雪と雨
それはある雪の日だった。
いつものように、彼はギターを弾く準備をしていた。雪がちらちらと舞っている。いつものようにミルクティーを買ったが、ベンチには雪が積もっており、座れそうにない。仕方がないから、立ったまま聴くことにした。昨日は雨で今日は雪。天気予報によると、しばらくは雪が続くらしい。溜息をつきながらも、彼の歌を聴くとそんな憂鬱ですらどこかへ行ってしまうから不思議だ。
そんなふうに希望と沈黙を抱えて待っていると、やがて彼は歌い始めた。いつもの曲だった。少し背を丸めて、ギターを大事そうに抱える。いつもの彼だ。しかし、しばらくすると、いつもとは全く別の感情が曲にのっていることに気づいた。悲しいことがあったのか。怒っているのか。よくわからない。それなのに、なぜだろう。今日は涙が止まらなかった。彼の心が、想いが、流れ込んできたのが、よくわかる。止められない涙と嗚咽に近い吐息を、ほんの少し傾けた傘で隠す。寒さが、今日は一段と強く感じる。痛いほどだった。
最後の一音を投げ込むように弾き終えた彼は、いつもと変わらない表情だった。いつもと変わらない表情に見えた。雪には彼が抱える世界なんて全く見えやしないのに、流れ込んでくるこの感情はなんなのだろう。答えが出せず宙ぶらりんのままの雪は、彼が近づいてきていることに気付かなかった。
ギターを抱えた朝陽は、雪の目の前に立ち、じっと雪を見つめていた。身長差が15センチほどある。しばらく朝陽に気がつかなかった雪だが、その存在に気付くとゆっくりと彼を見上げた。彼の真っ黒な瞳に映った自分と目が合ったような気がして、とっさに目を逸らしてしまった。目の奥の光が、ちらりと見えた。いつもの距離では気づくことができない、ほんのわずかな命の灯。
静かな時が流れた。再び顔を上げるのも怖くなった雪は、黙ったまま俯いていた。すると朝陽は物音ひとつ立てずにギターをおろすと、静かに隣に立った。
「雪だね。」
かろうじて聞き取れるようなか細い声で最初に聞いた言葉。
「雨は音を立てて流れていく。僕の感情も君の思いも、何も知らないかのように。そうして憂鬱だけもたらす。それに対して、雪は静かに積もっていく。積もって固まることも、流れていくこともある。雪はね、変わっていくことができるんだ。それもすべて、天気の赴くままに。僕らには変えることができない自然の秩序。」
じっと前を見つめたまま語り掛けてくる朝陽の目は、目の前にある駅ではない、遠い昔の何かを思い出しているようだった。はたまた、まだ見ぬ遠い未来のことを思い描いているのかもしれない。ただ、雪にそれを理解できる日はきっとこない。このとき、なぜかそう確信している自分がいた。いつものように力強く歌っている朝陽ではない、今にも消えてしまいそうな彼に、どんな言葉をかけていいのか、わからなかった。
「そうだね。」
雪も前を見つめたまま答えた。彼が今その目で見ているものを、自分の目で見てみたくて。
「この雪は、どうなっていくのかな。何かになりたいと願っているのかな。」
投げかけるような、答えを求めていないような、問いかけだった。独り言だったのかもしれない。
ただ、彼の横顔がいまにも消えてしまいそうなほど悲しげだったから、雪はなんとか繋ぎ止めなければと焦った。
「明日の天気は晴れみたいだよ。」
きっとそんなことを聞きたかったわけではないと全身で感じながらも、答えた。恥ずかしくなって俯いた雪に、それを察してか、朝陽は優しく笑いかけた。ふたりの間を行き場もなく漂う沈黙は、誰を責めることもなかった。
「いつも聴いていてくれてありがとう。またね。」
そう言うと、ギターを再び背負って、暗闇に姿を消した。振り返ることはなかったし、雪もその背を最後まで見送ることは出来なかった。降り続く雪。降りやむ気配はなかった。雪は冷たくなったミルクティーを、両手でぎゅっと握りしめた。