2年生8月:縁談(1)
マーカー子爵は月に2度、領地の報告のために登城する。
内務大臣から『内密に話がある』と伝言を受けたとき、子爵の頭によぎったのは彼の息子のことだった。
内務大臣、ウォール公爵。
王の信頼が厚く、財力もある、今の王国で一番権力を持つ貴族だ。
(アリスとエリオス君とのことだろうか‥。)
才能豊かな彼の息子が、子爵家とはいえ非嫡出子の娘と一緒に組合の仕事を請け負っていることを、普通は良く思わないだろう。
城の中ではなくわざわざ公爵邸に呼び出すのだから、よっぽど内密にしたいということだ。
招かれた夕食の後、公爵の執務室でウィスキーのグラスを傾けながら向かい合う。
60歳を超えている子爵とまだ40代の公爵では親子程の差があるが、立場はウォール公爵の方がずっと上だ。
他愛ない社交辞令をいくつか交わした後、公爵が本題に入った。
「今月に入ってから、船が魔物に襲われる事故が頻発しています。」
「そうなのですか?」
意外な話題に、マーカー子爵は首を傾げた。
「王都への航路ばかりで8件、うち沈没が3件。」
「それは知りませんでした。やれやれ、政務を離れていささか耄碌しましたかな。」
「子爵のお耳に入らなかったのは、箝口令を敷いているからですよ。」
「何故? 航路の危険は民に伝えるべきでしょう。」
「王妃が海皇の逆鱗に触れ、王国の敵に回りました。」
カランとグラスの中の氷が音をたてる。
「海皇から不可侵条約の破棄が正式に通知されました。‥海の魔物との全面戦争が起こるかもしれません。」
(海皇との戦争?!)
魔王との長い争いが終わってまだ16年。
魔物との闘いは勝っても得るものがなく、負けたら命を失うしかない、人間に分の悪い戦争だ。
他国に遅れをとった王国の国力がようやく安定してきたところなのに。
「それは事実ですか?」
「最悪の場合は。我々はなんとしても海皇との戦争を回避しなければなりません。」
話の重大さは十分理解したが、公爵が何故自分を呼び出したのか心当たりがない。
「それで、公爵殿はこの老いぼれに何を望むのですかな?」
「子爵は白濁湖で海皇と話をしていますね?」
アリスが行方不明になった白濁湖での出来事を思い出す。
彼の麗人はアリスを『ジャスの娘』と呼び、何か頼んでいた。
「海皇は孫に簪を探すように言っていましたな。」
「その簪が怒りの原因です。」
オアシスでの出来事は、魔術師団から詳細な報告書が上がってきている。
「『封魔の杭』が海皇の探している簪で、それを勝手に使用していた王妃にキレた‥と我々はみています。」
「そんなことで?!」
「そんなことで、王国が滅びるかもしれないのです。」
しばらく沈黙が続いた。
航路は王国の大事な貿易の手段で、それを奪われるのは痛い。
しかも海皇の影響は世界の海全てだ。
だから各国は海皇と敵対しないようにしているし、海皇も各国と何らかの取り決めをして平穏に共存してきた。
(海皇は人間に興味が薄いと思っていたが‥。)
いや違う。
あの時アリスを思いやる海皇の姿は、人間のようだった。
超越した存在が怒りを王国にぶつけてきた場合、どれ程の脅威となるだろうか。
「近々王は責任をとって退位し、第1王子に王位を譲ります。」
「‥それは‥。」
あまりのトップシークレットな情報に子爵は言葉を失う。
「元凶の王妃を排斥しなければ、海皇との交渉になりません。」
「王妃様だけ謹慎なりすればよろしいのでは。」
「王がそれを望みません。未だに王妃を深く愛していらっしゃるのです‥。」
公爵が深いため息をついた。
王妃カサブランカは派手好きで見栄っ張りな、容姿以外取り柄のない女だが、政治に口を出すことはなく、王室の資産を食い潰す程度の迷惑で済んでいたのに。
「そしてもうひとつの交渉材料について、子爵をお呼びしたのです。」
こちらが王国を守る交渉の本命だ。
「海皇は貴方の亡くなった息子さんと、彼の形見であるお孫さんに執着している、と聞きました。」
「そのようなこと‥。」
「海皇がこれまで人の前に現れたり、関わったことがありましたか?」
政務においてそのような記録を目にしたことはなかった。
海皇との協定も魔王軍との戦いの時代に結ばれたもので、『お互い一切干渉しない』という趣旨だったはず。
「息子から聞き取りましたが、海皇はこれまで3度、王国に現れているそうです。」
昨年8月に王国の島で、今年5月に白濁湖で、そして先月にオアシスで。
全て、アリス・エアル・マーカーが関わったと。
「アリス嬢がいなければ王妃はオアシスで殺されていたでしょう。その場合、既に王国と海皇との全面戦争が始まっていたかもしれません。」
マーカー子爵令嬢は海皇と対抗する唯一のカード。
これが王国首脳部が出した結論。
「アリス嬢を第2王子の正妃として王室に迎え入れたい。」