2年生7月:催眠
修学旅行の神山研修で魔力や魔法がレベルアップして、クラスの半分がレベル25を超えたので最近は授業が実技ばかりになった。
それぞれ専門講座に別れるので、朝のホームルームしかA組に揃わないことが多い。
それも朝イチから討伐実習に行く人もいて、今朝来ているのはクラスの3分の2くらい。
「ねえアリス、夏休みにダンジョン行かない?」
あと5分でホームルームが始まる教室で、リリカが遊びの誘いのように地図を広げた。
「ここのダンジョンに欲しい鉱石があるの。わたしもやっとレベル25になったから、一緒にどう?」
「ダンジョンってそんな気軽に行くものなの?」
「ここは難易度低いし、白濁湖を攻略したなら楽勝よ。」
わたしは治ったはずの左胸の傷が、ピリッと痛んだ気がした。
白濁湖でセドリック王子に刺された傷痕は、ベリアルの協力でもう跡形もない。
だけど修学旅行で見た彼の本質は、わたしの心を今も怯えさせる。
セドリック王子は今日も左斜め後ろの席で、朗らかにベリアルと話している。
「彼氏と一緒に行かないの?」
地図を見ると王都からかなり離れた鉄道沿いの街にあるダンジョンで、鉄オタカップルのいい旅行先だと思う。
「もちろん一緒よ。」
「‥遠慮するわ。」
修学旅行の夜に恋人たちの赤裸々な話を聞かされて、そこに混じる気になれない。
「夏休みは組合で仕事する予定だから。」
「‥組合って変な依頼もあるらしいわよ。」
リリカは心配そうに眉をひそめた。
「アリスってすぐ騙されそうで心配だわ。」
「エリオスが一緒だから大丈夫よ。」
「ウォール先輩もすぐ人を信じて騙されそうじゃない?」
リリカの台詞に一瞬固まってしまう。
3年生のエリオス・J・ウォールは品行方正、人当たりが丁寧でみんなに優しい元生徒会長。
理想の王子さまのようなルックスと笑顔で、学園内で絶大な人気がある、のだけど。
「それはない。」
「それはないわ。」
わたしと、なぜかベリアルの声がかぶった。
「あらベル、女の子の話を盗み聞くなんてよくないわよ?」
リリカがちょっと意地悪に言う。
「隣の席で話してれば普通に聞こえるよ。」
「そうかしら?」
「みんなおっはよー。」
スパンと教室の扉が開き、担任のハンス・クラレール先生が勢いよく入ってきて、リリカの話はここまでになった。
(リリカ、気づいてないんだ。)
エリオスはわたしと同じ転生者で、元公安の潜入捜査官。
見た目どおり優しい人だけど、その策士ぶりにわたしはなんだかんだと絡めとられつつある。
「マーカーくん。」
祖父から『しばらくはエリオスくんと一緒に組合の仕事を受けるように。』と条件付けられてしまって。
「マーカーくん。」
エリオスのことを勘違いしてそうなのよね‥。
「マーカーくん!」
パン、と頭を軽く叩かれて見上げると、ハンス先生がノートを構えてすぐそばに立っていた。
「あ‥。」
「朝から寝ぼけないでよねー。」
「すみません。」
すねたような表情のハンス先生からノートを受けとる。
「ちょっと話があるから、放課後、僕の教室に来てね。」
「アリス・エアル・マーカーです。」
放課後、ハンス先生の部屋をノックすると、先生が扉を開けてくれた。
中からふわっと甘い香りがこぼれる。
「急に呼んでごめんね~。」
魔法の灯りがあちこちに点る部屋の中に招かれ、促されて先生の机の前に置かれた丸イスに座る。
カチリ、と背中から小さな音が聞こえた。
「『組合』に登録したんだって?」
目の前の自分の椅子にゆったりと腰かけたハンス先生が、1枚の書類を机に置いた。
「学園に組合から本人照会がきたよ。」
「いけなかったでしょうか?」
冒険者登録はレベル25以上なら誰でもできると聞いていたけど、何か学園に届けが必要だっただろうか。
「‥これを見てくれる?」
ハンス先生が握りしめた拳を差し出したので覗きこむと。
「『催眠』。」
開いた拳から溢れた強い光で目の前が真っ白になって。
‥わたしはすぐに暗闇に堕ちた。
「魔法は有効か。」
ハンスは砂時計をひっくり返す。
念のため照明や香りで効きやすい環境を作ったうえでの魔属性魔法『催眠』発動。
この部屋にも魔法発動を気づかれないように、先に結界を張っている。
ようやく学園長が出張で学園を不在にした、数少ないチャンス。
「薬の方が確実だけど、効かないしなぁ。」
暗殺防止で毒物を無効化する魔道具はいろいろと開発されている。
魔人『悲哀』の猛毒にも耐えたところをみると、アリスはかなり上位の対抗アイテムを持っているはずだ。
「アリス、聞こえる?」
「ーはい。」
無防備な返事に満足する。
「白濁湖で行方不明になったのはどうして?」
「‥‥‥。」
目を閉じたまま、アリスはぎゅっとブラウスの左胸を握った。
「何があったか教えて?」
ハンスはとてもとても優しい声で重ねて尋ねる。
「湖の中で、セドリック王子に胸を刺されました。」
「‥ふーん‥」
ハンスは無造作にアリスの赤いタイをほどき、胸のボタンを外す。
白い、極めの細かな肌があらわになる。
「傷は自分で治したの?」
「海皇さまとベリアルが治してくれました。」
失踪の翌日、アリスを連れて白濁湖に現れた人ならざる者『海皇』。
「どうして海皇がアリスを助けるのかな。」
「父の友人だからだと思います。」
「海皇がそう言ったの?」
「はい。」
英雄ジャスパー・イオス・マーカーと海皇との関係なんて聞いたことがない。
今のことにあまり関係ないかと、ハンスは質問を変える。
「どうしてセドリックに刺されたの?」
「わかりません。」
「刺されたことは誰が知ってる?」
「海皇さまと、クララと、ベリアル。」
「クララって誰?」
「海皇さまのクラーケンです。」
海皇を頭に乗せていたクラーケンを思い出す。
「ランスくんが知ってるのはどうして?」
「ベリアルが傷痕に気付いたからです。」
「ーへぇ、そうなんだ‥。」
ハンスは震える指でアリスのボタンを留めて胸元を整える。
ベリアル・イド・ランス。
アリスの隣の席の、成績優秀な生徒。
誰とでも仲が良いので、アリスと話しているのも特に気にしなかったが。
胸の傷に気付くシチュエーションなんて、ひとつくらいしか思いあたらない。
砂時計の砂が全て落ちた。
「これね、『組合』で生徒が仕事を受けるときの注意事項。」
ハンス先生が差し出した紙は箇条書きのリストだった。
「基本、依頼内容と結果は組合から学園に報告されるから。」
「はい。」
「授業優先してほしいけど、依頼の結果を単位として認めることもあるから、重要な事案なら依頼優先していいよ。」
「そうなんですか?」
「ダリア魔法学園は実践第一主義だからね。」
ハンス先生がへらっと笑う。
「だから僕はダリアに居るんだよ。」