2年生7月:王妃
『封魔の杭』が気になり、かといってファンさんに近づける雰囲気でもなく、わたしたちはそのまま少し離れたカフェから様子を伺っていた。
エリオスがオペラグラスを持っていて、しかもアップにした映像を水晶のプレートに映して見せてくれるので離れていても不便はない。
みんなにオペラグラスと言ったけど、これビデオカメラとタブレットPCじゃないかな。
エリオスが前世の器具をどれだけ再現してるのか、いつか聞いてみよう。
「何か来た。」
ベリアルの視線の先に、ファンさんの方へ進む3台の馬車があった。
どれも大型の立派な馬車で、とくに真ん中の黒塗りの1台は金色の意匠が美しく施されている、高級なもの。
その馬車の掲げる旗をアップにしたエリオスがため息をついた。
「どうして王妃が‥。」
「王妃って、セドリック殿下のお母様?」
ベリアルが首を横に振る。
「いや、セドリックは第2夫人の息子。あの紋章は正妃のだ。」
「正妃はかなり面倒な方なので。」
「違う、『最悪』。」
控えめなエリオスの言葉をディックが訂正して、ベリアルに睨まれる。
「だからそういう言い方やめろって。」
「でも本当のことだし。」
「まあブレイカーくんは多少表現に気を配った方がいいと思いますが。」
エリオスは画面から目を外し、馬車の方を見る。
「これはファン先生に同情しますね。」
「どういうことだ!」
『封魔の杭』は王家の所有物だが、王家の人間に取り扱える代物ではない。
王国魔術師団がここまで運び、そのままファンのサポートにつくという話だったはず。
先頭の馬車が停まり、すぐに男性が4人降りてきた。
そのうちの1人、黒のローブを羽織った魔術師団員がファンに駆け寄り頭を下げた。
「すまん!」
ファンより一回り年上の彼は、魔術師団の副団長。
「王妃を止められなかった‥。」
魔王の脅威から解放されて十余年、現在の王国はこれまでない活気に満ちた平和な治世となっており、王の人気も悪くない。
そんな王の唯一最大の欠点が、溺愛する王妃カサブランカの存在だった。
正妃カサブランカは40を超えても無邪気で、傲慢で、美しい。
美しさを損なうのが嫌で、第1王子は産んだもののそれ以後の妊娠を拒んだため王はやむなく側室を迎えたが、その愛は今もカサブランカだけに向けられている。
3台目の馬車から黒服の執事たちが現れ、砂の上に赤絨毯を敷いてその周りで片膝をつく。
その場にいる者は王妃の馬車に頭を下げるしかなかった。
馬車の扉が恭しく開けられ、コツ、コツとタラップを降りる靴音が続く。
「出迎えご苦労さま。」
ゆったりと、甘く作った声。
「みな顔を上げて、わたくしの美しさを崇めるといいわ。」
その声は、離れたわたしたちのところまで聞こえた。
「相変わらず、ですね。」
エリオスが王妃の顔をアップにする。
真っ赤なドレスを白い肌に纏った王妃は、艶やかな黒髪を高く結い上げて、たくさんの簪を飾っていた。
その簪の1つに、わたしは釘付けになる。
「まあ、暑いところねぇ。」
左手に金色の扇を広げてはためかせながら辺りを楽しそうに見渡す、自信に満ちた姿。
絶世の美女と言われるほどの美貌だが、それが目の前にあってもファンには何の感慨もわかない。
「貴方が『魔核破壊者』?」
「‥はい。」
「ずいぶん若いのねぇ、それに素敵な顔立ちだわ。」
ファンの顎に彩られた指先が触れる。
むせそうになる、重い香水の匂い。
「わたくし、魔人が死ぬところを見たいの。」
王妃は優雅に微笑むと、髪の簪に指をかける。
「わたくしの一番のお気に入りを貸してあげるのだから、ちゃんと叶えてくださるわね?」
「熱いっ!」
左手の『召喚の環』が焼けるような熱を発した。
「なんで?!」
指輪を外そうと右手で触れたとたん、クララが小さな女の子の姿で現れる。
「誰だ?」
ベリアルたちを無視して、クララはわたしの手を引いた。
「アリス、こっち!」
「ちょっとクララ!」
可愛らしい姿でもクララは海の魔物。
立ち上がり、引きずられるように湖まで走らされる。
「アリス!」
追いかけてきたベリアルがクララを停めようと手を掴んだけれど、問答無用でクララはわたしたちを湖の中に突き飛ばした。
「もう、なんなのよ‥。」
「大丈夫か?」
浅瀬だったので先に立ち上がったベリアルが手を貸してくれる。
差しのべられた手をとろうとしたとき、水の中でパリンと『召喚の環』が砕けた。
「クララ?!」
クララは少女の姿で、嬉しそうにニコニコとしている。
消えていないことに安心したけれど、一体何が‥。
ドォンッ!!!
突如、湖に水柱が噴き上がった。
撒き散らされた水はバラバラと雨のように降り注ぎ、そしてそのまま雨が降り始める。
あっという間に青空は黒雲に覆われていた。
「見つけた。」
水柱から現れた蒼い影が、わたしの横を通りすぎる。
(動けない‥!)
砂漠のオアシスに豪雨が降り注ぐ。
暗い海の底に放り込まれたような、全てを押し潰す冷たい気配。
わたしを庇うように寄り添うベリアルの身体が震えていて、彼の体温がこの異様な空間が現実であることを思い留めさせてくれる。
「‥ようやく見つけた、ジャス‥。」
海皇の呟きは、豪雨の中、恐ろしく静かに、オアシスにいる全ての生き物に突き刺さった。