2年生5月:帰還
亜里朱、起きて亜里朱。
今日のお弁当、亜里朱の好きなものいっぱい入れたから。
大会頑張ってね、亜里朱。
お母さんのお弁当大好き。
おにぎりも卵焼きも唐揚げも。
今日も優勝して、トロフィー持って帰るからね。
「お母さん‥。」
ごめんなさい、わたしまた死んじゃったみたい。
「ママ‥。」
お手紙の返事、読んでくれたかな。
‥わたし頑張ったんだけど、なにを間違えたのかな。
‥どうしてわたしの胸に、剣が刺さっているのかな。
「娘よ、泣くな。」
こぼれた涙を冷たい指が拭う。
「この館に好きなだけ居ればよい。‥ジャスが居たように。」
「剣が落ちてた。」
桟橋に泳ぎ着いたディックにベリアルが手を貸す。
「これ拾ったからずぶ濡れだよ‥。」
『潜水』の結界を解除しないと水中のものを手にできないのが、この魔法唯一の欠点だ。
「俺がすぐ乾かしてやる。」
ベリアルの火属性魔法なら髪も服も一瞬で乾かすことができる。
「ありがと。」
岸に戻り乾かしている間に、拾った剣の検分をエリオスが始める。
「ずいぶんきれいな剣だな。」
抜き身の剣は錆びひとつなく、柄に埋め込まれた魔石も充分な輝きを放っている。
エリオスが柄を握り魔力を流すと、刃が淡く銀色に輝く。
「聖属性武器か。」
「それ、セドリックのです。」
一瞬に死霊と闘ったベリアルは見覚えがある。
「水中で殿下が剣を抜いた?」
「俺はクラーケンを見ました。そのためではないですか。」
「クラーケンね‥。」
「ここにクラーケンが?! 俺たちそれ聞いてない。」
声を上げたディックの後ろ頭に、ペシッと突っ込みが入った。
「なに‥って、」
振り返ったディックは文句をのみこむ。
「またお前たちか‥生徒が首を突っ込むな。」
ファンが不機嫌さを隠さない態度で3人を睨み付けていた。
「地上に帰る、がお前の意志でいいのだな。」
「はい、わたしにはすべきことがあります。」
「それはお前の『したいこと』なのか?」
彼はここに滞在してる間、何度も何度もわたしに尋ねた。
致命傷だった左胸の傷は、紅い痕になって残ってしまった。
お前を傷つける地上に戻る必要があるのか。
‥なぜセドリック王子はわたしを刺したのか。
クララがわたしをここに運んだとき、間一髪だったと彼は言った。
ヒトを生き返らせるなんてやったことがないから、死んでなくてよかったと。
回復に1週間ほど、そのあともずるずると2週間余りが過ぎてしまった。
「ずっとそれを気にされますね。」
「ヒトは難儀だ。ジャスはいつも『自分らしく生きたい』と言うのに、無理をして戦場に戻っていった。」
「無理をしてた?」
「ジャスは魔術師の自分を嫌っていた。」
「父は、『聖戦の英雄』と呼ばれる魔術師です。」
「さよう、才能が魔術師以外を許さなかった。」
「‥本当に父と親しかったのですね。」
「ここだけが、ジャスが自分に戻れる場所。」
地上に帰るのなら、と彼はひとつ念を押す。
「ジャスの簪を見つけてくれ。」
彼は父のことを話すとき、たまに泣きそうな表情を見せる。
「私の、とても、とても大切な想い出だ。」
「特にウォール、お前は何も関係ないだろう。」
「自分はアリスの特別な関係者だ。」
エリオスの言い回しに、残り3人はそれぞれ微妙な表情を浮かべる。
「ここに彼女はいない。彼女が生きているうちに早く見つけないと。」
「いるかいないか調査中だ。」
「いない!」
「ピーーーー!!!」
突然、警笛が辺りに響き渡った。
「全員上がれ! 何かが来る!」
魔法で拡声されたハンスの指示に、捜索隊が次々と水中から飛び出す。
アリスの担任、ハンス・クラレールの『魔力感知』はかなり信用できるものだ。
「お前たちも退避しろ!」
ファンはベリアルたちに言い残し、すぐさま本部テントへ走る。
「アリスー。」
GPS感知プレートを見たエリオスが、現れた光に目を見開いた。
桟橋の少し先の水面が盛り上がり、蒼い球体が現れた。
警戒のため岸の前面にファンとハンスが立ち、その後ろに学園長が控える。
「クラレール先生、何かわかるか?」
「無理。向こうの魔力が大きすぎて何もみえない。」
ハンスの答えにファンは腰の武器に手を伸ばす。
ここにいる人数を逃がす時間を稼がないと。
「そう警戒されると悲しいな。」
朗々と男性の声が響き、パンッと球体が割れた。
中から現れたのは、赤くぬらっとしたクラーケン1体と、その頭の上に立つ2つの人影。
その1つを触手が絡めとり、そっと桟橋へ降ろした。
桟橋から岸に、濃紺のローブの裾を優雅に歩を進めるのは、長い黒髪を高く結って簪を飾った、この世のものとは思えない美しい男性。
「みんな、座って。」
学園長の指示に、その場の関係者が一斉に片膝をついて頭を下げた。
「お前が『ダリア』か。」
「お初にお目にかかります、海皇さま。当代の『ダリア』を預かっております。」
学園長が顔を上げて答えた。
「あの娘の親族はおるか。」
学園長の後ろにいたマーカー子爵が顔をあげる。
「お前か‥。」
海皇はしばらく子爵の顔を眺めていたが。
「ジャスとさほど似ていないな。」
海皇が片手を上げると、クラーケンがもう1人を海皇の隣に降ろした。
「お前たちに還そう。」
引き戻る触手に乗り、海皇はクラーケンの元に戻る。
「娘よ、約束を忘れるな。」
また蒼い球体が彼らを包む。
「そのとき、全てを話そう。」
球体が湖に消え、それまで場を支配していた海皇の影響からみんながようやく息をついた。
ほんの数分のことだが、ヒトならざる者の存在は魂を削られるようなプレッシャーがある。
「アリス。」
マーカー子爵が立ち上がり、彼女に近づく。
「おかえり、アリス。」
「おじいさま‥。」
アリス・エアル・マーカーが失踪して23時間後のことだった。