2年生7月:逆鱗
「これはまずい‥。」
湖の水柱から現れた海皇は、アリスたちに見向きもせず王妃のいる一団へ足を進める。
どうやってこんな砂漠にと思うが、アリスが湖に連れていかれたから、何かがあったのだろう。
問題は、100メートルは離れているエリオスたちにもわかるほど海皇が殺気にあふれていることだ。
王妃もファンも魔術師たちも動けず、突然の豪雨に打たれるまま。
エリオスの身体にも海皇の圧力がのしかかっている。
(どうする‥。)
「『泡沫』。」
ディックが50センチ程の短い杖を振ると、結界魔法の効果で二人の周りだけ雨が消え、身体が軽くなった。
「まずいっていうか、最悪にヤバい。」
エメラルドグリーンの杖を握りしめるディックの手も震えている。
(この状況で魔法を使える?)
「君は‥いや、まずはアリスの救出を。」
海皇はただ一人立ちすくんでいる王妃カサブランカに静かに近付いてくる。
他の者たちは王妃の出迎えで片膝をついた姿勢のまま、それを見ていることしかできない。
ファンは白濁湖で会った海皇を思い出す。
学園長と話す海皇は、理智的な貴族のようだったが。
(あれはヒトの真似をしていただけか‥。)
息をすることさえ苦しい。
魔力感知の能力がなくてもわかる莫大な魔力。
海皇は王妃カサブランカの目の前で止まった。
わたくしは何をしても許される。
それがこのグラディス王国の、絶対の法律。
『カサブランカ』は王国に咲き誇る絶世の美。
だからこの目の前の男も。
雨で額に張り付く髪を整え、王妃カサブランカは最も色っぽく見える微笑みを浮かべた。
「わたくしに、何かご用かしら?」
『ずっと一緒にいてほしい』とジャスに伝えたかった。
王国南部の海岸で別れたとき。
『たくさん、ありがとう。』
そう言ったジャスだが、望みは驚くほど少なかった。
魔王と戦うことを決めて地上に戻るジャスに、自分の持つ強力な魔装具や魔道具を持たせようとしたが、あらかた断られた。
『ヒトを超える力は、ろくなことにならない。』
それはジャス自身のことだろうか。
1つだけ言いにくそうにねだったのは、水の精霊の力を宿した翡翠色の短い杖。
『ずっと支えてくれた奴に渡したいから。』と言ったジャスの優しい顔に妬み、つい聞いてしまった。
『私は君の支えにならなかったのか?』
多分、寂しそうな顔をしていたのだろう。
ジャスは私の髪に手を伸ばし、簪をひとつ抜いた。
『これが一番好きなんだ。』
深い蒼色の、海の力を宿した宝玉が煌めく銀の簪。
『貸してくれる?』
贈る、と言うとジャスは首を横に振った。
『必ず返しにくるから。』
めったに笑わないジャスが、精一杯の笑顔を作ってくれた。
『また貴方に会いにくるから待ってて‥ボクとアリスを。』
それがなぜ、薄汚く笑うこんな女の髪にあるのか。
海皇は王妃の首を斬り飛ばそうと、右手を構えた。
「お願い、ベリアル!」
「『飛行』!」
ベリアルに抱えられて、わたしは『飛行』で王妃に体当たりする。
べしゃっと泥に倒れた王妃の前に、構えた海皇の前に立ちふさがった。
「邪魔をするな!」
「『聖域』!」
海皇の指先からレーザーのように水流が放たれる。
一瞬、結界が金色に輝いて攻撃を受け止めたが、耐えきれずパリンと割れてしまった。
「お前は‥。」
海皇の冷酷な瞳がわたしをとらえた。
「たとえジャスの娘であっても、ジャスを汚した罰は受けてもらうぞ!」
「いいえ!」
雨の中、わたしは声を張り上げる。
「汚れてなんていません!」
「わたくしを汚れなんて‥。」
言いかけた王妃の口をベリアルが手でふさいだ。
「『泡沫』。」
その声で、何かに守られるようにわたしたちの周りだけ雨が止んだ。
見ると、ディックが彼の瞳のような碧色の杖を構えている。
「海皇様を刺激しないで。」
「ただの結界。そんなにもたないから早く。」
「なんだお前はー」
ディックの結界で動けるようになった1人が立ち上がり、海皇に向けて魔法を放とうとしたのをファンさんが蹴り飛ばした。
「全員、海皇様に礼をとれ!」
海皇‥とのざわめきで、次々と海皇に向かって深く頭を下げていく。
「王妃様も。」
背後でエリオスの声が聞こえたけれど、振り向く余裕はない。
「嫌よ、それはわたくしの‥。」
「『乾燥』。」
ベリアルの魔法がわたしを包み、びしょ濡れの身体と服を一瞬で温めてくれた。
そっと右手に、細い何かが握らされる。
「アリス、頼む。」
そう囁くと、ベリアルはわたしの右側で片膝をつき、海皇に臣下の礼をとった。
わたしはハンカチを出し、その上に『封魔の杭』をー父の形見の簪をのせ、一歩前に進む。
「お前たちに汚されたものなどいらぬ!」
「いいえ!」
わたしは引くわけにいかなかった。
「これは父が最期まで手にしていた大切なもの。」
王妃の愚かな行動を腹立たしく思うからこそ。
「その最期の想いは、こんなことで失われるような脆いものではありません!」
簪を胸に掲げるような形で、わたしも海皇の前で膝をついた。
「海皇様、お約束の簪をお返しいたします。」
「ふむ‥。」
海皇はわたしの手元の簪と、それからディックの杖を見つめた。
「そこの、碧の杖を持つ者。その杖を何故持っている。」
「‥叔父の形見です。」
少しの沈黙が流れ、ディックがそれ以上答えるべきか口を開くより先に、海皇がうなずいた。
「ジャスの想いは残っているのか。」
海皇はハンカチごと簪を取り上げ、わたしの肩に手をおいた。
「ジャスの娘よ、また海で会おう。」
海皇はわたしの目の前で巨大な龍の姿になり、勢いよく空へ舞い上がった。
「龍、だったの‥。」
黒雲を吹き飛ばし海皇が空に消えたあと、わたしたちが動き出すまでしばらくの時間がかかった。
それからは大人たちがあれこれ動き回る中、わたしたち学生4人はホテルのカフェで待機させられて、迎えの馬車に詰められてダリア魔法学園の寮に戻れたのは夕方だった。
海皇の豪雨でオアシスの湖が満たされ、枯れた水源に封じた魔人が消えてしまったこと。
会員制の高級カジノで、客と店員全員が服を残して身体だけが忽然と消えてしまったこと。
これらの事件を聞く前に、学園は夏休みに入った。