1年生1月:前世
こん、とお互いの額がぶつかる。
そのまま頬をすべらせたエリオスが、わたしの耳元で囁く。
「期待、した?」
ふれあわなかった唇が。
「すみません、わたしっ‥、」
当然、キスされると思っていた。
恥ずかしさに体をよじって離れようとすると、優しく手を掴まれた。
「ごめんね、アリスが可愛いからついからかってしまって。」
見つめるエリオスの余裕が悔しくて、わたしは真っ赤になってしまった顔をぷいとそむける。
「そんなに怒らないでください。」
「‥怒ってないです。」
「じゃあ恥ずかしい?」
わかってるなら聞かないでほしい。
「‥だって、いつも先輩のペースで。」
「それは仕方がない。」
エリオスは手を引いてわたしを立ち上がらせる。
「アリスよりきっとずっと大人だから。‥ゆっくり話せる場所に行きましょうか。」
エリオスに劇場近くの2階建ての家へ案内される。
「『解錠』」
表札の無い木の扉を押し開けた先は、そこそこに片付けられたさっぱりした部屋。
すすめられるまま、ダイニングチェアに座る。
「どうぞ。」
エリオスが出してくれたのは、湯呑みに注がれた緑茶だった。
茶葉の香ばしい匂いが懐かしいかも。
「ありがとうございます。こういう緑茶って、ずいぶん久しぶりです。」
まろやかな甘味が口に広がる。
「美味しい!」
「喉が乾いたでしょう。まさか泣くほど感動してくれるとは思いませんでした。」
「『オペラ座の怪人』ですか? だって女優さんの歌、すごくなかったです?」
「オペラ座の『亡霊』ですよ、遠野亜里朱さん。」
空になった湯呑みに、エリオスが急須でお茶を注ぐ。
こぽこぽと、ゆっくりと。
「ここは変わった世界だと思いませんか? 中世ヨーロッパ風の、剣と魔法の世界。だけどどこか元の世界に繋がっている。」
「‥エリオス先輩は元の世界を覚えているんですか?」
「生まれたときから‥いや、死んだときからずっと覚えていますよ。」
エリオスは胸元から小さなケースを出すと、中のカードを1枚、わたしの前に置いた。
『地栄 将人』
日本語名だけの、シンプルな名刺。
「公安の警察官でした。」
「警察官!?」
「‥そんな驚くところ?」
「だって、そんな硬い人に見えないし!」
エリオスはいつも距離が近くて、すぐあちこち触ってくるし、なんだかどぎまぎさせるし。
「今は『エリオス・J・ウォール』、公爵家嫡男なりの振る舞いをするでしょう。」
たしかに今のエリオスの姿は乙女ゲームの王子様のイメージそのもので。
「それに警官っていっても公安ですし。」
「‥公安って何する人ですか?」
「ドラマとかで見ませんでした? 秘密警察みたいな、潜入捜査するところですよ。」
「潜入捜査してたんですか?」
「ホストクラブに潜入してホストやってました。」
ホスト‥!
「絶対、そっちが天職だと思います!」
「まあ実際、売り上げはよかったですけどね。」
「どうして亡くなったんですか?」
「人身売買組織を追ってたんですが、子どもを逃がそうとしてミスりました。」
バン、と指でピストルの形を作ってみせる。
「東京湾に沈められて、意識が戻ったのがこの世界で生後1週間くらいのときですね。」
体が赤ん坊すぎて困りました、と笑う。
「まあこうして今は優雅な貴族生活ですし、死んだのも悪くなかったかなって。」
「‥そんな、寂しい笑顔見せないでください‥」
「いいんですよ、天涯孤独で悲しむ家族もいませんでしたし。」
死んでしまった事実は変わらないけれど。
だけど。
「地栄さんが大切に思っていたことを、なかったことにしないでください‥!」
「なんで君は、そう人のことで怒るかなぁ‥。」
将人は立ち上がると、座ったままの亜里朱を後ろから抱き締める。
「君は死にたくなかったんだね?」
だって、お母さんを独り残してしまうなんて。
アリスが亜里朱を思い出してから、誰にも話せなかった気持ちが涙とともに溢れる。
「お母さん‥!」
『ショウ兄ちゃん!』
ショウ、という偽名で潜入していたとき、家出少女にやたら懐かれたっけ。
養父に暴力を受けるのが嫌で繁華街をうろついていて、夜明けに牛丼を食べさせたりしていた。
そんな少女たちを食い物にする大人たちがたくさんいて。
例にもれず彼女もそんな糞野郎に引っ掛かってしまって。
「あの子、結局逃がせたんだっけ‥。」
泣き続ける亜里朱の頭を優しく撫でながら、将人は彼女の笑顔を思い出していた。