16年前:港町で
国境の山脈付近に現れた魔王軍は、王都へ向かって着実に進行していた。
山あいの村人たちは逃げる間もなく魔物に食い散らかされ、いくつもの集落が滅んだ。
王都の北西にある大教会の本拠地『聖都』。
ここを魔王軍との決戦の場とし、王都への侵入を食い止めるべく王国中から兵士が集められている。
女子供、老人たちは王都から南へ脱出し、潮風が気持ちいい港町は疎開してきた人々で溢れている。
教会のシスターたちは連日炊き出しを行い、母親たちの不安を受け止め、みんなお互い助け合いながらなんとか生活を維持していた。
「シスター、浜辺に女性が倒れていました!」
担架で運ばれてきた女性は痛みに体を丸めているが、そのお腹はスイカが入っているかのようにまん丸だ。
「あなた、臨月ですか?!」
痛みに歯を食いしばったまま女性がうなずく。
「破水してる‥すぐ病院に運んで。ドクターは?」
「呼んできます!」
併設の病院ですぐに女性の分娩が始まった。
「息、ゆっくり吐いてくださーい。」
「はい、いきんで!」
「ほら頭がみえたよ、頑張って!」
ふええぇと赤ん坊が元気な産声をあげたのは、12月24日の日暮れ後のことだった。
マーサは夜中にトイレから戻る途中、赤ん坊の泣き声を聞いた。
3日前に死産となった彼女の小さな娘は荼毘にふされたものの、まだ乳房はパンパンに張っていて、痛みで眠れずにいた。
「アリス‥ごめんなさい。」
震える声のあと、カタン、ガサガサと奇妙な音が続いた。
声が聞こえた病室を覗くと、綺麗に整えられたベッドの上で、おくるみに包まれて籠に入った赤ん坊がふえふえと泣いている。
「お母さんは‥?」
開いている窓から冬の冷たい風が流れ込んでくる。
窓を閉めて赤ん坊を抱き上げると、籠の中に1通の封筒と金貨10枚が入っていた。
捨てたの?
マーサは昼間運び込まれた妊婦のことを思い出す。
腕の中の赤ん坊はとても小さくて柔らかくて。
空を掴むように動く指先に触れると、マーサの指をぎゅうっと握りしめてくる。
そんな愛しさに抗えるものか。
マーサは赤ん坊に母乳を飲ませながら、ふつふつと怒りが沸き上がってくるのを感じた。
金貨10枚は、マーサなら1年暮らせるほどの大金だ。
きっといいところのお嬢さんだったのだろう。
家族に妊娠を言い出せず、都から離れた土地でこっそり産んで、お金と一緒に捨てていく。
マーサはシングルマザーで生きるために無理にぎりぎりまで働いて、それで早産になって赤ん坊を死なせてしまったのに。
満腹になった赤ん坊は、腕の中でスヤスヤと眠ってしまった。
マーサはそうっとベッドの上に寝かせ、自分の病室に1度戻って荷物を持ってきてから、金貨を1枚だけベッドの上に置いた。
また赤ん坊を籠に入れて、籠を抱えて窓から外へ出る。
「アリスちゃんというのね。」
きっと母親が赤ん坊を連れて出ていったようにみえるだろう。
夜のうちに少しでも遠くへ行こう。
『マーカー子爵様』
封筒は開けなかった。
どうせ字は読めないし、誰かに読んでもらうわけにもいかない。
何が書いてあるのかわからないのだから。
『突然のことで驚かせてすみません。
アリスと名付けました。
わたしの大切な娘、アリス・エアル・マーカーをよろしくお願いします。
平和な世界を勝ち取ったら帰ってきます。』
封筒の裏にはただ『あなたの子供より』と。
マーカー家の紋章で封印されたこの手紙を、マーサはずっと捨てられなかった。