2年生6月:修学旅行(8)
水の音にひかれて、川に足が向かっていた。
施設の裏に川というか、湧き水のようなきれいな流れがある。
昼間に少し歩いていたから、不安なくたどり着いた。
「冷た‥。」
しゃがんで流れに手をひたすと、指の間をひんやりと水が通りすぎていく。
「わたしも流れていきたいなぁ‥。」
わたしはアリス・エアル・マーカー子爵令嬢、英雄ジャスパー・イオス・マーカーの娘にして、魔王を倒す聖女。
ハンス先生が『勝てない』と言い切る魔王に、『騎士』たちと立ち向かわなければならない。
「今だけだから‥。」
今日は思いがけないことか続いて、ちょっと困ってしまっただけ。
大丈夫、わたしは大丈夫。
優しいクラスメイト、頼もしい攻略キャラ、偉大な父親、チートな魔力、奇跡を起こす魔法。
ちゃんとこの世界でできているから。
期待は選択を狭める。
小学生で全国制覇したあとは、当然中学生、高校生と同じ結果を求められ、いつの間にか空手はわたしが上り詰める唯一の手段になっていた。
好きで始めたはずだったのに。
真っ直ぐ引かれた一本道を踏み外さないように渡って。
渡りきった先に、自由があるのだろうか。
「それでも必ず、魔王を倒してみせる‥!」
わたしは立ち上がり、両腕を構えて深く息を吸う。
「はっ!」
何百回も稽古した、わたしの一番好きな『形』。
突きも蹴りも、ただ無心に。
無心に、舞い続ける。
「はあっ!」
最後の突きの踏み込みで、じゃりっと足元の小石が鳴った。
静かな夜に、わたしの呼吸と、そして拍手が響いた。
「誰っ?!」
「ごめん、びっくりさせて。」
「ベリアル?」
少し離れたところから、小さく拍手をしながらベリアルが近づいてきた。
「凄く綺麗な動きで、思わず見てしまったんだ。」
ベリアルはすぐに頭を下げた。
「覗くような形になってしまったことを許してほしい。」
「いえ、見られてどうということは‥でも他の人に言わないでくださいます?」
「もちろん。でもどうして?」
「子爵令嬢としてふさわしくないから。」
「‥前から思っていたけど、アリスは『子爵令嬢』を気にしすぎじゃないか? 」
(だって、)
わたしの礼儀がなってないと、母が悪く言われる。
身分が低いから、育ちが悪いから、と。
「わたしがきちんとしたいだけです。ベリアルはどうしてここに?」
「もう少し奥に上がると蛍がいるらしいんだ。」
「ホタル‥ですか。お一人で?」
そんなことならセドリック王子たちも来そうなものだけど。
「ちょっと蛍の思い出があって、こっそり出てきたんだ。」
「そういうことなら、わたしは失礼しますね。」
戻ろうとするわたしの手をベリアルが引き留める。
「一人で帰るのは危ないから送るよ。」
「神山の敷地内ですし、大丈夫でしょう。」
「いやそういうわけには‥それなら少し俺に付き合ってくれない?」
ベリアルはわたしの手をとったまま、流れの上流の方に歩き始めた。
「ちょっと、ベリアル。」
「蛍に逃げられるから静かにね。」
そう言われると文句も続けにくい。
(まあいいか。)
わたしも蛍を見たい気がするし。
「ほら。」
ベリアルの指した方を見ると、小さな光がいくつも、ふわふわと飛び交っている。
「綺麗だろう?」
わたしは蛍の光を見ながら、いつかの出来事を思い出していた。
まだただの『アリス』だった、フォッグ・アイランドの村ですごした最後の夏。
秘密の湖で、湖面いっぱいに反射して幻想的だった蛍の舞踊。
凄い凄いと一緒にはしゃいだのは誰だった?
「‥綺麗ね‥。」
並んで飛ぶ二匹の蛍の光がぼやけて、わたしはそっと目元をおさえた。
(ああ‥。)
形式的にはベリアルとのデートイベントが発動しているのに。
『ねえ、アリスは誰が好きなの?』
昨夜イマリに聞かれて濁した返事。
最後の夏に寄り添ってくれた貴族の青年。
お互いに名前を知らないまま、前世の記憶の反動で彼の顔も思い出せない。
ただ左手の『破邪の指輪』の痕跡だけが、おぼろげな気持ちを信じさせてくれる。
すこし子供っぽくむきになるところや、ちょっとしたことにはしゃいでくれるところが。
貧しいわたしに寄り添ってくれるさりげない優しさが。
独りじゃないよと差しのべてくれる手のあたたかさが。
覚えている、思い出せる、あの最後の夏。
わたしは、彼が好きだった。