誕生の日。
男は、ただひたすらに祈っていた。
空の色は黒。浮かぶのは、月一つ。雲の欠片すら見当たらない。月光は星々の光さえも飲み込み、ただ、悠然と光を大地へと降り注いでいる。
彼は祈っていた。祈りながら、待っていた。たった一枚の扉を前に、椅子に浅く腰掛けながら、膝の上で両手を組んで。その上に、自分の額を押し付けるようにしながら、ただ、ただ。
静寂が男の身体にまとわりついても、彼は気に留める事はなかった。僅かたりとも動かず、けして祈りを絶やさないまま、〝その時〟が訪れるのを待ち続けた。
永遠にも感じられた、緩やかな時間の流れ。それを、一気に解放したのは、扉の向こうから聞こえてきた、声。
それはまさに、赤子の産声。
大地に、空に、世界の全てに、今まさにこの世に産まれたのだと宣誓する、尊い声。
男は立ち上がる。すぐにでも扉を開けるべく駆け出しそうになったが、動き出しそうになる身体をぐっと抑え、やはり、待った。
産声は、どんどん大きくなる。扉という隔たりを経ても尚、男の耳を震わせていく。ああ、間違いない。元気な赤子だ。
やがて、扉が開かれた。その瞬間、
「ミストラル様! おめでとうございます、男の子と女の子、双子の、可愛らしいお子様達です!」
そう、年かさの侍女が、目に涙を浮かべながら伝えてくれる。
「お子様も、奥方様のお身体も、健康そのもので……! 何の憂いもありませんわ、さ、どうぞ中へ」
「そうか、そうか!」
男は飛び込むように部屋に入った。白を基調とした清潔感溢れる部屋のベッドには、妻である愛しい女性が横になり、こちらを見るや否や、弱々しくではあったが、確かに微笑んでくれた。
産まれたばかりの愛し子達は、別の侍女の手により、産湯に浸かっている。まだ、揃って大きな声で泣いている。どちらも元気な子に違いない。
「セラフィス」
妻の傍らに歩み寄り、名を呼びながら膝を折って視線を合わせる。汗ばんだその額を、そっと、何度も撫でた。
「ありがとう。よく頑張った、よくやってくれた。本当に……あぁ、すまない。知ってるだろう? これ以上の感謝と賛辞の言葉を、私はやはり、持ち合わせていないんだ」
「ふふ……。いいえ、そんなこと。あなたの、その言葉だけで充分です。……ねえ、ミストラル。どうかあの子達を抱いてあげて下さい。私は、その……まだ、もう少ししないと、無理そうなので」
「そうさせて貰うよ」
妻の額に軽く口付け、立ち上がる。一足先に産湯を終えたらしい双子のうち一人は、既に侍女の手の中にそっと抱かれている。上等な絹に何重もくるまれていて、まるでそこに、世に二つと無い至高の宝があるようにさえ思えて来る。
「さ、お父様……。お嬢様を、抱いてあげて下さい」
侍女にそう呼ばれるのが、少しくすぐったいような気がしたが、ここでたじろぐわけにもいくまい。
差し出される赤子を、可能な限り丁寧かつ優しくなるよう、慎重に受け取った。ずしりとした重みが、そこにある命の存在を確かに伝えてくる。
産湯を終えたせいか、それとも一通り泣き終えたのだろうか。先ほどとは打って変わって、静かになったその子は、閉じた目を、懸命に開こうとしている。
焦らなくともいいよ、と小さく囁いた。その声が届いたのだろか。赤子は、ゆっくり、ゆっくり、瞼を持ち上げる。
「──金の、瞳」
現われた目の色を見、半ば無意識に呟いた。
妻の耳には、届いていなかっただろう。だが、侍女はそれを聞くと、赤子の顔を覗き込み、「まあ」と微笑ましそうな声をあげる。
「きっと、お母様から譲り受けたのでしょうね。でも、顔立ちはお父様によく似ておられます。美しく育ちますわ。女児は、父に似ると美人になると、昔から言いますもの」
腕の中にいる赤子は、金色の瞳をきらきらさせながら、見上げて来る。柔らかく握り締められている赤子の手に、そっと自分の人差し指を入れてみた。
「──ッ!」
……その時。言葉を失ってしまった事、恐らくこの場にいる誰もが気付いていなかっただろう。
悟られぬよう唇を噛み締め、殊更強く我が子を抱き締める。形にする事も出来ない様々な思いが、胸中を駆け巡る。
「……すまないが、しばらくセラフィスと、この子等を頼む」
そう言い、抱いていた子を再び侍女の手に預けた。
「無事に子ども達が産まれた事を、ウォルター達に知らせなくては」
「それでしたら、それは私が。ミストラル様はここにいらっしゃって下さい」
「いや。出産の事は、男の私には分からない事だらけだからね。皆にはまだ、欠けることなく妻と、わが子達の傍に揃っていて貰いたい」
「……そういう事でしたら」
侍女達が、一斉に頭を下げる。妻はまどろんだ目で、こちらを見た。
悟らせてはいけない。まだ、少なくとも今はまだ。
「任せたよ」
そう言って、部屋を出る。油断すると勝手に走り出しそうになる足と、身体を必死になって抑えた。
自室に入る途中、ここまでの道すがら出会った護衛兵に言付けを託した。
「ショウとウォルターに、至急、私の部屋まで来るようにと」
兵達は、敬礼を一つ返すと、すぐ様各々の役目を果たすべく駆け出していく。
その背を見送る事もなく、自室へ急ぐ。心臓が、嫌なリズムで何度も何度も脈打っている。ああ、煩い事この上ない。
やがて見えてきた自室の扉を潜り、中に入る。書斎机の椅子に腰を下ろし、深く息を吐く。握り締めた右手。それは、さっき、あの子の手を開いた方の手。それを、もう片方の手で包むようにしながら、肘を机の上に乗せ、両手の拳に額を押し付ける。
そうしている間、どれほどの時間が経ったかは分からない。痛い程に静まり返った部屋の扉をノックする音が聞こえ、我に返る。
「ミストラル、俺だ。ショウだ。ウォルター様もいる」
「二人とも、入ってくれ」
顔を上げられないままそう言うと、扉が開かれる音、そして、二人の大人が中へ入ってきた気配が伝わった。
覚悟を決めるように、歯を噛み締め、顔を上げる。幼い頃から見知り、育ってきた者達。親友、そして家族とも言える存在が、すぐ目の前で、どこか訝しげな表情をして立っている。
「一体どうしたんだ。セラフィスに付いていてやらないでいいのか」
親友であり、公における片腕でもある男の一人が問う。眼鏡の奥に見える目には、不信感さえ見える。無理もない。
「その点は心配はいらない。無事に産まれたよ。双子だ。双子の、男児と女児。セラフィスの身体も、健康そのものだと」
「そいつはめでたい」
言いながら、大袈裟に手を広げて見せたのはもう一人の男。従兄でありながら、実の兄のように思って今日まで一緒にいた、大切な家族の一人。僅かにウェーブのかかった長い髪が、揺れる。
「それで、そのめでたい事を前に、なんでお前さんはそう物騒な事になってるんだ?」
「……」
すぐには、答えられなかった。
答えるべき言葉は用意していたはずなのに、上手く声に乗せて、外に出せない。喉の奥につっかえているのか、それとも、この心が言葉にする事を拒否しているのか。
だが、そうやって逃げ続けるわけにはいかないのだ。これは。これだけは。
「……〝金色〟だ」
「何?」
「娘の、目の色が金色だった。間違いない。あの子は、予言の〝金色〟だ」
「ま、待て!」
慌てるように、親友の声が張り上げられ、部屋を微かに震わせる。
「ただ、金の瞳というだけだろう!? あれは、特別珍しいものじゃない! 母親からの遺伝というだけじゃ……!」
「それだけじゃないんだ。……これを」
握り締め続けていた右手を開き、二人に見えるよう差し出した。
子どもの小指の先よりも更に小さな大きさの、丸く透明な石。しかし、良く見れば石の中、丁度中央に、ぼんやりと浮かんでいる紋章がある事が、分かる。
「産まれてすぐのあの子が握り締めていた。これが何なのか、お前達なら言わずとも分かるだろう」
「──【幻晶】」
兄が、重々しく口を開く。紡がれた言葉は、まさしく正しいものであった。
「伝説の、【守護者】達の長たる証か。これは……疑いようがねえな」
「ミストラル……!」
兄は、ただありのまま事実を受け入れてくれている。親友は、この現実に憤ってくれている。
良き人に恵まれたと、そう、思わずにはいられない。だが、だからこそ、ここで迷うわけにはいかない。揺らぐわけには、いかないのだ。
開いた右手を強く握り締め、立ち上がった。
「予言が成就する材料は、恐らくこれで揃ったのだろう。だが、私達はそれを良しとするわけにはいかない。三年前は後手に回ってしまった。そのせいでかけがえのないものを失った。だが、今は違う。あの子等の事はまだ、悟られていない。この世を支配する化物共から、世界を取り戻す為にも、絶対に、予言の実現は阻止しなければならない」
だから──今度こそ、どんな手を使っても。
例え、愛しい我が子等に憎まれる事になるかもしれなくとも。
「化物の下した予言は、人の手で覆す。必ずだ」
「……そうだな。その為の覚悟を、俺達は決めている。こんなところで、ぐだぐだ悩むわけにはいかねえ」
「今の俺には、少々、耳に痛いですね。その言葉は」
親友は、少しばかりばつが悪そうな様子で兄を見、そして、長く息を吐き出した。
「けれど……ああ、そうだ。その通りだ。俺達は、戦い続けなければいけない。惑い、立ち止まる時期はとうの昔に過ぎ去った。だからきっと、これは……僥倖なのだろうな」
「そう思いたい……よ」
小さく呟き、目を閉じる。
産まれたばかりの我が子達が、瞼の裏に映る。抱き上げた子。未だ泣きながら、産湯に浸かっていた子。本当なら、平穏な人生を歩ませてやりたかった。争いとは無縁の、有り触れた幸せが溢れる生き方を、選ばせたかった。
だが、それは出来ない。親としての情を優先するには、子ども達が背負った宿命はあまりにも重い。
「一刻も早く、〝英雄〟たる子どもの身柄の確保を」
「分かっている」
親友が、労るように肩を叩いてくれる。
「心配するな。少なくともその件は、俺が上手くやる。……お前は、まだもうしばらく、セラフィスと、子ども達の傍にいてやれ」
「そうだな、ショウの言う通りだ」
と、兄もまた、親友の言葉に賛同した。
「いつ、何があるかも分からん。可能な限り、一緒に過ごすべきだろう。血を分けた家族だからな」
「……ありがとう……二人とも」
礼を言う。
……それしか、出来なかった。