いつか
彼の歌を聴いて、ベンチで少し話す。いつからかそんな習慣がついていた。雪は、温かいお茶をふたつ、スーパーで買うようになっていた。温もりが逃げてしまわぬようにポケットにしまっておくが、朝陽が来る頃にはどうしても冷めてしまう。
「ごめん、ぬるくなっちゃった。」
そう言って渡すと、朝陽はペットボトルごと雪の手を包み込んだ。じっと目をつむっている。雪はどうしたらいいのか分からず、じっと朝陽の顔を見つめていた。いつ見ても、きれいな顔だと思う。まつ毛も長く、きれいな二重まぶた。シミひとつない真っ白な肌に、思わず触れてみたいと思ってしまう。しばらくして、朝陽は目を開け
ると、
「温かい。」
そう言ってほほ笑んだ。朝陽は迷いのない真っ直ぐな歌声を届けるわりに、少年のような老人のような話し方をする人だった。
「雪は、何歳?」
「23」
「そっか、僕のふたつ下なんだね。」
「えっ、年上だったの。」
思わず驚いて言うと、朝陽は少し不満そうに言った。
「もっと子供っぽく見えたの?」
「そうね、毎日のようにギターを弾いているから、学生かと思っていた。仕事はしていないの?」
「しているよ。自由気ままに、思うがままに。」
そんな都合の良い仕事があるものかと思いつつも、なんとなく触れないでおいた。
「ねえ、寒い。帰ろう。」
そういうと、雪の反応を確かめもせずギターを背負うと立ち上がった。いつもはそのまま別れるのだが、今日は
雪の手を引いて歩きだした。
「もう帰るの。」
声をかけてみたものの、朝陽は全く聞いていないようだった。しかし、朝陽の嬉しそうな横顔を見ると、何も言えなくなってしまった。金曜日だしいいか、なんてのんきなことを考えながら、仕方なく引っ張られてみることにした。
朝陽の家にはもう何度も行っていた。夜を何度も共にした。近頃は連日朝陽の家に泊まっていたため、半同棲状態だったのだ。だから、もうベンチで会話する必要もないのに、雪がいつもお茶を買って待っているから、朝陽もそれを素直に受け取ってくれた。いつもはしばらくおしゃべりをしてから帰るのに、こんなにすぐ帰りたがるのは珍しい。それに加え、背中から浮き足立ってることがひしひしと伝わってくる。なにかいいことでもあったのだろうか。
抗うことなく手を引かれ、反対側の出口へ出ると、少し離れたところに人だかりが出来ていた。
「なんだろう。」
雪のつぶやきに気づいた朝陽は立ち止まって、その先を見つめた。音が聞こえる。ギターと、ピアノだろうか。メロディーをうまくつかむことが出来ない。すると、朝陽は雪の手を引いたまま、人だかりのほうへと歩き始めた。近づくにつれて大きくなっていく音。演奏が聞こえる。複数の人が演奏しているようだ。周りに集まった観客は 20 人くらいだろうか。人々に囲まれた音は、まるでそこだけ異世界のような空気だった。人々は自然と体を動かし、踊っている。その手拍子とステップを見るだけで、楽しいという感情が雪にもひしひしと伝わってきた。
そこでは 3 人の少年による路上ライブが行われていた。ギターとベース、そしてカホン。3人の前にマイクが置かれ、会話をするように歌っている。3 人は輪になって演奏していた。お互いが向かい合って楽しそうに演奏している様を見ていると、それだけでこちらも楽しくなってくる。この場にいる人々は、きっとみんな初対面のはずなのに、10 年来の友達のような、そんな安心感のある空気に満ち溢れていた。初めて聞く曲は、雪の耳にまっすぐと響いてきた。
あなたのその涙を 僕は知ることができないけれど
あなたのその笑顔を 僕は信じたいんだ
隠された感情の裏側に
愛をこめて 僕は今日も歌う
強がったっていいんだ 無理したっていいんだ
いつだって僕はちゃんとここにいる
ふと朝陽の横顔を見てみると、彼はじっと固まったまま動かなかった。笑顔ではない、悲しそうな
、寂しそうな、そんな表情だった。おそらく朝陽と同い年くらいであろう彼らに、何を思っているのだろう。雪は知りたい気持ちをぐっとこらえ、いつまでも演奏に聴き入っていた。
「朝陽、痛いよ。」
雪は布団の中で、体をくねらせた。雪を後ろから抱きしめている朝陽の腕にはいつもより遥かに強い力が込められていた。このまま朝陽に吸収されてしまうのではないか、そう危惧するほどだった。
「ごめん。」
「どうしたの。」
謝ってはいるものの、一向に力を緩めようとしない朝陽の顔が見たくて、雪は何とか体を回転させた。それでも、雪の首元に顔をうずめて表情を隠そうとしている。
「朝陽。顔を見せて。」
なぜだか涙が出そうになるのを必死でこらえた。何も言わない朝陽が、今にも消えてしまいそうで、つなぎとめるように雪は力いっぱい抱きしめた。ゆっくりと頭をなで、肩、背中、朝陽の存在を確かめるように抱き合った。
どれくらいそうしていただろう。空にぼんやりと白い光が差し込んでいた。眠ったのか、眠っていないのか、それすらもわからずぼんやりしていると、朝陽がぽつりぽつりと話し出した。
「夕べの演奏、楽しそうだったね。」
「そうだね。」
「楽し、かったね。」
「うん、私も。」
「雪は僕の演奏、楽しかった?」
「えっ?」
「いつも僕の演奏を見てくれているじゃん。」
「楽しいよ。でも、昨日の人たちとは違う楽しさかな。」
「何が違うの。」
雪はしばらく黙って考えた。
「朝陽の歌は、どこにいても一人じゃないって思わせてくれるの。歌がいつまでも私の隣にてくれるんだって。ああ、私はひとりじゃないんだって感じさせてくれるの。」
「僕はいつだって雪の隣にいるよ。」
「そうだね、ありがとう。」
「雪は、どこに行ってしまうの。」
「私も朝陽の隣にいるよ。」
「いないよ、雪はいないんだ。」
ふいに顔を上げた朝陽の頬には、一筋の涙がこぼれていた。なぜだろう、雪は、美しいと思った。別れるつもりも離れていくつもりもないのに、朝陽は何かを恐れている。
「ここにいるじゃない、ずっといるよ。」
いつの間にか、夜は明けていた。