2年生8月:喜劇
人から信頼されることが心地よい。
信頼が厚いほど、裏切りが楽しくなるから。
ハンスは1階奥のホールに寄った。
ここには5人の敵がいたはずだが、ファン以外は動いていない。
「これ、何の魔方陣?」
ホールに入ったとたん目を奪われる、床に白い線で描かれた複雑な紋様。
「何かの儀式かと。」
散らばった紙を集めながら、ファンが部屋の隅に置かれた細長い3つの箱を指した。
「中に死体が。」
ひとつの蓋をずらすと、土気色の老人が横たわっている。
「うわぁ‥これ、間違いなく死体だねぇ。」
「こいつら、魔王崇拝派でしょうか。」
ファンは縛って転がした男たちに目を向ける。
「この死体を贄に、魔王復活の儀式をやろうとしてたとか。」
ファンの推測を聞いて、露骨にハンスが顔をしかめた。
「こんな奴らが魔王復活?! 馬鹿馬鹿しいね。」
ハンスはファンが集めた書類を受けとる。
「それより地下でマーカーくん見つけたから、ウォールくんと合流してよ。早く安全な所に移したい。」
「わかりました。クラレール先生は?」
「なんかねー、マーカーくんのお母さんが捕まってるらしいんだけど。」
ハンスは天井を見上げる。
「一般人の魔力だと『魔力感知』で拾えないんだよね‥。」
「それなら俺も、」
「だいじょーぶ、もう他に敵はいないから。それより外で応援呼んで。この死体まで僕たちだけで対処するのは無理でしょ。」
ファンは棺と、男たちを一瞥して黙って頷く。
背を向けてホールから出ようとして、ファンはハンスの呟きを聞き逃した。
「‥まったく、何をしたいのかな、あいつは‥。」
ファンがホールから出ると、ハンスは素早く書類に目を通した。
『復活被験者:マーサ・トーノ』
HPゼロの死亡状態から『復活』で生き返るまでの数値データが記載されている。
「なるほど、こういうルールなんだ。」
ハンスがこれまで見た『復活』は3回。
どれも死にたてで、ハンスにはまだ死亡と認識できない段階だった。
どんな死者でも『復活』で生き返るのか。
あの棺は実験用の死体か。
「さすが大神殿、非道な実験はお手のものだね。」
ハンスは最大精度で『魔力感知』を発動する。
狭い範囲に集中すれば、赤ん坊さえも感知できるのだ。
上の方に一般人レベルの反応がひとつ、そして3つの死体のうち1つが感知に引っかかる。
ハンスは読み終えた書類を折り畳むとポケットに押し込んだ。
「ファンくんが戻るまで5分ってとこかな。」
陽気にホールを出ると、屋敷の3階へ上がった。
見取り図で不自然だった3階の廊下の端で、隠し部屋から強大な魔力が溢れている。
「駄々漏れかよ‥。」
同調して開けるのが面倒で、魔力まかせで中に押し入った。
「もぉ、悲鳴のひとつくらいあげなさいよぉ。」
床に倒れているマーサの背中にピンヒールをめり込ませる。
なんの取り柄もない弱い女と思ったら強情で、厳しい責めにひたすら耐え続けて面白くない。
「ほぉら、赦しを懇願しなさいよ!」
振り上げられた鞭にマーサがびくっと震えた。
それでも屈しない強い意志を宿した深い瞳が、嗜虐者からその後ろに移る。
「そーいう瞳はアリスと似てるかなぁ。」
「誰っ?!」
マリアが振り返るより早く、背後から羽交い締めにされた。
「お遊びに夢中で侵入者に気づかないとか、程度低くて萎えるー。」
わざとエリオスたちに伝えなかった、この屋敷で最大の魔力反応。
「離しなさいっ!」
シスター・マリアは背後からの拘束を解こうと暴れるが、ハンスとの力比べに勝てるわけがない。
「マーサ・トーノさん?」
突然現れた晴れやかな笑を浮かべた青年に、マーサはこくこくと頷いた。
「初めまして、僕はアリスさんの担任です。彼女は無事に助けたので安心してください。」
「はあっ?! 何言ってるのよ!」
マリアの瞳が紫色に変化し、背中に生えた漆黒の翼がハンスを吹き飛ばした。
「ニンゲン風情が、わたしの邪魔をするなっ!!」
「なりたてのお前が、俺に勝てるわけないだろ。」
部屋の温度が10度ほど下がった気がした。
狭い部屋を充たした冷酷な魔力に、マーサの、マリアの身体が震える。
ハンスは硬直したマリアに無造作に近寄ると、耳元で囁いた。
「『歓喜』」
それはマリアを闇に堕とした、快楽を解き放つ声。
「アリスに手を出すなって言ったろ。」
「ご‥ごめんなさい‥。」
「ここは焼き払うから、お前は逃げろ。」
マリアは素直に頷くと、隠し部屋から逃げるように消えた。
「‥理想的な欲深さだけどなぁ。」
「あのぅ‥。」
マーサはゆっくり立ち上がると、ハンスに頭を下げた。
「アリスちゃんを助けてくれて、ありがとうございました。」
「ああいいね、その母親っぽい言い方。」
ハンスは面白くてたまらない。
「ニセモノでも、母親が死んだらアリスは泣くかな?」
「‥わたしが本当の母でないこと、アリスちゃんは知ってますか?」
「さあ? でもあんたを助けてくれって。」
マーサはふるふると首を横に振った。
「わたしはもう、アリスちゃんに会えません‥。」
「何で?」
「男に騙されて、アリスちゃんを危ないめに遭わせて‥。」
「ははっ、馬鹿だねー。」
マーサの不安をハンスは笑い飛ばす。
「それならまず無事な姿を見せて、アリスを安心させてあげないと、でしょ?」
大丈夫だからと笑顔で差しのべられたハンスの手を、マーサは恐る恐る握った。
「なーんてね。」
ハンスはマーサを引き寄せると、彼女の後頭部に手を当てる。
「『黒磁波』。」
ぐにゃりと命を喪ったマーサの亡骸を、ハンスは恭しく抱き抱えた。
「さぁて、最後の仕上げかな。」
タイムアップ。
ドォンと1階ホールが爆発し、瞬く間に赤い炎が屋敷を包んだ。