2年生6月:フェア
誰にも負けたくない。
わたしはただ真っ直ぐに右拳を撃ち抜く。
もし相手が小細工してきても関係ない。
それをねじ伏せられなかったら、自分の稽古が足りなかったということ。
これが亜里朱の目指す『正々堂々』の勝負。
「フェア‥そうね、わたしはフェアでありたいと思っているのかもしれないわ。」
「アリスの基準はすごく厳しいよね。」
「厳しい?‥そんなこと‥。」
わたしは転生で強大な魔力を与えられただけ。
ダリア魔法学園に入るためにみんなが費やした努力を、わたしはこれから払わないといけない。
「アリスって人を責めないだろ。」
「だって、責めてもなにも変わらないでしょう。」
自分の置かれている状況を好転できるのは自分だけだ。
負けるのが嫌なら、自分で立ち上がるしかない。
「ミス・アーチャーやウォール先輩がらみの嫌がらせにも怒らなかった。」
「あれはわたしがみんなの納得する実力を示せなかったせいです。」
A組に、エリオスに相応しい人間だと認められていれば起こらなかったこと。
「‥だから自分が傷つくのは『ずるい』と‥。」
ああ、とベリアルは苦笑した。
「うん‥やっぱりアリスは保身のための嘘なんかつけないよ。」
ベリアルはわたしの手を両手で包み込む。
「セドリックのことは俺も気をつける。だからこれからは、何かあったら俺に相談してくれないかな。」
「どうしてベリアルに?」
「俺はアリスの友人になれない?」
「‥ベリアルは‥。」
ベリアルの手から伝わる熱は、なんだか懐かしくて安心する。
わたしはこれまでの緊張がほどけていくのを感じた。
「貴方は、わたしの素敵なお友達ですわ。」
心から浮かび上がった言葉。
「うん‥ありがとう。」
ベリアルはもう一度力を込めてから、わたしの手を放した。
「委員会の仕事、俺も手伝うよ。」
「あの、わたしに何かご用だったのでは?」
「それはもういいんだ。2人で片付けて寮に戻ろう。」
それからベリアルと残りの水撒きを終えて、流れで一緒に寮まで帰ることになる。
帰り道、周りに聞こえないように小さな声で。
「胸の傷だけど、消す薬があるから取り寄せようか?」
「消せるんですか?」
「ああ、王宮にツテがある。でも消すとセドリックのしたことを証明できなくなる。」
真っ赤なこの傷をまた誰かに気づかれたら面倒なことになる。
ベリアルだからわたしを信じてくれたけれど‥。
「その薬、お願いしていいですか?」
「アリスはそれでいい?」
「王族と争う時間はありませんし、このことはベリアルも秘密にしてもらえませんか。」
「わかった、約束する。」
ベリアルが小指を差し出したので、わたしも絡めて指切りをする。
「(‥せっかくキレイな肌なんだから。)」
「何か言いました?」
「いや、あれ? なにかいつもと雰囲気が違うな。」
寮に近づくと、2年生棟の入口がなんだか騒がしかった。
そわそわ、ざわざわした視線の先で、夕焼けの中にエレガントに門に佇む人影は。
「アリス!」
わたしの姿を見つけると、エリオスは読んでいた文庫本を閉じて足元の鞄にしまってから。
何か言う間もなく、正面からぎゅうっとわたしを抱きしめた!
「きゃあっーーー!」
「ウォールさまぁーーー!」
彼を遠巻きに囲んでいた女子生徒たちの悲鳴を無視して、エリオスは硬直するわたしの耳元に甘く囁く。
「‥会いたかった、アリス‥。」
ーベリアルが見ている。
「やめてくださいっ!」
ドクンと心臓が高鳴り、わたしはエリオスを突き飛ばしていた。
「アリス?!」
とても驚いたエリオスの表情に、わたしは目を伏せる。
「すみません、今日は疲れてしまって‥。」
取り落とした鞄もそのままに、わたしは寮の中に逃げ込んでしまった。
自分の部屋まで駆け上がって、ベッドに身体を投げ出す。
うつ伏せで枕を抱きしめていても、胸の音がうるさく響いていた。
(どうして‥?)
いつものように、キラキラと輝いていたエリオスの甘い笑顔。
わたしを包みこんだ優しい香り。
(どうして‥。)
わたしは嫌だと思ったの?
ベリアルはアリスの鞄を拾い上げる。
「ウォール先輩、こういう目立つことはやめてもらえませんか?」
感情を抑えたベリアルに、エリオスは余裕たっぷりの大人な笑顔を向ける。
「なぜでしょう?」
「またアリスが先輩のファンに嫌がらせされたらどうするんですか。」
「ああ、そんなことですか。」
「そんなこと?」
「クラーケンに独りで立ち向かう彼女が、低俗な嫌がらせに負けるわけありませんから。」
「あんたっ!」
「ここでもめるのはお互いメリットがないですね。」
周りの好奇心いっぱいの視線に、ベリアルは怒りを飲み込んだ。
「‥ウォール先輩はアリスをどうしたいんですか。」
「彼女は特別なんですよ。」
エリオスは周りに聞こえる声ではっきりと言う。
「初めてほしいと思った女性です。」
きゃあっとまた周りにざわめきが拡がる。
「こういうのはフェアじゃない。」
「このくらい、まだかわいい方だと思いますよ。」
エリオスも自分の鞄を手に取った。
「それではランス会長、アリスに鞄を届けてあげてくださいね。」
「‥聖女を取り巻く状況についていけない‥。」
ファンの報告を受けた学園長は珍しく頭を抱えた。
「海皇のことを王に報告するのも難儀なのに、セドリック王子の聖女殺傷疑惑って‥。」
セドリック王子の強引な留学は、『復活』の情報を王家が手に入れるためではなかったのか。
それが聖女を殺すためとなると、話が180度違ってくる。
さらに海皇の庇護を聖女が受けているのなら、彼女が殺された場合、王国と海皇の不可侵協定が破棄される恐れもある。
「海皇ってなんですか。」
「ああ、若い世代は知らないか。」
海皇は魔王と同等の力を持つ、海の魔物の支配者だ。
ただし人間に敵対する意思はなく、魔王と王国の争いが始まった当時、王国は海皇に不可侵協定を申し込んだ。
「航路に魔物が現れても攻撃不可、と聞いたことがないか?」
「船を魔物が襲うとは聞いたことがありません。」
「ああ、不可侵協定があるからな‥だから去年のクラーケン事件は大騒ぎだっただろう?」
「あれは学園の結界内に魔物が浸入したからでは。」
「プラス、クラーケンだったからだ。」
クラーケンは海皇の遣いと言われている。
事実、白濁湖で海皇はクラーケンに乗って現れたのだから、伝承は本当なのだろう。
「当面の問題は修学旅行か‥。」
聖女だけ不参加にできないだろうかと、学園長は本気で考え始めていた。