存在することさえ許さないと言わんばかりの白い大理石の廊下を歩む。広い庭に面したその廊下は、涼やかな風が吹き、白い日差しが差し込んでいるはずなのに、大気が冷え切っているような雰囲気に満ちている。
廊下では時折、侍女や従者達とすれ違うが、その時は必ず深く頭を下げられた。今までと同じように、少年はそれに反応を示さない。
ただ決められた道を歩き、決められた階段を上り、決められた部屋の扉を開いた。
少年の前に広がったのは、これまで歩んできた白い廊下とは打って変わって、薄暗い部屋だった。
広さだけならば充分。しかし四方の壁に窓は存在せず、天井には灯りの類いは一つも下げられていない。ただ、部屋の床をほぼ全て使って描かれた方陣からあふれる輝きが、日光や灯りに劣らぬほどに部屋全体を紫に照らしている。
魔方陣の周囲には十数人の大人達。いつもと同じ面々だ。少年は、この大人達の顔だけは不可抗力で覚えてしまった。
「お待ちしておりました。御子様」
部屋の一番奥、この部屋の大人達を統括している老人が軽く頭を下げた。
「それでは鍛錬を始めましょう」
老人の言葉に、少年は、はじめて反応らしい反応を示した。ほんの微かに強ばった身体と、噛み締めた唇。大人達は誰も気付かないほどの些細な変化。
しかし、すぐさま元の有様を取り戻して、部屋に入る。扉は閉め切られ、灯りとなるものは陣からあふれる光のみ。
躊躇なく少年は足を進めて、複雑な陣を描いている円の中央に立つ。いつもの事なのだ。いつもの事。
大人達はそれを見て、全員が異口同音に何らかの呪を唱え始める。光が形を取り、長い帯のようになって、中央に立つ少年を取り囲む。まるで巨大な蛇が絡みつくように、少年の身体にまとわりつく。
そして。
少年の身体……頭からつま先まで、ありとあらゆる箇所に、突如として変化が訪れる。
数多の剣、斧、槍、矢、鞭……この世に存在する凶器全てに傷つけられたような傷が生じ、そこから大量の血が溢れた。まとっている衣服のみが無傷。しかしそれも赤い血に染まって、血の雫をぼたぼたと滴らせた。
それだけではなく、突如現れたその傷達は、すぐさま完治し、完治した傍からまた新たな深い傷が出来上がる。その繰り返しだ。一呼吸分の合間すらない。
少年は崩れ落ちる。倒れ込む。そのまま血を吐いたが、吐いた血は、陣を汚すことなくかき消える。
少年へ襲い掛かっているのは、繰り返される傷の痛みだけではない。傷つけられ、すぐに治り、また痛めつけられる責め苦によるもの、のみではなく。
同時に、少年の頭の中へ、脳へ、直に叩き込まれているものがある。
戦士としての武器の扱い方、だけではない。かつて実際に起きた戦争。その戦場での悲惨な光景。人々の怨嗟の声。戦争で滅びた国の末路。人の生き死に。死体から漂う血と死の臭い。人の殺し方。肉を切った生々しい感触。人に殺された衝撃。命が消えていく凍てつくような寒さ。
そういった情報が、その身にも、精神にも、何もかもが、少年に凄まじい激痛と辛苦を与え続けている。
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