16年前:聖都決戦
「なぜヒトは諦めない?」
憤怒は闇夜に広がる王国の布陣を見て首をひねる。
「弱いくせに数だけ多くて面倒だ。」
「お前もヒトだったろう。」
「忘れたよ、そんなムカシのこと。」
憤怒が現れたのはいつだっただろうか。
身も心もボロボロになった彼がただひとつ抱えていた、激しい怒り。
その怒りでヒトを引き裂いて、潰して、焼き払う。
憎しみの原因は長い時に埋もれてしまったけれど。
「いいじゃない、いっぱい殺せるわよ。」
歓喜は赤い唇を歪めて嗤う。
「食べ放題ねぇ、また美しくなれるわ。」
歓喜は女性だったころの外観を捨てようとしない。
華奢な肩甲骨の間から漆黒の翼をはためかせてなお、美しさにこだわっている。
「見た目にこだわるなんて、ヒトみたいでキモチワルイ。」
「そう言うなよ、悲哀。」
「『死』だけが全ての哀しみの救いだ。だからー」
「早く殺してあげないと、だろ?」
快楽が殺す理由は単純だ。
ヒトの肉の味を覚えた魔物が、脆いヒトに群がって手足を食いちぎるのをまとめて空から吹き飛ばすと、もう最高に気分が昂る。
ヒトもマモノも、快楽の楽しい玩具。
「さあさあ、早く殺戮を始めようよ!」
自分を熱く見つめる4体の魔人。
欲しいものはもう二度と手に入らない。
それなら彼らの望みを叶えてやるのもいい暇潰しだ。
ニタリと牙をあらわに、魔王は翼を震わせて拳を掲げた。
「行くぞ!」
それを合図に、魔人たちは固く閉ざされた聖都の門を一斉に攻撃する。
じきに破られた門から、1000体の魔物がなだれ込んだ。
血と肉と火の混ざった香ばしい臭いが胸を満たす。
「ああそうだな、この臭いだ。」
遥か昔、独りでいた山から憤怒に引きずり出された国がこんな腐臭にまみれていた。
「楽しいなぁ、ヒトは!」
「‥‥‥。」
目の前の深く紫のローブを被った小さな魔術師は、表情が見えなくて面白くない。
「‥魔王、もうお前だけだぞ‥。」
「貴様もな。」
魔王は右の翼で突風を起こし、魔術師のフードを吹き飛ばした。
現れたのは、強い意志を宿したブルーグレーの瞳。
地味な顔立ちは男か女かわかりにくいが、無造作に束ねた金髪の結び目に簪が飾られている。
(女、か? 歓喜より若いな。)
すぐ近くに転がっている歓喜の首と見比べる。
歓喜も快楽も、笑顔で死んでいた。
悲哀は黒焦げで、憤怒はボロボロの姿で飛んで逃げていった。
ヒトの策略もなかなか面白いものだ。
立っているのは、魔王と小さな魔術師の二人だけ。
「‥まだ笑うのか‥。」
「ああ、貴様は楽しくないのか?」
目の前の不遜な魔王を、ただ睨み付けるしかなかった。
「‥‥マー、カー‥」
後ろからゼノンの微かな息が聞こえる。
(しゃべるな!)
左半身を吹き飛ばされて地面に倒れているゼノン。
「『聖水回復』‥。」
それでも最期の力で、ゼノンは右手に握りしめた翡翠色の杖から回復魔法をとばす。
最期の治癒魔法まで他人を優先する彼に、悔しくてギリッと奥歯が鳴った。
「『炎矢』!」
銀糸の刺繍で彩られた黒い手袋が輝き、10本の炎の矢が魔王に襲いかかった。
「効くか!」
魔装具で強化してもあっさり魔王に払われるが、煙幕に紛れて魔王の背後へ回り込む。
「『炎爆刃』!」
炎の刃で左胸を背中から突き刺す、が胸まで届かず翼を傷つけただけだった。
そのまま左の翼を切り落とす。
「ーふん。」
魔王は地面に落ちた翼を蹴り飛ばした。
「ヒトのくせにやるな。名前は?」
「お前の名は?」
一呼吸おいて、魔王は機嫌良く笑いだした。
「これは珍しい。名を問われるなどいつぶりか。」
バサッと残った右の翼が震えた。
「気に入ったぞ、貴様。」
明らかな強者の振る舞いで、魔王が近づいてくる。
伸ばされた手をギリギリまで引き付けて、身体を魔王の懐に滑り込ませた。
(ここしかないー)
「『漆黒滅穴』!!!」
全てを消滅させる四種混合魔法。
残った魔力全てを込めた必殺の一撃だった。
「ぐがぁっ‥!」
魔王が左胸を押さえて後ずさる。
えぐれた肉の中に見えるのは、白いあばら骨とその中に黒く輝く魔核。
(魔核まで届かなかった‥!)
魔力欠乏でひどく頭が痛むが、倒れるわけにいかない。
剥き出しの魔王の魔核がそこにある。
ヒビの入った魔核が。
「やるなあ、ヒト風情がぁっ!」
笑い声の後、魔王の鋭い牙が首に深く食い込んでいた。
「あ、あぅ‥」
痛みに、やけに自分の脈がはっきり聞こえる。
ぶちっと肉が服ごと食いちぎられ、魔王の身体が離れた。
「何だこれは。」
魔王は牙に引っ掛かった紐を手に取っていた。
紐の先に結ばれた小さな革袋は。
痛みを怒りが凌駕した。
「返せ!」
それは、首に大切にかけていたその袋は!
「ふん。」
魔王は袋を開け、中の小さな欠片を取り出して指先で弄ぶ。
それは、アリスと繋がる唯一の物。
「これが大事か。」
魔王はニタリと笑い、アリスのへその緒を丸飲みした。
「ぐがあああーっ!!!」
直後、魔王の身体が中から金色に輝いた。
胸の穴から溢れ出す聖なる光に、魔王の顔が苦しげに歪む。
(今しかない!)
魔核を破壊する最期のチャンス。
(どうか力を‥!)
髪から引き抜いた簪はヒビの隙間に突き刺さり、
ピシッと真っ二つに魔王の魔核を割った。
「あらあらアリスちゃん、どうしたの?」
夜明けに火のついたように泣き出したアリスを、マーサは慌てて抱き上げた。
「まあ、お熱が出てるわ!」
急な高熱にマーサはバタバタと冷やすものを探す。
「しっかりしてアリスちゃん!」
(アリスが泣いてる‥。)
仰向けに倒れた魔王はピクリとも動かない。
魔王と抱き合うように死ぬのは嫌で、気力で仰向けに転がる。
(ゼノン‥。)
たった一晩を、誰も生き残れなかった。
(アリス‥。)
ようやく長かった夜が明けるのに。
首からの出血が容赦なく体温を奪っていく。
(どうか、幸せ、に‥。)
簪を抱きしめるように両手を胸の上で重ねて、最期の魔法を唱えた。