2年生8月:孤児院
王国の北東部に位置するマーカー子爵領は、港湾都市マーカス・シティを中核とする、交易や観光で人の交流が盛んな土地だ。
東に広がる海に点在する島々は有人だったり無人だったりするが、一番大きなフォッグ・アイランドは王国一のリゾート地で、ほとんどの貴族が別荘を所有している。
マーカー港から船で20分程のため、日帰り観光客も多い。
また魔王が封印されてからは周辺諸国からの観光客も増え、マーカー子爵領はまずまず繁盛している、そうだ。
『お前が継ぐのだから、きちんとその目で見てくるように。』
と、祖父から領地のことをざっくり叩き込まれた。
夏休みが終わるまでの2週間のうち、10日間をマーカー子爵領で過ごす。
3日後に祖父も王都から領地に戻り、わたしを領内の有力者に紹介する予定になっている。
「アリスちゃん、ずいぶん髪が伸びたわね。」
母がわたしの髪をとかし、三つ編みに編んでくれた。
教会のボランティアに母と参加するため、焼いたクッキーをバスケット籠一杯に詰めて、子爵家の馬車で教会へ送ってもらう。
着いたのは市中の賑やかな区画から2ブロック奥にある、赤い屋根の教会だった。
母の仕事は、教会に併設された孤児院のお手伝いだった。
馬車を降りると小さな子供たちが駆け寄ってくる。
「マーサちゃん、こんにちわー!」
「今日のお菓子なぁに~?」
小さな手で母のスカートを引いてゆく。
「もう先生来てるよ~。」
「本日はお嬢様自らお越しくださり、ありがとうございます。」
豊かな白髭を蓄えた司祭様が出迎えてくれて、わたしに深々と頭を下げた。
「子爵様にはいつも多額の御寄付をいただき、感謝の言葉もありません。」
こういう時どう答えたらいいのかわからなくて、曖昧に笑ってごまかしてしまう。
「いえ‥。」
「外はお暑いですから、ささ、中へ。」
母とお揃いのエプロンを着けてキッチンに入る。
これからお昼ご飯に夏野菜カレーを作るのだ。
交易でスパイスが手に入りやすいマーカー子爵領では、カレーがご当地料理になっている。
子供たちが畑で作ったトマトをたっぷり刻んで、ゆっくり煮込んでいくと敷地中にスパイスの香りが広がった。
「ああ、いい香りですね。」
小さな女の子と手を繋いだ男性がキッチンに現れた。
「マーサさんのお料理はいつも楽しみです。」
「ケントさん!」
母が鍋をかき回しながら嬉しそうな声を上げた。
「お勉強会、終わりましたか?」
「はい、みんないい子でしたよ。」
「アリスちゃん、こちらがケント・ハーバーさん。小学校の先生なのよ。」
「初めまして。マーサさんとお付き合いをしています、ケント・ハーバーです。」
母より2つ年下と聞かされた彼は、細い眼鏡をかけた真面目そうな青年で、年齢より落ち着いた穏やかな印象だった。
「僕とお父上とでは比べ物になりませんが、マーサさんを幸せにしたいと思っています。」
率直な自己紹介にわたしの方が恥ずかしくなる。
「娘のアリスです。よろしくお願いします。」
「よろしくお願いします。お料理手伝いますね。」
彼は手を洗うと、サラダ用のゆで卵の殻むきを始めた。
(家庭的ないい人なのかな。)
「ケントさんはお仕事の合間に、ここの子供たちに勉強を教えてくれているのよ。」
「貧しい子供ほど教育が必要ですから。」
「わたしも教えてもらっているのよ。」
「マーサさんは文章を書くのが早くなりましたね。」
「ケントさんの教え方が上手だからですよぉ。」
(うん、いい人だな。)
‥でも親の惚気ている姿を見るのは複雑な気持ち。
早く料理を完成させようと、わたしは手を早めた。
みんなでのお昼ご飯、おやつも終わった後で、ケントさんから自宅に招待された。
「父がマーサさんに会いたがっているのですが、年で足が悪いもので。」
すぐ近くなのでどうですかと言われて、母が迷う。
もうすぐ子爵家の馬車が迎えに来る時間だ。
「帰りはきちんとお送りしますよ。」
「でもわたしからは‥。」
「せっかくならアリスさんにも父と会ってほしいのですが。」
母がわたしの顔を見る。
「わたしはお伺いしても大丈夫だけど‥。」
「そうですか!」
ケントさんの声が弾んだ。
「司祭様にもお口添えしてもらいますから、ぜひ家に来て下さい!」
そうして迎えに来た子爵家の馬車を、司祭様がわたしたちを送り届ける約束で帰ってもらった。
ここから歩いて15分程なので、とわたしたちはケントさんの案内で孤児院を後にした。